第九話 有子と友達
頭のいい人は考えが先回りしすぎるところがあるようだ。一人で勝手に想像しては一人で恥ずかしがるのだから、こっちはどうすることもできない。
「小学校の思い出は何かない?」
松宮さんに尋ねてから、これが本題だったことを思い出した。
「特にないよ」
「何もないことはないだろう?」
「それはそうだけど」
「それが聞きたいんだよ」
「でも取り立てて言うほどじゃないから」
一番困る答えだった。
「学校に行きたくないってなったことない?」
「台風が来た時は『この風はムリ』って思った」
いや、そういうことじゃなくて。
「仲間外れにされた経験は?」
「そういうのはなかったかな」
「でも子ども社会なんて、そういうのがあって当たり前だろう? 松宮さんはたまたまターゲットにされなかったってことかな?」
「私の場合は、あっ、なんでもない」
そこで言葉を引っ込めてしまった。何を言おうとしたのか気になるが、こういうのは尋ねても教えてくれないものだ。
「じゃあ、小学校時代は楽しかったってことだね」
「なんでそうなるの?」
「だってそれほど嫌な経験をしてそうにないし」
「だからっていきなり頭がハッピーになるはずないでしょう?」
そういえば松宮さんを知る人は共通して『彼女はいつもつまらなそうな顔をしていた』と証言していたのを思い出した。
「じゃあ、楽しくはなかったんだね」
「楽しかったよ」
「え? さっき否定しなかった?」
「したよ。したけどそれは質問じゃなくて勝手に決めつけてたから否定したの。だって楽しいか楽しくないかは私が決めることだから。……だよね?」
どこかで聞いたことのある言い回しだが、松宮さんの言う通りだ。これは聞き方を間違えた俺が悪かった。
しかし会話をするのが疲れる人だ。ちょっとした言い方の違いにも敏感に反応して正確に答えようとするから神経がすり減る。
こうなってくると話し掛けるのも怖くなる。これでは気軽に話したい人は彼女のことを敬遠するようになってしまうのではないだろうか?
そう、まさに敬遠という言葉がピッタリと当てはまる。決してみんな避けているわけではなく、敬いつつ遠ざかるのだ。
「倉橋さんって松宮さんの友達だよね? 彼女はいま俺の隣のクラスにいるんだ」
「話したの?」
「うん。一度だけ」
「ひょっとして私、調べられてる? 幼稚園や小学校の場所まで知ってるもんね。それってやっぱり調べられてると思うんだけど」
そう言うと不審そうな目を俺に向けるのだった。でも俺はこういう目つきには慣れている。無能者は女性の冷たい眼差しに怯んではいけないのだ。
「別におかしいことじゃないだろう? 知り合った人のことをもっと知りたいと思って何が悪いんだ。知識への欲求は誰にも止められないよ」
無能者は言い訳も堂々とすべし!
「改めて聞くけどバドミントンが好きな倉橋さんとは友達だったんだよね?」
「え? なんで過去形なの? 友達だったんじゃなくて、友達だよ」
あれ? 倉橋さんの話と違うような……。
「確かに高校が別々になったからまったく会わなくなったけど、過去形にすることはないでしょう?」
「ああ、そうだね」
と言いつつも、モヤモヤした感じが残る。
「じゃあ倉橋さんとは仲が良かったんだね」
「その言い方だとミイちゃんしか友達がいなかったみたいじゃない」
「ごめん、決めつけは良くないね」
「実際そうだけどさ」
だったら突っかからずに肯定してくれ。
「でもこれは私がっていうわけじゃなく、ミイちゃんが誰とでも友達になれる子だから、それで私も友達になることができたんだよ、きっと。だから『私には友達が一人います』っていうより『ミイちゃんの友達の中に私も含まれています』って言った方が正確かもしれない」
松宮さんは俺から見ればどうでもいいと思える細かくて微妙なニュアンスまでこだわらないと気が済まない人のようだ。
それだけにミイちゃんこと倉橋さんは、もう松宮さんとは友達じゃないと言っているわけで、さすがにそれを口にするのは酷に思われた。
第三者である俺が横から口を挟むと誤解が誤解を招く結果にもなりかねない。倉橋さんの話は伝えない方がいいだろう。
そもそも高校生になったばかりの女の子同士の問題なんて、男の俺に理解できるはずがないのだ。実の妹ですら理解できないというのに。
「もう帰らないと」
あっという間に別れの時間がきた。
「じゃあ、来週も会ってくれる?」
「うん。いいけど」
「いいけど、なに?」
「行く場所が決まってるなら、最初からそこで待ち合わせした方がいいかと思って」
「ああ、そうだね」
ということで、来週は中学校の校門前で待ち合わせすることになった。手間を省けたことよりも彼女が希望を申し出てくれたのが嬉しかった。
それにしても今日の松宮さんはやたらと可愛らしく感じられたのはなぜだろう? それは単に赤面した顔を見られたというだけではないはずだ。
やはり初めて内面に触れた感触があったからだろうか? 生活習慣の一部を教えてくれただけで松宮さんの温もりが感じられたのである。
「波長が合うんじゃないの?」
次の土曜日、そのことをゆり子先生に相談してみたのだ。それで返ってきた答えがそれである。今日の先生はソファで横になっている。
「人との相性を波長で表すってすごく分かりやすいと思わない? 最初はギクシャクしててもチューニング次第で突然会話がハマる時ってあるでしょう? 私なんか特にそうだもん。ダメな人はダメ。いくらチューニングを合わせようとしても苦手な人だと一言も話せなくなっちゃう。だから他人の口から語られる人物像には何人もの異なる『私』が生まれてしまうのよね。陽気だったり寡黙だったり、従順だったり反抗的だったり」
俺は優しいゆり子先生しか知らない。
「有子ちゃんと出会って一か月以上だっけ? だったら接し方や印象や言葉遣いが変わってもおかしくないと思う。周りの人が抱く印象と笑吉くんが抱く印象が異なっていてもいいのよ。そこで周囲に『彼女はそんな人じゃない』って力説する必要もないし。要は笑吉くんが知る有子ちゃんはあくまで笑吉くんが知る有子ちゃんに過ぎないということね。その印象を他人に強要して共有させるのはムリなのよ」
俺は先生の諦めの境地が嫌いじゃない。
「笑吉くんと有子ちゃんの波長が合うというのはそういうこと。笑吉くんだけじゃなく彼女の方も懸命にチューニングを合わせようとしているのかも。だから印象が見違えたんじゃないかしら? 彼女は彼女で笑吉くんのことを考えているということを忘れないで。高校時代がなかった私が言っても説得力がないけど、有子ちゃんって案外どこにでもいる普通の高校生なんじゃないかな?」
いや、さすがにそれはどうだろう?
「でも波長が合っているように見えて実はまったく噛み合っていないっていうこともあるわよね。行き違いとか思い違いとかじゃなくてさ。それってわざと片方の人がチューニングをずらしていたりするのよね。きっと衝突してしまうのが怖いのよ。だって衝突してしまうと高い確率で消滅してしまうでしょう? だから噛み合わないギリギリのところをキープし続けるの」
また先生が分からない話をし出した。
「有子ちゃんが恥ずかしがる気持ちとか分かるけどな。人には自分を知ってほしい気持ちと、自分を知られるのが恥ずかしいという気持ちがあるのよね。相反する二つの感情を抱けるのが人間なのよ。でも他人のことになると、それがさっぱり理解できなくなるの。知ってほしいけど恥ずかしい。知られたくないけど教えたい。こういう矛盾した姿が人を可愛らしく見せるんじゃないかしら?」
松宮さんが俺に恋愛感情を抱いているということはないだろう。そういうことに対しては敏感なので一緒にいるだけで分かるのだ。
でも、人として興味を持たれていることは疑いようがないだろう。そういう俺も松宮さんと過ごす時間に心地よさを感じているのだ。
湯川士郎先生も小説『無能者』で、朝まで語り明かせる人を見つけた時の喜びは何ものにも代えがたい、と書いている。
異性ではあるが、俺は松宮さんとの時間にその境地を感じたのだ。正確に言うと小学校の非常階段で話した一瞬の心地よさに永遠を感じられたのである。
気がつくと、ゆり子先生が寝息を立てていた。こんな無防備な寝顔を見せている人が、さっきまで恥ずかしさがどうこうと話していたのである。
女の人が持っている羞恥心って本当に不思議なことだらけだ。でも、男はその恥ずかしい殻を一枚ずつ脱がせていくのが楽しみだったりする。
翌日、教育ノ森中学校へ行くとすでに松宮さんが校門の前に立っているのが見えた。この日も犬か猫か分からない絵柄のTシャツを着ている。そろそろ触れてあげた方がいいのだろうか? でも褒めるようなファンションじゃないので、どう声を掛けていいのか分からない。
「こんにちワン」
松宮さんの顔が引きつる。
「こんにちは」
スルーされてしまった。犬ではなく猫なのだろうか? いずれにせよ、今のはなかったことにした方が良さそうだ。
「今日も陽射しが強いね」
「うん」
ということで、この日も直射日光から逃れるために非常階段に移動することにした。三階まで上ったので町が一望できた。教育の森と呼ばれているが、自然は大学の裏手に原生林があるくらいで九割以上は住宅地で占められている。金持ちの家もあれば集合住宅もあり、昔から貧富の差が見える形で残っている地域でもある。そこが大都会と違う点かもしれない。
それと俺たちが住んでいる地方では小学校や中学校の受験が条例で禁止されているのだ。受験させたければ都会に出なければいけない。これはいい法律だと思う。価値観の定まっていない子どもに選民思想を植え付けてしまう危険性があるからだ。もちろん実社会には私立の小・中学校を卒業している立派な人たちはたくさんいる。だから金持ち憎しで批判するつもりはない。
これはあくまで俺たちの地方では、義務教育課程は機会の平等に務めましょう、という教育理念にすぎない。特殊能力に個人差があるため生まれた時点で将来的な貧富が決してしまうことがあり、だから差別を生まないために条例が作られたのだ。俺たちの時代の異能力社会は貧富の差が当たり前の世の中なので、どれだけ差別意識をなくしていけるか、というのが努力目標となっているのだ。
「無能くん具合でも悪いの?」
「え?」
「ずっと黙ってるから」
「ああ、いや、大丈夫だよ」
考え事に没頭しすぎて心配させてしまった。
「考えていたんだ。もしも都会に生まれて親が教育熱心だったら六歳か十二歳で受験させられるわけだろう? そこで合格するということは自分が選別されたということじゃないか。六歳か十二歳でそんな経験をしたら、俺はおかしくなると思うんだよ。調子に乗る性格だって自分が一番よく分かっているからね。きっと俺のことだから傲慢になって他人を見下していたに違いないよ」
松宮さんが耳を傾けながら、時々俺の方を見る。
「下々の愚民諸君、なんて言葉も冗談と区別できなくなるかもしれない。そこに罪悪感や不快感を覚えない人生とか反対につらいんじゃないかな? 俺にはきっと耐えられない人生だ。俺、バカだから子どもっぽくて、いつまでもヒーローに憧れているんだ。罪悪感や不快感、傲慢や優越感なんて他人に隠し通すことはできても、自分の心まで誤魔化すことはできないからね」
自分でも格好つけてることは分かっている。
「いくら選ばれた子どもになったって、ヒーローになれなきゃ意味がないじゃないか。そしてそれは俺にしか決められないことだ。だから俺は無能に生まれてきて良かったと思っている。いや、やっとそう思えるようになったのかな。無能だと特殊能力を自慢する機会がないからね。自慢できるものがなければ傲慢になることもないだろう? 俺が高等スキルを持っていたら優越感を捨てられずに大変だったに違いないんだ」
松宮さんが立てた膝と膝との間に顔を埋めた。
「そう考えられるようになったのも無能のおかげだよ。無能が俺をかろうじてまともな人間にしてくれているんだ。他人を尊重できるのも無能のおかげさ。俺には他人を絶対に理解できないっていう前提条件があるからね。そのおかげで人をゆるすことができるんだ。たとえ傲慢になったり優越感を抱いたりしても、そこに罪悪感や不快感を覚える人なら悪くない。それだけで心の優しい人なんだって思えるからね」
松宮さんはしばらく顔を上げなかった。