ドタバタ海外生活!?
冷蔵庫と食器棚を同時に開けた。右手でコーラのペットボトル、左手でコップを掴む。足で椅子を引いて座り、コップにコーラを注ぐ。泡が弾ける音を聞きながら、頬の汗を拭う。ブラインドから差し込む陽の光が、テーブルに影をつくっていた。
とある夏の午後。誰にでもあるような情景。けれど。私は目を細めて窓の外の世界を見た。この場所からずっと空に向かって上がっていけば、いずれここが地球の小さな一部分であり、地球が丸い星であるのが分かるだろう。そして、自分が地球のどこに位置していたのか分かるはずだ。しかし、私が今いる場所は小さな島国ではない。大陸国。自由の国、といえばわかりやすい。そう、アメリカ合衆国。この場所こそが、私の物語の舞台なのである。
引越しが決まった時の父の言葉はごく簡単なものだった。「仕事の都合で、三年間、アメリカに住むことになった」、と。もちろん、当時中学二年生だった私がはい、わかりましたと納得するわけがない。高校やその先の進路のことも考えていたし、何より生まれ育ったこの街を離れたくなかった。私は行かない、祖母の家に住む、と抵抗した。しかしそんな私の行動も虚しく時は流れ、中学三年生の夏、私は父、母、二人の弟と共に渡米した。結局、子供に選択権などないのだ。私が生きているのは親のおかげなのだから、仕方ないことだと自分に言い聞かせた。友達から来るメッセージには「楽しい、元気だよ」と返信した。父や母には「これから頑張る」と伝えた。夜、ベッドの中で泣いている、なんて口が裂けても言えなかった。
「あれから一年、か。」私はそっと呟いてみた。乾いた喉を冷えたコーラが潤してゆく。この一年間、いろいろな事があった。泣いて笑って、盛りだくさんの生活だった。英語も何も分からないまま放り込まれた学校。言葉の通じないスーパーマーケット。馬鹿でかいサイズのハンバーガーセット。イケメンのアメリカ×日本ハーフの男の子。いや、最後のは気にしないで欲しい。しかし、この際だから公開してしまおうか。あの子が私の頭から離れないのは事実なのだから。彼の名前はノア。アメリカ人の父と日本人の母を持つ、私と同い年の男の子。九歳頃まで日本に住んでいたらしく、片言だが日本語が話せる。もちろん、英語はペラペラだ。顔はかなりの美形。家の前でバスケットボールをしている姿に惚れた。彼女はいないらしい。いや、そんなこと私には全く関係ないのだ。そういえば他人の紹介をしておいて自分の紹介をしていなかった。私の名前は水樹 遥。日本、埼玉生まれ埼玉育ち、アメリカ住みの高校一年生だ。もちろん、純粋なる日本人。日本が大好きな日本人。時々、金髪、青い目には憧れるけれど。私はため息をついてコップの下の方に少し残ったコーラを飲み干した。何はともあれ、今日で学校は終わり。コップをテーブルにコン、と置く。私はにっこりしてカレンダーを見た。六月二日、Summer Vacation。今日から約三ヶ月の、長い夏休みが始まる。そして、私にとって最重要なイベントが待っているのだ。
「日本に、帰れる!」私は拳を突き上げて叫んだ。
「うるさいんだけど。」テレビの方から声がした。中学一年生の弟だ。最近ますます生意気になってきている。
「何よ。日本に帰れるんだよ?日本だよ、日本。」
「いや、一時帰国だから。二週間だけだし。そんなに喜ばなくても。」
「これが喜ばずにいられるかって!美味しい食べ物食べ放題だし、日本語通じるし、友達と遊べる!」
「また、お金の無駄遣いね。太らないように気をつけな。」
「...」可愛くない弟だ。姉に向かって生意気すぎる。
「たーだいまー!」玄関のドアを開けて帰ってきたのは小学六年生の弟。
「あ、姉ちゃん。おかめみたいな顔してどうしたの?また食べすぎちゃった?」
「...」どうして私の兄弟はこんなに生意気なのだ。でも。
「いつもならぶん殴ってあげるところだけどね、今回は大目に見てあげる。なんてったって、日本に帰れるんだから!」
二人の弟は顔を見合わせて、やれやれと首を振った。
しかし、そんな楽しい時間は長くは続かなかった。
その夜、私は友達にメッセージを送った。「日本帰るから、遊ぼ!」と。帰ってきた答えは、「もちろん!けど、部活で忙しいかも..一年だから休めなくて。」だった。そうだ、彼女にも生活というものがある。私が引っ越ししたあの日から時間が止まっているわけではない。何となく、心の奥に穴が空いたような気がした。
他の友達からも、同じような返信が帰ってきた。暇つぶしに、友達のタイムラインを見てみる。友達とのプリクラや、高校の学食の写真。文化祭のおそろいのTシャツなどの写真が載せられていた。見たことある顔ぶれのメンバーの間に、知らない子達が笑顔で写っている。「高校楽しすぎ!」「入ってよかった!」そんな言葉が並んでいる。「いいなぁ...」私の口からそんな言葉がもれた。中学校の話をしている子は誰もいなかった。みんな、今の方が大事なのだ。当たり前だ。「今」が楽しいのに、わざわざ過去の思い出などを引っ張り出す必要はない。私だけがみんなに取り残されたような、そんな気持ちになって、私はスマートフォンの画面を消した。みんな、私のことなど気にもしていないだろうな。私がいなくても困ることなんて何もないのだから。今思えば、私はいてもいなくてもいい存在だったのではないだろうか。そんなネガティブなことまで考えてしまい、私はぎゅっと目をつぶった。
次の瞬間、懐かしいような、聞き慣れたような着信音が部屋に響いた。
《つづく》