決 〜終焉・韜晦ノ向コウ側〜
これは悪魔に魂を奪われる少年の話
青年がまだ人を殺す術を知らない少年時代 手を血で赤く染める以前の記憶
少年の周りには仲間がいた 血の繋がりのない家族がいた
親に捨てられたり 親が死んでしまい 引き取り手のいない孤児達
日々の食事のほとんどは犯罪に手を染めながら得ていた
時には奪い 時には騙し 時には盗む
世界は殺伐としていながらも 少年の周りはあたたかかった 血族ではないけど
兄貴分で慕った人がいた 姉貴分で甘えた人がいた 妹分で頼りにされた人がいた
血の繋がりはないけど それでも彼らは本当の家族だった 尊い絆で繋がれていた
飢えていない時などなかったが 凍えていない時などなかったが それでも少年は幸せだった
少ないながらも稼いで給料が出た時の食事 一人一個のパンを食べられる幸福
その時の笑いあいながら食べる団欒
風や雨や雪の日で凍えた時 みなで固まり暖をとり 重なり合ったまま寝る夜
それでも眠れぬ夜はみんなで子守唄を歌い
少年はいつも少女を寝かしつけ 髪を撫でながらいつの間にか自分も寝てしまう
その隣にはいつも義兄と義姉がほほ笑み 最後まで歌を歌い続けた
”〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜 ・・・・・・ 〜〜〜〜〜”
ゆっくりとした音調で紡がれる優しい歌 それはいつも少年少女たちをあたたかくさせる魔法の歌
憎しみや悲しみや苦しみから救いの手を差し伸べる
軋んで歪んで狂って壊れた世界から一時だけ乖離するかのような穏やかな歌
少なくともこの瞬間 この時間だけは世界は彼らに優しかった
自分を捨てた親を憎しむ心や 親に捨てられた悲しみや 生き続けることの苦しみを
すべて忘れてただ単純にみなで過ごせるこの日々を楽しく生きれた
憎むべきあの時があの瞬間が あの場所で起きるまでは・・・・・・
それは血も凍る冬の季節 廃墟と化したビルの中 彼らは寝床を探し歩き回っていた
満足な服も纏わず 凍える両手に息を吐きながら 白く積もる雪の上を歩く
腕の中には先程盗んだ少量の食料 三日ぶりの食べ物があった
しかし 彼らはミスを犯した 盗まれたのに気付かれた その場は辛くも逃れられたが
時間を空けて寝床に戻ると そこには大人が二人立っていた
伸びる大きな手をかわし 怒号に背を向けて四人の子供は走り出す
共に手を取り合って 共に助け合いながら 命からがら逃げ惑う
手に持った食料を落としながらも逃げ回る
走る走る走る 少年は恐怖に顔を歪めた義妹の手を握りしめ 走り続ける
なれた路地裏に入り込み 狭い道なき道を駆け抜ける
どれだけ走ったのだろうか解らない 焼けつく肺と棒になった足は悲鳴をあげる
吐く息はどこまでも白く 吸う空気は冷たく急速に体を冷やしていった
二人の大人はここにはいない しかし もうあの場所には戻れない
シンシンと降り始めた雪の中 みなで新しい寝床を探し歩く 温かい寝床を求めさ迷い歩く
汗だくになったボロの服 外気で冷やされ熱を奪っていく
少女は泣いている 少年も泣きそうになるのを必死にこらえる
ひもじくて辛くて寒い
なんで僕らがこんなめに遭わなくちゃいけないの?
なんで世の中は僕らに辛く厳しくあるの?
なんで誰も手を差しのべてくれないの?
挫けて折れそうになる少年の心
””〜〜〜〜〜 〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜””
か細い歌声が聞こえた それは聞きなれた子守唄
義兄が義姉が歌っている 少し困った様な笑みを浮かべながら それでもしっかりと笑いながら
”””〜〜〜 〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜 ”””
少年も潤んだ眼を目をこすり 負けじと声を出して歌い始める
何度と幾百と歌ったこの歌はどんな時でも笑顔を取り戻してくれる
少しでもあたたかくなるようにみんなで手をつなぎ身を寄せる
ぐずっていた少女も目を赤くしながらも自然と歌い始める
””””〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜〜””””
疲労と空腹で歌声は小さいけれど 四人が無事だった
それで良かったと前向きに思えるようになった
重く沈んでいた空気が嘘のように軽くなる
幸いにして荒廃したこの街 使われてない建物は沢山あった
そのうちの一つ 高く聳え立つビルの中に 少年達は足を踏み入れた
そこが命を貪る獣の口中だと気づけぬほどに 少年達は疲れ切っていた
早く安全な場所で食事にあり付きたかった 故に注意を怠った
ビルの階段を上がって行くごとに増えるゴミの数 それは先住者の残したもの
少年達はそれを見ていない 見ているのは一切れのパン
皆で分けて小さくなった一欠けらのパンを 少しずつ少しずつ咀嚼し飲み込む
ビルの一室の隅に集まり 身を寄せ合いながら 寒さに耐えながら食事をした
それがみんなで取る最後の食事 そのことに誰も気付かぬままその日が終わろうとした
窓の向こうには雲ひとつない月夜が 大きな満月と小さな星達が輝いていた
それはとてもとても綺麗で 少年はそのあまりの光景に手を伸ばす
決して届かないと 決して触れられないと 解っていながらもそうせずにはいられなかった
義兄が義姉が義妹が少年が伸ばす手を見つめた その先に在る満月を見上げた
パーーーーーーーッン・・・・・・。
その時だった 小さいながらも聞こえた 銃声が響いたのだと皆が解った
まず義兄が立った 続いて義姉が立った 少年と少女はその二人の後を着いて行った
聞こえてきたのは上の階から 何が起きたか確かめる 部屋の扉を開け
上の階へと続く階段を上る 一歩一歩足音を立てないように 慎重になりながら進む
階段を上がりきった先 ホールとなっている場所に 大人が四人いた
一人は銃を片手に持ち 一人はナイフを片手に持ち 一人は金を両手に持ち
一人はうつ伏せになり 両手を地面に付いていた 少年達は見てはいけなかった
見なければよかったのだ うつ伏せになった大人から流れるモノを
考えなければよかったのだ その液体のモノが何なのかを
嗅がなければよかったのだ 生臭い鉄のような匂いを
その光景を惨状を死臭を恐怖し 少女が小さく悲鳴を上げた
それから始まったのは 命をかけた鬼ごっこ
捕まれば命はない みんなが散らばって逃げた
本物の死への恐怖と 疲れ切った体が打算的に動いてしまった
相手は三人 こちらは四人 最低一人は逃げられる 少年は無我夢中で逃げた
本能に抗うことなく逃げてしまった たった一人で 少年の両の手には何もない
あたたかかったぬくもりが 大切だった家族の手が すり抜けて空を掻く
少年は震えていた 暗く深い地下室で
肩を抱き凍えていた 倒壊した瓦礫の中で
目元にはつたい乾いた涙の後 黒かった瞳は赤く腫れていた
耳元に残る絶叫 聞こえたのは兄の叫び
耳元に残る泣声 聞こえたのは妹の嘆き
耳元に残る悲鳴 聞こえたのは姉の呻き
残ったのは少年独り 置いていかれたのは少年一人
虚空を見つめる瞳には 漆黒を身に纏う悪魔の姿
手を伸ばし笑いかけてくる 復讐したいか?力が欲しくないか?
その不気味な手を取り 少年は立ち上がる
赤く澱んでいる水に 少年は引き寄せられて行く
トテモ大切なモノ 剥がれてウシナイながら
失ったモノを信じないまま 大切なモノを落としたまま
ゆっくりと冷たい汚水に潜り込む
”神を殺せ 魔を殺せ 人を殺して 己を殺せ”
悪魔との契約は完了した 手には鋭い針が数本
悪魔に奪われた魂は 悪魔が手にした魂は
徐々に磨耗し消え去る運命
果てしない夜空 延々と広がる大空には
明日があると信じていたのに 家族は僕の前から消えていった
ーーーこの空の何処かに神様がいるなら答えてーーー
答えは返ってこない 契約を交わした悪魔が笑っている
粉々に割れたガラスに映る 細く痩せた自分の影を見る
何も叶えられないまま 削り取られる魂の篝火
無限に続く地平線の彼方 苦しみも憎しみも無い世界
きっとあると信じていたのに 全ては脆くも崩れ去って行った
荘厳な夜空に輝く星の彼方 青空に栄える虹の此方には
少年によって作られた 三つの死体の山が築かれる
その先に悪魔によって創られた 血に染まった地獄が待ち構える
ーーー惨劇に身を委ねよ! 快楽に身を任せよ! 殺戮に身を震わせよ!ーーー
ーーー喝采せよ! 喝采せよ! 喝采せよ!ーーー
ーーーー新たな堕人に向けて歓喜せよ! 新たな人形の誕生に狂喜せよ!ーーー
神は死んだ 少年は死んだ 悪魔は笑った 死神が生まれた
その日一人の少年は一体の死神となりて 恐怖をばら撒く存在に成り果て堕ちた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数年の時が過ぎ、少年の周りには常に死が充満していた。
魔王と名乗った魔の王は、少年に技術を与え、武器を与え、概念を植えつけた。
そして、代わりに記憶を奪った、感情を奪った、想いを奪った。
生きる屍とされた、動く人形とされた少年は、技術を磨く鍛錬に何の違和感を持たなかった。
時には生きた人間を狩り、時には同じ境遇の人形同士で殺し合い、時には戦場に置き去りにされた。
少年はその全てで生き残り、その全てで優秀な結果を残した。
空が暗雲で覆われ、雷雨を地上に降り注いでいた日。少年はある一人の少女との邂逅を果たした。
新たに人形に成るべく集め、連れて来られた素材達の中にその子はいた。
彼女は素材達の中でも一際小さく、その矮躯に無数の傷を残しながらもそこにいた。
何の拍子か、少女と少年の視線は交差し互いの存在を認識した。
普段なら取るに足らない素材の一体。特段目に引くものはなにも無かったはず。
なのに少年は目を離せない。悪魔に奪われ忘却してしまった何かが訴えかけてくる。
記憶の残滓とも呼べない、塵芥しか残されてなかった記憶が必死になって像を結ぼうとぶつかり合う。
激しい頭痛が少年を揺さぶる。脳内でノイズが奔り、狂ったかのように暴れまわる。
あれはなんだったか、笑い声が聞こえた、温もりが感じられた。
永遠にも感じられる交差の時は、時間にして一瞬。
気付いたときには少女は既にその場から消え、残されたのは少年ただ一人のみ。
少年は体を酷使したかのような疲労の中にいた。
思い出せたのはかすかなあたたかさ。思い出したということさえおこがましい程の断片。
それは、空っぽのコップに一滴の水が入り込んだ程度の変化しか少年に与えなかった。
何故少年は少女に目を留めたのか解らず、訝しげに眉を顰めながらその場から離れる。
ギシギシと軋みを上げる頭蓋を意識外に排除し、自身の肉体疲労を訓練の過多と判断させた。
空洞となった想いの中に、小さなシコリが出来たことに気付かぬまま更なる時が過ぎる。
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少女との邂逅から更に数年。少年は組織の中でも異質な腕前を披露し続けていた。
曰く、音も無き武器を操り、生死を繰るように死線を飛び越える死を招く異教の徒。
曰く、視認できぬ武器を投擲し、死に際の断末魔さえ残さず貪り食ってしまう死神。
魔王が育てた殺し屋の中でも特級品の仕上がりを見せた少年は、依頼を確実にこなしていくようになっ
た。 サイレント・キル
故にーーー”静かなる訪れ”と呼ばれたのは必然。
それは回避することが出来ない現象。不可避の概念をその身に内包する死神。
そう畏怖されるほどに少年は手際よく、どんな困難な依頼も眉ひとつ動かさずに片付けた。
血も涙も知らないDOLLである彼は、月日と共に肉体を成長させ精悍な青年へと姿を変える。
その頃になって少年から青年へと変わっていった彼は、何も肉体のみが成長したわけでは無かった。
幼き頃に膿んだシコリさえもが大きく成長し、日々青年に激痛を送っていた。
単独での任務遂行が可能になった青年は、長年の功績もあり、一人居城を構えるようになる。
任務中はチクリともしないシコリだったが、青年が独りになると痛みは蠢きだす。
腹腔を蛆が這っているのではないか、と錯覚させる気持ち悪さ、手足に走る疼痛に似た痛みは身を凍えさせ、
ナニカの温もりを欲し、頭蓋を蹂躙する様々な感覚が、記憶の断片が欠片が虚像が実像が触覚が嗅覚が感情が激情が慟哭が狂哭が諦観が脳内を支配する。
それは悪魔に奪われ記憶を奪われ、大伽藍と化した空洞をも埋め尽くす有象無象の現象。
多少の痛みでは呻きさえ洩らさないように訓練された青年だったが、その激痛は精神を崩壊させ、肉体を死滅させる。それほどまでの痛みを受け、青年は血反吐を吐きながらのた打ち回る。
数回、数十回ものその責苦に身を引き裂かれながら、青年はある存在を探した。
彼女を、あの日視線を交わした少女を探した。
ありとあらゆる手段を用い、この世界に身を置いているのならば、既に死んでいるかもしれない少女を探し、この湧き上る衝動の意味を確かめようとする。
解っているのは性別と身体的特徴のみ。名前も人種も年齢も知らなく、解らないことだらけだが、調べようはあった。
彼女は人形となるべく連れてこられた素材の内の一人。その線から執拗なまでに調べた。
しかし、青年の奮闘も虚しく、報告書には既に死亡していると記載されていた。が、青年は諦めなかった。
何かの間違いではないかと、何かの工作ではないかと、その可能性に賭けて探した。
そしてついに少女の存在を明確に認知する。
一枚の質素な報告書。そこには成長した少女の写真と、少女の現在地を記した綴りが確固として書いてあった。
それら必要なことを全て記憶すると、青年はそれを他の書類と混ぜ、火をつけた。
組織に対する明らかな敵対行為。強大に過ぎるモノを敵に回しながらも青年の心は晴れやかだった。
悪魔から奪われた記憶が甦ったのだ。微塵としか、残滓としか残ってなかった記憶が再生したのだ。
身を焦がした苦痛は記憶の断片をかき集めた時の振動。
心を蹂躙した衝撃は、欠けたピースが嵌り込む衝撃。
奪われたものを己の力のみで再生させたのだ、それなりの代償はあって当然。
少々乱暴に過ぎたその作業も、今となってはどうでもいい。
今まで禁固されていたものが溢れ出す。本来在るべき自身の感情を取り戻せた。
青年は走り出す。何の因果か、死んだと思っていた義妹の下へと。
血ではなく、絆で繋がっていた家族を迎えに走り出す。
背後に迫る狂狗の群れを感じながら。
−−−足音は背後まで来ているぞ−−−
僕は辿り着いた
彼女の下に
深く傷付き
組織の狗に身を削られながらも
冷たい雨の振る中
彼女との再会を
彼女との邂逅を果たした
始め彼女が銃を取り
腕前を見せたとき
僕は泣いた
事実を見せ付けられたのだ
彼女から受け取った銃を取り
涙で霞む的を射る
腕が震えて当たらなかった
でも 気持ちを切り替えることは出来た
それから僕は
彼女の傍に常にいた
彼女が自分の事を思い出すまで
待っていようと決意して
彼女を守りながら
正体を隠して
見守っていた
彼女が人を殺そうと止めさせなかった
それしか知らないことを
それだけしか知らないことを
身をもって知っていたから
それでも僕は けれども僕は
少しづつ彼女に話かけていた
辛くないか?
苦しくないか?
悲しくないか?
怖くないか?
残酷な言葉だとは解っていた
聞かずにはいられなかった
触れずにはいられなかった
そうでもしなければ
込み上げてくるものが抑えられなったから
自己満足なだけなのかもしれない
何も思い出さずに
何も感じずに
過ごした方が楽だったかもしれない
それでも何もせずにはいられなかった
だからこそ
また人を殺めた
彼女が死ぬ
彼女が殺される
彼女がいなくなる
ああ そんなのには耐えられない
ああ そんなことはさせられない
所詮は僕の自己満足
人を殺したくないのに彼女のために殺した
やはり僕は偽善者
彼女のせいにして人を殺める
僕が弱すぎるから
こんなにも近くに居る君一人助けられない
そして君を死なせかけてしまった
凶弾に倒れる彼女
その瞬間を忘れることができるはずがない
あれは僕のせいだ
どんなことをしても護って見せると誓った
なのに自分に甘えてしまった
殺したくないと手を抜いた
そのせいで危険な目に合わせた
彼女を助けたい護りたい
その方法は一つしかない
彼女よりも多く人を殺めること
ああ 魔王が嗤っている
所詮は人を殺すことでしか人を護ることのできない僕の矛盾を奴は嗤う
解っている分かっているさ
僕は人殺しだ殺し屋だ殺人鬼だ
それでも人形である彼女を人間に戻そうとした
ある日拾った子犬
あたたかかった優しかった哀しかった
君は一個の命に涙を流した
それがとてつもなく嬉しくて
同時に僕は冷酷なんだと気付かされた
あんなにも共に微笑みあった子犬を
タマと彼女が名づけた子犬を
僕くは利用していただけなんだ
確かに楽しかったあたたかかった優しかった
でもそれは一つの手段に過ぎなかった
ごめんよタマ
僕は君に謝っても謝りきれない
君が死んで彼女が人形を辞めた時
人間になった時に僕は嬉しいと感じてしまった
君が死んだきっかけで
正常に戻ったことを喜ばしいことだと思ってしまった
君の死を少しでも喜んでしまった僕
涙の表面は悲しみで本質は喜びだった
そんな僕を君は許すだろうか?
いいや許さないでくれ
僕は君とは違って天国には決して行けない
罪はそのときに償うからもう少しだけ待ってて欲しい
せめてこの腕の中の彼女が消えて居なくなるまで
もう少しだけ彼女を僕の手で護らせてくれ
そう もう少しだけ
きっとすぐに僕は・・・・・・・・・
死ぬだろうから・・・・・・・・・
魔王の足音はもうすぐそこまで来ている
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「んっ、んん・・・・・・」
まどろみの底から浮かび上がる感覚。
水面に漂うかのような浮遊感が希薄になり、意識が現に戻って視界は次第に像を結び始める。
どうやら完全に寝入ってしまったようだ。柄にもなく昔の夢を見たような気がする。
「この間のこと、まだ引きずってんのかな・・・」
魔王と相対したその日、僕は完全に我を忘れていた。
殺人行為になんら躊躇することなく、むしろ嬉々として命を奪っていた。
その事に薄ら寒さを感じる。打ち破ったと思っていた殺人衝動に自分は身を委ねてしまった。
その事が、自分が日常の世界に溶け込めないことを暗示している様で苦しい。
今は迂闊だった自分が恨めしい。
何故現実から目を反らした?
もっと逃げる道は沢山あった筈だ。もしくは発見され難い道だ。
何故もっと考えなかった?
組織から完全に身を眩ませた僕の居場所を奴らが発見できなくても、彼女の位置は常にわかっていたのだ。
その線から探せば見つかるのは時間の問題だった筈。
「つっ・・・・・・!」
ズキリと、寝起きでぼんやりとした頭が痛んだ。
ギスギスと強張った四肢を動かし、体全体に血液を行きわたらせる。
頭痛を少しでも紛らわせようと右手を額に当てながら、窓の外に広がる星空に目を向ける。
倒壊して誰も近寄らないような廃ビル。
ああ、ここから見る星空は、ここで見る月の光は、どうしてか夢の中のあの日のことと重なる。
僕の大切な人である彼女を置いて、僕はあの時逃げてしまった。
疲れていた、幼かった、無力だった、でもそんなのは関係ない。
僕は確かにあの日、家族だった人達を置いて逃げてしまった。
何の因果か、こうしてまた少女だった彼女と共に居れた。
また、こうして家族として共に居ることができた。
彼女は僕のことを忘れてしまっていたけれど、確かに僕たちが家族だったことは覚えていた。
「〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜〜 〜〜〜〜〜〜 ・・・」
口を動かし、微かな声で歌う。
それはいつも僕らが歌っていた子守唄。
学も、教養もなかった僕らが唯一覚えた優しく穏やかな魔法の歌。
割れたガラスに苦笑している自分の影が映る。
記憶を奪われた彼女が覚えていたこの歌には、確かに家族の絆が刻まれていた。
それで十分だ。他には何もいらない。
わざわざ僕から昔のことを言い出す必要はない。あの悲しい出来事を忘れているのならその方がいい。
隣で眠る彼女の寝顔。陶磁のように白く、透き通ってしまいそうなほどに儚い。
頬にかかっていた髪を指で整えて、彼女は確かに今ここにいることを再確認する。
髪を整えた手をそのまま彼女の頭に持って行き、髪を抄くように撫でる。
小さな頃も、再会してからも、僕が頭を撫でると彼女はじっとしていてくれた。
優しく緩やかに何度も、いとおしさをすべてそそぎ込むかのように撫で続ける。
しばらくそうしているといつの間にか頭痛は消え去っていた。
回転が正常化した頭でこれからのことを考える。
自身の中で繰り返した韜晦の答え。
彼女はもうこの世界では生きられないだろう。今のこのままの世界では。
僕らを取り巻く環境。
捨て去った筈のしがらみをすべて打ち壊さなければ彼女はもう耐えられないだろう。
今それができるのは、力を持っているのは他ならない僕自身。
彼女を追い、命令を出している者の始末。
それしか今の状況を打破する術を僕は知らない。
幸か不幸か舞台役者ではない、台本書きであるはずの魔王が舞台に出て、直々に手を下す心積もりのようだ。
幸せだった時間が有った。大切な思い出が有った。失った筈の絆が有った。
それらを再び手にするために、それらを再び作り出すために、僕は・・・・・・
魔王を殺す
『神を殺せ 魔を殺せ 人を殺して 己を殺せ』
皮肉な話だった。僕がまだ殺していない唯一の存在である『魔』。
その頂点である称号を持つ『魔王』を殺す。
恐らく僕は死ぬだろう。それは彼女との誓いを破る違反行為。
それは死ぬよりも辛いことかも知れないが、彼女に一分一秒でも長く生きて欲しかった。
そして、この世界の良いところをもっと見て、感じて欲しかった。
自然観照が好きな彼女に、動物が好きな彼女に、一時の時間を与えてあげたかった。
しかし、その時間は刻一刻と無くなっていく。魔王がいる限り。
命令系統を束ねるあの男が消えれば、この追跡劇も無くなるかもしれない。
一縷の望みかもしれない、無謀な考えかもしれない、不可能なことかもしれない。
それでもなお、可能性が一パーセントでも存在しているのならば、僕の全てを投げ打って、その可能性に賭ける。
二の腕に隠しているケースの蓋を開け、針の残数を確認する。
両腕のケースに残った針はあと僅か。補充する暇も無ければ場所も無い。
心もとないながらも、武器は在る。鋭く細い針を取り出し、それを眺める。
「・・・・・・・・・よし」
決意は固まった。僕は終末の時を肌で感じ、同時に自分の死期を悟ったのかもしれない。
故に、もう迷いは無い。
傍らで眠る彼女を守るのは僕だけ、そのために死地に行こう。
彼女は死んだように眠っている。
悪夢でも見ているのか、その額にはじっとりと汗が浮かび、顔を歪めていた。
額に張り付いた髪の毛をそっとよけてやり、かいた汗を拭いてやる。
最後になるかもしれないと、死んだように眠っている彼女を抱いてそのぬくもりを感じ、頬にキスをする。
音を立てぬように立ち上がり、外に出る。
数歩、歩いたところで気配を感じ立ち止まる。
ー−−−振り返ると 悪魔はそこに立ち 不気味に微笑み 道を指した−−−ー