第三話 有子の事情
紅茶とお茶菓子を持って研究室の隣の診察室へ移動することにした。お茶を用意する間に簡単な自己紹介を済ませておくことも忘れなかった。彼女の名前は松宮有子さん。学年が上だと思ったけど同い年の十五歳だった。すらりとしているので大人っぽく見えたのだろう。
彼女の特殊能力は治癒力だ。この能力は異能者の中でも高等スキルといわれている。進学校に行けるなら将来は約束されたようなものである。それでさっきゆり子先生は松宮さんが膝の傷を放置していることに気を留めたのだ。すり傷程度の怪我なら一瞬で治す力はあるはずだからだ。
「笑吉君はね、特殊能力を持っていないの」
「そんな人いるんですか?」
「うん。何年も調べているけど発見できない」
「隠しているだけなんじゃないですか?」
「昔はそういうこともあったけど、研究が進んだ現在は隠し通すことなんてできないのよ」
その研究を進めてきたのが、ゆり子先生だ。
「透視できたりして?」
隣に座る松宮さんが俺を気持ち悪そうに見る。
「異能はね、隠し通すことなんてできないのよ」
今日は先生がデスク席で俺と松宮さんがソファ席だ。
いつもと違う角度でゆり子先生を見ているので新鮮だった。
「異能力は隠し通すこともできないし、異能力が生きている途中でなくなることもない。力が弱まることはあっても消えてなくなることはないのよ」
それが最近の結果で証明されたのだ。
松宮さんが反論する。
「それじゃあ、私が嘘をついているみたいじゃないですか。そう言っていますよね?」
どうやら、特殊能力が突然使えなくなった、というのが松宮さんの相談内容のようだ。進学校に入学したばかりで力を発揮できないのはかなりつらいだろう。
「そうじゃないわ。私は定説を述べただけだから」
「その定説が間違っているんじゃないですか?」
「うん。その可能性もある」
「それならそう言ってくれればいいじゃないですか」
「そうね」
「そうですよ。今度からそうして下さい」
女性二人が話していると話に入っていけない。
「異能力なんて、なければないでいいんです。ここに来たのも母の希望ですから。相談者は私じゃなくて母なんですよ。だって私は何も困っていませんから。治癒力を失ってから気がついたんですよね、ああ、こんな能力なくてもいいやって。でも先生はそれだと困るでしょう? 母のことだからきっと娘が治らないのは先生の責任だって言うと思うんです。だったらこうしませんか? 異能者も能力が失われることがあるっていう仮説を立てるんです。それで先生は研究費をもらえばいいじゃないですか」
先生が困った顔をしている。
「そういうわけにもいかないでしょう」
「どうしてですか? 別にいい加減な論文を書けとお願いしているわけじゃありません。先生は研究しているフリをしてくれるだけでいいんです」
松宮さんの頭の中にはすでにシナリオが出来上がっているようだ。
「調べたので先生が忙しい人だというのはわかっています。ですから先生は私が通院していることだけ母に報告すればいいように私が上手くやります。そうすれば互いに時間をムダにしなくて済むじゃないですか? 治癒力で治せない難病もあるんですから分かりっこありませんよ」
まるで今日ここに来て先生に何を話すか決めていたかのようなしゃべり方だ。
「そこまで言うなら教えてちょうだい」
ゆり子先生が俺に見せない真剣な顔をしている。
「本当に治癒力が失われたの?」
松宮さんにとっては予想外の言葉だったのかもしれない。「はい」か「いいえ」で答えられる質問なのに考え込んでいる。俺は慣れているけど同級生を相手にするのと違って大人相手に会話をするというのは難しいものだ。親や学校の先生と違い未知の関係性だからである。
「今の私に治癒力はありません」
ゆり子先生の目を見て言い切った。
「そう、だったら私も真剣に調べないといけないわね。これは貴女だけではなく、もうすでに私の問題でもあるから」
隣から小さなため息が聞こえた。
「私さっき言いましたよね? 治癒力を取り戻したいなんて思っていないんです。それでも先生は治そうとしているんですよ? おかしくないですか? 本人が病気じゃないと言っているのに、これだとまるで強引に病人に仕立て上げようとしているみたいじゃないですか?」
また事前のシナリオに戻そうとしているようだ。
「そうね、だったらこうしましょう」
ゆり子先生が提案する。
「病気なのか病気じゃないのか、まずはそこから始めていけばいいじゃない。調べてもわからないという結論は、調べてみないと得られないものね」
その言葉を受けて松宮さんは急に黙り込んでしまった。突然すうっと冷めてしまったかのように感じられた。それから口内の粘膜検査が始まり、質疑応答を何度か繰り返して診察が終わった。結局、俺は何のためにこの場に同席させられたのか分からなかった。場違いだということだけは自分が一番よく分かっている。
「それではまた来週、同じ時間で」
そう言って、先生は松宮さんを見送った。
「ゆり子先生、異能力がなくなるなんてこと本当にあるんですか? 診察を続けるということは、その可能性があるということですよね?」
先生がソファに深く身を沈めて答える。
「実は子どもが能力を失ったっていう相談はよくあることなの。でもそれは五、六歳までの話で、実際に失われたケースは一件もない。子どもは自分の能力に怖がって、どうしてもそういう嘘をついてしまうのよね。でも小学校に上がる頃には、その手の相談はなくなるものなの。十五歳で相談に来るという話は今まで聞いたことがないわね。だから専門外の私のところに来たんでしょうけど」
先生が深刻な顔をしている。
「それなら、やっぱり松宮さんも子どものように嘘をついているということでしょうか?」
「今は何も決めつけないで接するしかないかな」
これは心の問題ではないだろうか?
「でも本人が能力を使いたくないと思えば、一生使わずにいるかもしれませんよね? だとしたら松宮さんに能力を使わせるのは難しくないですか?」
「そうね。彼女はこれまで高い数値を残してきたけど、このまま使わずにいると以前のような力を発揮することができなくなるかもしれない」
ゆり子先生はいつものようにソファで寝ようとしなかった。
松宮さんの存在が俺と先生の日常に変化をもたらしたようだ。
「俺、ちょっと気になるんで彼女を家まで送ってきますよ。断られるかもしれないけど行くだけ行ってみます」
ゆり子先生が微笑みながら頷いた。
「車に気をつけてね」
追いつけるかわからないし、もうすでに見失っているかもしれないけど、とにかく走ることにした。なんとなく、そうしたくなったのだ。いや、そう考える一方で別な感覚が頭をよぎる。自分で考えて行動に移したはずなのに、俺がそうすることをゆり子先生は分かっていたかのような感覚だ。
昔からあるのだ。全部自分で決めているはずなのに、同時にゆり子先生の願いのまま行動しているような、そんな不思議な感覚。十五歳だからこんな神秘的な感覚に囚われてしまうのだろうか? こういうのは年齢を重ねてみないことには比較できないことだ。
国道沿いの歩道に出ると、松宮さんの後ろ姿を見つけることができた。
昼過ぎに見た時に比べて幼く感じるのは年齢を知ったからだろうか。
「松宮さん!」
声を掛けると振り返ったが、すぐに背中を向けて歩き始めてしまった。
普通は走っている知人に声を掛けられたら立ち止まるものではないだろうか?
「松宮さん!」
再び声を掛けたら、やっと立ち止まってくれた。
「待ってよ」
「待ったでしょ」
「いや、そうじゃなくて最初に声を掛けた時にさ」
「そういうルールがあるんだ?」
「いや、ないけど」
「何が言いたいの?」
「いや、つまり、その」
俺は何をしに来たのだろうか?
「何か用?」
「用ってほどじゃないけど」
「また背中を押しに来た?」
「そんなわけないだろう!」
冷たい目をして顔を引きつらせた。
「用がないなら帰るけど」
「あっ、ちょっと待って」
「なに?」
松宮さんが不審そうに俺を見る。
「いや、家まで送ろうかと思って」
「はっ?」
「だから家まで送るよ」
「なにそれ?」
「嫌ならいいんだけど」
「イヤに決まってるでしょ? どうしてそういう発想になるのか分かんない。今日初めて会った人に住んでる家とか知られたくないんだけど」
そりゃそうか。
「先生に何か言われた?」
「いや、ゆり子先生は何も言ってない」
「だったらそういうのやめた方がいいと思う」
そこで松宮さんが首を振った。
「違う。やめた方がいいと思うんじゃなくて、やめて欲しい。なんか怖いよ」
完全に不審者扱いされたようだ。
「だから、もう行くね」
そう言うと、背を向けて歩き出してしまった。
俺も無理に引き止めることができなかった。
もやもやした気持ちで背中を見つめることしかできない。
そもそもどうして追い掛けてきたのだろうか?
それすら自分で分かっていないのだ。
ただ気に掛かるという衝動しかなかった。
今にして思えば、ゆり子先生が抱えた問題を自分のことのように錯覚してしまったような気もする。
部外者であることは承知しているはずなのに。
「ちょっと待って」
でもどうしてもこのまま別れたくなかった。
「なに? まだ何かあるの?」
ちょっと怒っているように見える。
「いや、その、どうしても言っておきたいことがあって。でも、それを上手く伝えられないんだ。会話が苦手というか、なんというかさ。うん。頭の中では色んなことを考えているからたくさん言葉があるんだけど、それをいざ口にしようと思うとブレーキが掛かるんだ」
「その割にペラペラしゃべってるけど」
「いや、それはそうなんだけど、こういうのは本当に話したいことじゃなくて、伝えたいことはいつまでも喉元でつかえているんだよ」
どうして緊張するんだろう?
「それならさっき言った家まで送るっていうのは何だったの? 口からでまかせっていうこと?」
首を振り過ぎて頭が痛くなった。
「違うよ。家まで送れば、その間に話したいことを伝えられるかもしれないと思って……。それで取りあえず呼び止めてしまったんだ」
松宮さんが頭の悪い子を見ているような目で俺のことを見ている。
それだけは自分でも察しがつく。
なぜなら子どもの頃から慣れているからだ。
「松宮さんには分からないと思うけど、誰もがすらすら会話ができるというわけではないんだよ。言いたいことがあっても口ごもっているんだ」
あれ?
でも、ちょっとだけ慣れたかもしれない。
「じゃあ、ついて来ていいよ」
「いいの?」
「いいけど途中までね。別れた後にコソコソ追い掛けて来たら警察に通報するから」
これは本気でやりそうな雰囲気だ。
「わかった」
ということで、並んで歩くことになった。
それはいいのだが、歩き出した途端に会話ができなくなってしまった。
さっき感じた慣れは何だったのだろうか?
何か話さなければ、と思えば思うほど焦って頭の中が真っ白になる。
考えてみれば同級生の女子と二人きりで会話をするのは生まれて初めてだ。
さっきまでは話せていたのに、どうして急にしゃべれなくなるのだろう?
やけに心臓が自己主張してくる。
夕暮れ前だというのに視界もおかしい。
急に世界が狭苦しく感じ出した。
無言のまま十分は歩いているだろうか?
もっと経っているようにも感じるし、実際はそれほど経っていないようにも感じる。
その間に松宮さんが口を開くことは一度もなかった。
呼吸すらしていないようにも感じられる。
しかし、彼女には話したいことなどないのだから当然だ。
「ここで別れよう」
一言も話せないまま別れの時を迎えてしまった。
「……あの」
「もういいよ」
松宮さんが言葉を遮るのも当然だ。
「先生に『友達になってあげなさい』とか言われたんでしょう? 『心の問題』とか、『悩みを聞いてあげて』とか、そういうのはもういい」
「違う。本当に先生からの指示じゃない」
そう言っても、もう目を合わせることすらしてくれなかった。
児童公園で遊んでいる子どもを、ぼんやりと眺めている。
「これ」
「なにそれ?」
俺が差し出したのは一冊の本だ。
「小説」
「それは見ればわかるけど」
「うん。その、読んでほしいと思って」
「どうして私が読まなきゃいけないの?」
「それは、その……」
また言葉に詰まってしまった。
なぜ大事なことに限って話せなくなってしまうのだろう?
それでどうでもいいことばかり吐き出してしまう。
松宮さんがサッと本を手に取った。
「無能者?」
俺のバイブルだ。
「なにこれ? 私への当てつけのつもり?」
伝えたいことを伝えるのは本当に大変なことだ。