第四話 明るい子と書いて明子
どうして俺は松宮さんに自分の好きな本を読んでもらいたいと思ったのだろうか?
そういうことをされるのが自分でも苦手なはずなのに。
とりあえず謝ろう。
「ごめん、やっぱり無理して読まなくてもいいや」
「え? どういうこと?」
どうも俺は人をイライラさせてしまうようだ。
「いや、他人から『コレを読め』って言われるのが嫌いなんじゃないかと思って」
「それも勝手な決めつけだけどね」
「ああ、そっか」
松宮さんが本をパラパラっとめくる。
「読んでどうすればいいの?」
「別に何もしなくていいよ」
「だったら何のために読まそうとしてるわけ?」
「何かのためになるかも分からないんだ」
「そうじゃなくて目的だよ」
質問に上手く答えられない。
そんな自分に誰よりもイラだっているのはこの俺だ。
言いたい言葉が頭に浮かぶが、どれもしっくりこない。
何をしているんだ!
俺は無能者ではないか!
どうして自分をよく見せる必要があるんだ!
無能のまま突っ走ってみろ!
その気持ちをぶつけることにした。
「俺は腹が立ったのかもしれない。だって、さっき松宮さんは言ってたろう? 『このまま異能を失っても構わない』ってさ。それで思ったんだ。異能に無能の何が分かるってさ。それでその思いをぶつけたくて追い掛けたんだけど、面と向かうと何も言えねぇの。で、苦肉の策として俺が大事にしている本を読んでもらって気持ちを分かってもらおうと思ったんだけど、それも違うんだよな」
「何が違うの?」
俺の話をちゃんと聞いてくれているようだ。
「それはその、結局は自分が満足したいだけなんじゃないかと思ってさ。そのために大事な本を利用しているような気になっちゃったんだ。それではたぶん松宮さんのためにはならないよ。そう思ったら無理に読ませるのも申し訳なくなっちゃって後悔し始めたんだ。だから読まなくてもいい。感想も求めないよ。松宮さんは好きな時に好きな本を自由に読めばいいんだ。俺が決めることじゃなかった」
「ふ~ん。じゃあ返すね」
そう言って、松宮さんは俺に本を押し返した。
ああ、そっか、なるほどね。
それで『読んでみるよ』とはならないわけか。
うん、それもそうだ。
俺がそう言ったんだもんな。
「じゃあ帰るね。今度街中で私のことを見掛けても背中を押さないでくれるかな?」
松宮さんの顔がずっと引きつったままだ。
「う、うん。わかった」
松宮さんには冷めたところがあることをすっかり忘れていた。冷めた人の前で熱くなるのはとても恥ずかしい、と学習できた一日だった。でも、まだ心に引っ掛かっているものがある。この胸騒ぎに近いモヤモヤは何だろう? もう追い掛けることはできないが、また会いたいとは思った。いや、会いたいという能動的な感情よりも、来週もまた先生のところに来てくれれば安心できる、という受動的な感情だ。
それとは別に、今週はゆり子先生とまともな会話を一つもできなかったのが心残りだ。一週間の楽しみが霧散した気分である。こんなにも空虚な帰り路はいつ以来だろうか? いや、生まれて初めてかもしれない。どんなに忙しい身でも俺と会う時間を確保してくれている。子どもの頃は間違って『お母さん』と呼んだこともある。それどころか本物の産みの親なのではないかと疑ったこともあるくらいだ。でも、家に帰ると口うるさい母親が居間に鎮座しているので、そんな素敵な妄想はいとも容易く吹き飛んでしまうのだ。
「ただいま」
家に帰るとその母親が目の前に立っていた。
「おかえりなさい。早かったのね。あっ、ちょうど良かった、トイレの電球替えてくれない?」
「それくらい自分で替えろよ」
「だって面倒くさいんだもん」
「俺が取り替える方が面倒だろう」
「買い物から帰ってきたばかりで疲れてるの」
「俺だっていま帰ってきたばかりだよ」
「お母さん夕飯の支度があるもん」
結局、俺が電球を取り替えることになった。子どもの頃から隙あらば手伝わされる。やらなければ後で文句を言われるのでやるしかないのだ。しかし電球の取り替えなら俺より母さんの方が向いている。なんたって背は低いが浮遊力という特殊能力があるからだ。でも最近はその浮遊力を使っているところをあまり見なくなった。疲れるからとは言っているが、実際は俺に雑事を押し付けたいだけだと思う。家は三階建てでトイレが二つある。父親が瞬間移動の配達員をしているので裕福な暮らしをさせてもらっているのだ。
当の父親は長距離移動の仕事ばかりで家を留守がちにしているというのがちょっとだけ気の毒に思うが、本人は仕事を気に入っていると言っていた。美味しい物を写真に収めるのが趣味だから、これ以上に趣味と仕事を兼ねた職業はないそうだ。自分の能力を活かした仕事ができるのは幸せである。ただしすべての人が希望の職業に就けるわけではない。父さんの場合は重い物も一緒に瞬間移動で持ち運べるので重宝されるのだ。急ぎの用でもない限り、車などの乗り物で荷物を運ぶのが一般的なので、父さんのような人は例外と呼んでもいいだろう。
「帰ってたんだ」
トイレの電球を取り替えていると、妹の明子が現れた。
「ちょっと待ってろ、いま取り替えるから」
何も言わずに二階へ上がって行った。名前と違ってハツラツとした感じがない。部屋に籠りがちなので家庭内別居しているような感覚をおぼえる。それでもちょっと前までは事あるごとに『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と懐いていたのだ。でも急に素っ気ない態度に変わってしまったのである。ちょうど中学に上がった時期からだ。二歳差なので中学二年生なのだが、それが思春期というものだろうか? 昔は休日を一緒に過ごして外出しようが家にいようが、一日中俺の側から離れない子だった。それだけに余計寂しく感じてしまうのである。
受験まで一年以上もあるのでピリピリするような時期ではないはずだ。俺と違って妹は優秀なので普通にしていれば進学校に行けるのである。特殊能力も松宮さんと同じ治癒力だ。それだけで他の人よりも恵まれているわけで、悩み事とは無縁の人生が約束されているわけである。しかも能力値が高いので確実に将来はお医者さんになるだろう。父親よりも高給取りになって、人生を折り返す前に隠居を決め込むのも可能だ。ある意味、そういう身内がいる俺もラッキーである。
でも、だけど、それより素っ気ない態度をされるのが悲しくて寂しくて切なかった。昔は一緒にゲームをしたのに、今は一人で遊ばなければいけない。妹と一緒に冒険していた頃が一番楽しかった。
そんな退屈なゲームをしているうちに一週間が過ぎ去っていく。毎日しているからレベルは勝手に上がって行くが、心は一向に満たされなかった。今はもう土曜日に研究センターへ行って、ゆり子先生に会うことだけが唯一の楽しみだ。しかもこの日は学校が休みなので朝から会える。
「ゆり子先生、おはようございます」
「おはよう、笑吉くん」
俺が朝の挨拶を交わすのは世界中で先生ただ一人だ。挨拶とは相手に知覚されることで自分の存在が確かに在る、と感じられる瞬間でもある。
「どうしたの? 何かいいことあった?」
「いえ、何もないですよ」
本当は『ゆり子先生に会うと嬉しい気持ちになるんです』と言いたいのだが、それを口にすると先生の存在が安っぽくなりそうなので言えなかった。ゆり子先生の研究室の中には触れてはいけない機器やファイルがあると聞いているので、何度来ても落ち着くことができなかった。だからすぐに隣の診察室へ移動する、というのが一つの行動パターンになっている。この日も紅茶を持って早速移動することにした。
「今日は隣でお話しましょうか」
と先生が言うので、ロングソファに並んで座ることにした。正面からだと愛らしい顔が横顔になると綺麗になるのはなぜだろう? それは単純に視覚から受ける印象がそう認識させるだけなのだろうか。正面よりも視界で捉える鋭角の数が多いから可愛いより綺麗に感じるわけだ。俺が先生の顔を盗み見ても本人に気付いた様子はない。そういう鈍感な部分も魅力の一つだ。
外は天気がいいけれど、陽射しが強いため部屋の窓にはレースのカーテンが引いてある。その白生地が揺れるたびに先生の香りが顔に掛かった。いい匂いとは、美味しそうな食べ物の匂いでも自分の家の匂いでもない。いつまでも寄り添って眠りたいと思う匂いのことである。ゆり子先生の診察室がまるで揺り籠であるかのように感じられるのはそのためだろう。
「先週の話だけど、あれからどうだったの? 松宮さんとお話することができた?」
「はい。あっ、でも、話をしたという感じじゃなかったかな? 同い年の女子と話したことがないから難しくって」
そこで松宮さんとのやり取りをすべて話すことにした。家まで送ると言って怖がられたことや、その後に無言で歩き続けたことなど全部だ。思うように話せない感情の動きや、格好つけてしまうことに嫌悪する気持ちや、貸そうとした本を突き返されたことなど全部ぶちまけてしまった。
「そう、受け取ってくれなかったんだ」
そう言うと、切なそうに微笑むのだった。
「そりゃそうですよね、俺だって知り合ったばかりの人に本を差し出されたら怖いし」
「でもちゃんと説明したんでしょう?」
先週のことを思い出す。
「しました。したけど無理に読ませようとしているのが見え見えで、あれなら拒否されても仕方ないと思っています。だって学校のやり方と一緒だから。つまりその、『この本を読め』って言うのは『これで感動しろ』って言ってるのと変わらないから。それは学校だから許されるのであって、俺なんかが真似してはいけないんです。相手から見れば俺なんて宗教の勧誘みたいなもんですからね。小説そのものにも悪いことしちゃったな。これで松宮さんが読むようなことがあっても、まっさらな状態で読むことができなくなりましたからね」
ゆり子先生が紅茶で唇を湿らせる。
「そこまで高潔である必要なないと思うけど。本に限らず好きな物を薦めるのって、一種の自己表現でもあるのよ。きっと本だから難しく考えてしまうのね。好きなお店なら『今度一緒に行きましょう』で済む話じゃない。もっと気軽であってもいいくらいよ」
確かに先生の言う通りだ。人だけではなく、物事の出会いにも色んな形があってもいいのかもしれない。何事も触れてみなければ分からないのだから。
「偉そうなことを言っているけど私は笑吉くんのようにできないんだよな。シンプルに考えないといけないのは私の方なのかもしれない。どうして自分の気持ちを正直に吐露できないんだろう? 話しながら誤魔化しているのが分かっているんだけど、それでも騙し続けちゃうの。だからありのままでいられる笑吉くんが羨ましい。当たり前のように思っているかもしれないけど、自分と向き合うってなかなかできないことなのよね」
ゆり子先生が俺の知らないところで悩んでいるのは知っている。話してくれないということは、話せる相手ではないということなのだろう。それでも嘘をつかれているとか、隠し事があるとか、秘密主義者だとは思わない。ペラペラしゃべる俺がおかしいのだろう。改めて考えると俺には悩みらしい悩みがない人生だったと振り返ることができる。そこだけは『俺だけが無能』で良かったと思える点である。
「そうだ。聞いておきたいことがあったんだ」
「何かしら?」
ゆり子先生が小首を傾げて俺の顔を覗き込む。どうして愛らしい人は、その一挙手一投足がいちいち可愛らしくて楽しいんだろう? でも、ゆり子先生からしたら幼稚園児を相手にしているようなものなので、俺がドキドキしていることなど思ってもいないだろう。
「笑吉くん? どうしたの? 言いづらいこと?」
「いや、そういうんじゃないです。先週のことですけど、どうして松宮さんの診察に関係のない俺を同席させたのかと思って」
「ああ、それは別に『世の中には貴方みたいな人もいる』って言いたかったわけじゃないの。そっか、利用されたと思ったわよね」
「いや、思いませんよ。むしろ利用してくれたのなら感謝したいくらいです。無能者でも先生の役に立てたら嬉しいですからね」
先生の微笑みが儚げだ。
「彼女に伝えたかったことがあるのは確かね。それは『貴女が抱えている問題は隠すことではない』っていう意味を込めたの。でも彼女のことをデータでしか知らないのに、いきなりそういうことをしちゃって後悔している部分はあるんだ。気を悪くしていないといいけど」