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最終話 やっぱり俺だけが無能

 大学に落ちた。

 うん、これは当然だと思う。なぜなら高校受験用の勉強しかしていないからだ。でも不思議とイケるんじゃないか、という気持ちがあった。しかし世の中には気持ちだけではどうすることもできないことがあるようだ。今ではイケると思った自分が憎らしいくらいである。

 まだまだ受験シーズンは終わっていないのだが、母さんがお金を出してくれないので俺の受験は三月を待たずして終わってしまった。これは母さんの判断が正しいに違いない。挑戦することには賛成しても、合格する確率まで度外視するわけにはいかないというスタンスだ。


 二月末日の卒業式までヒマを持てあましているのではないか、ということで松宮さんがお茶に誘ってくれた。待ち合わせ場所は透子ちゃんの家だった。そこで受験に失敗した俺のために、激励会という名の残念会を開いてくれるという話である。

 リビングに行くと飾り付けがしており『無能くんの残念会』と書かれた方眼紙まで壁に貼り付けてあった。どうやら正確には、残念会という名の激励会のようだ。これは辱めを受けることで今後の奮起を促す意図だろうか?

「ところで無能くん、卒業したらどうするの?」

 リビングには俺と松宮さんしかいない。家主の二人はキッチンで食事の用意をしている。松宮さんが飾り付け担当だったようだ。

「まだ決めていないよ。なにしろ思い描いていた未来が真っ暗になったわけだからね」

「分かるよ。目の前に進みたい道があるのに、そこに行けないってつらいよね」

 いや、飛び級で大学に行ける人には分からんだろ。

「あの頃、私も本当に悩んでたんだ。今でも時々、自分には別の人生があったんじゃないかって考える時があるもん」

 彼女ほど順調な人でもそんなことを考えるのか。

「でも社会に出てから自分を必要としてくれている人がいる、というのが分かってから、すぐに現実に帰ることができるようになったの」

 松宮さんはすでに立派な臨床医だ。

「覚えてる? 無能くんは私に『テレビに出て笑わす才能はないだろうけど、人を笑わすことはどこにいたってできるさ』と言ったのよ。それで頭を切り替えることができたの。まずは目の前の人を笑わせてみよう、と思うことができた。それが私に足りていない意識だったのよね。プロだけではカヴァーしきれないのが現代社会だと思うの。目の前の人を笑顔にしようと思ったら、私の方が適任かもしれないじゃない。笑いはプロだけのものじゃないのよね。目の前にいる人を笑わせたい、って強く思った人の方が勝ちなのよ」

 こういう意識を持てるようになったのはネット社会の恩恵だろうか? プロだけが求められているわけではない、というのが分かったのだ。誰かにとっての自分が感じられやすい社会だ。誰かのために、が実現しやすい世の中にもなったような気がする。

 四人で食事を楽しんだ後、今度は透子ちゃんと二人きりになった。透子ちゃんのお母さんと松宮さんはケーキを作りに行ってしまった。遅れたけどバレンタインチョコをプレゼントしてくれると言っていた。みんなで食べるのに、なぜか俺だけお返ししないといけないという変な行事だ。

「私、もっとちゃんと無能くんに勉強を教えてあげれば良かったね。それだけがすごく後悔していることなんだ」

「いやいや、俺は人に教わる以前の状態だったからさ、透子ちゃんの時間をムダにしなかったことだけは良かったと思ってるよ」

 透子ちゃんが悲しそうな顔をする。

「私は、ムダにしてほしかったな」

 透子ちゃんが首を振る。

「違う違う。私がムダにしなければいけなかったんだね。あの時の無能くんのように今度は自分が無能くんのために力にならないといけなかったんだ」

「いや、俺が家庭教師の申し出を断ったのは、本当に基礎からやり直さないといけなかったからなんだ。落ちたのは透子ちゃんの責任じゃないよ」

 なぜか俺より彼女の方が落ち込んでいる。

「でも私はゆり子先生のようにお節介ができなかった。断られたら『はい、そうですか』と引き下がってしまったんだもん。ゆり子先生だったら強引にでも押しかけていたでしょう? どうして自分にはそれができないのか、すごく落ち込むし、情けないよ」

 それを口にしてくれただけで嬉しいんだよな。

「先生はほら、仕事だからさ、一緒に考えたらいけないよ」

「本当にそうなのかな? ゆり子先生と私の間には決定的に違う何かがあるような気がする」

「それは個が違うんだから違ってて当然さ。比べて気にすることではないだろう?」

「そういうんじゃない。そういうんじゃないけど、論文と違って上手く説明できない」

 そう言ったきり黙ってしまった。透子ちゃんに説明できないことなら俺が考えたところで分かるはずがない。

 それから紀ちゃんと真実ちゃんが遅れて合流し、その場の空気が一変して賑やかな雰囲気となった。完全に主役がその二人に変わった感じだ。一人一人はおとなしそうな子たちなのに、どうして女の子はひとかたまりになると別人のような顔になるのだろう?

 客観的に見れば男は俺一人なのでハーレム状態なのだが、現実だとその楽しそうな輪の中に入るのがなかなか難しいものがある。また恋愛シミュレーションゲームなら高校卒業を期に四人の中から一人に告白する流れだが、そういう気分にもなれなかった。

 結局、女子会の輪に入ることができずにキッチンの方に逃げてきてしまった。洗い物が目についたので食器洗いで時間を潰すことにした。

「どこに行ったかと思ったら、こんなところにいたのね。洗い物までして」

 振り返ると透子ちゃんのお母さんが立っていた。

「今日は無能くんが主役なのに」

「いいんです。主役は苦手ですから」

「あなたは他人を主役にする人ですものね」

「好きな本の影響かもしれません」

 やっぱり俺はムガちゃんが好きだ。

「透子が変わったのはあなたの影響ね。明るくなったでしょう? 以前なら怖がってパーティーなんかやりたがらなかったもの。でもね、元々あの子は明るい子だったのよ。透明力だって嫌じゃなかったの。みんなを驚かせて遊んでいたくらいなんだから。やっと昔の透子が帰ってきた感じかな。本当に長かった。ちゃんとお礼を言ってなかったわね。無能くん、ありがとう」

 透子ちゃんのお母さんが深々と頭を下げた。

「やめて下さい。俺、お礼されるようなことなんてしてませんから。透子ちゃんにも恩着せがましくするつもりはないんで何も言わないでほしいんです」

 透子ちゃんのお母さんが驚いた。

「白河先生と同じこと言うのね」

「ゆり子先生と同じって、どういうことですか?」

「今日のパーティーは白河先生の発案なのよ」

 驚くのは俺の方だ。

「白河先生が娘たちに提案して、それで有子ちゃんが中心になって無能くんを励まそうとしたの。でもこれ言っちゃまずかったかしら? 先生はそのことを黙っててほしかったのよね。なんでも『私の提案だと知ったらガッカリするんじゃないか』って娘から聞いたけど。そんなこと気にすることないわよね。白河先生もいらしたらいいのに、仕事が忙しいとかで断ったそうよ」

 すっかり忘れていた。ゆり子先生も人が集まる輪に入るのが苦手な人だったのだ。そこはもう俺の比ではない。ひょっとしたら、自分を忙しくさせているのは人が集まる輪に入るのを断るためではなかろうか? いま思えば、そんな気がしてきた。


 帰り道、ゆり子先生のことばかり考えていた。考えると、寂しくなって、涙が流れた。俺より寂しい人がいると思っただけで、涙が溢れる。家に帰る前には渇いた涙も、自室で一人になるとまた溢れ出した。先生を一人きりにさせた自分が悔しいのだ。

 俺を一人にさせないようにと頑張ったゆり子先生が誰よりも孤独じゃないか。それなのに今までの俺は自分の孤独で頭がいっぱいだった。どうして他人の孤独を知ろうとしなかったのだろうか。なぜ自分だけが一人ぼっちの被害者だと思ったのだろうか?

 決めた。今年はうるう年なので、ゆり子先生の誕生日がちゃんとある年だ。卒業式の翌日なので時間もたっぷりとある。診察日ではないので会う予定はなかったが、サプライズでお祝いをすることにしよう。診察日以外で研究センターに行くのは初めてだ。

 俺が突然現れたら驚くだろう。本当の年齢は二十八歳だけど、先生が「うるう年に生まれたから七歳よ」と定番のギャグを言ったら笑ってあげる必要がある。愛想笑いにならないように、しっかりと笑ってあげるんだ。それくらいの誕生日プレゼントがあってもいいだろう。


 そして、その日が来た。

「ゆり子先生?」

 ドアは開いているので中にいるのは間違いない。

「失礼します」

 部屋の中が暖かい。

 でも研究室に先生の姿はなかった。

 隣の診察室にいるようだ。

「先生」

 ノックをするが、返事はなかった。

「俺です。入りますよ」

 恐る恐るドアを開けてみた。

 するとソファで眠っている先生を見つけた。

 いつもの光景である。

「風邪ひくからダメだって言ってるのに」

 ハッキリ口にしたのに起きる様子はない。

 これもいつものことだ。

「ん?」

 いつもと違う点がある。

 それは手紙を持ったまま眠っていることだ。

 しかも、その手紙には憶えがあった。

「どうして?」

 その手紙は俺が書いたものだ。

 文面から見て間違いない。

 なぜ湯川士郎先生へ宛てた手紙がここに?

「あっ」

 そこですべての謎が解けた。

 最近久しぶりに耳にした『白河ゆり子』という本名。

 それが、すべての謎を解くカギとなっていたのだ。

 シロカワユリコからリコを抜いて、アナグラムを用いる。

 そうして並び替えると、ユカワシロになるではないか。

 つまり『無能者』の作者である湯川士郎は、ゆり子先生だったのだ。

 松宮さんが『無能者』には『利己』が足りないと言っていた。

 偶然の考察かもしれないけど、ちゃんと理由があったのだ。

「先生、あなたが作者だったのですね?」

 気がつくと、泣いていた。

 先生の寝顔を見て、泣かずにはいられなかった。

 この人は、俺に読ませるためだけに本を書いたというのか?

「……笑吉くん」

 先生を起こしてしまったようだ。

「どうしたの?」

「先生、その手紙」

 ハッとするが、先生はすべてを悟ったようだ。

「ごめんなさい。騙すつもりはなかったの」

「いいんです。謝らないで下さい」

 ゆり子先生が大切そうに手紙を胸に当てる。

「今まで嘘をついてきて、ごめんなさい」

「そういう仕事なら仕方ないですよ」

 ゆり子先生がうつむいて、首を横に振った。

 俺はそんな先生を見下ろしていたくなかったので先生の隣に腰を下ろした。

「いくら瞬間記憶があるといっても、内容を理解するスピードまで速かったから怪しいと思っていたんです。でも作者なら理解していて当然ですよね」

 先生が首を振る。

「違うの、笑吉くん。私のこれまでの人生、すべてが嘘だったのよ。瞬間記憶力なんて持ってないの。家族にも嘘をついてきたのよ」

 それって、つまり?

「私も笑吉くんと同じ無能者なの。でもそれを人に知られるのが怖くて、変な目で見られるのが嫌で、どうしても人に言えなかった。笑われたらどうしよう? 差別されたらどうしよう? それで周りの目を誤魔化すために瞬間記憶があると嘘をついてきた」

 それで疑われないなら立派な能力だ。

「笑吉くんとの出会いは人生を変えるような出来事だった。何が衝撃的だったかって、あなたが私のように嘘をつかなかったこと。嘘をつかない人に出会えると、それだけで神様に手を差し出された気持ちになる。それなのに私は正直者になることができなかった」

 先生の嘘のどこに悪意があるというのだろう?

「正直になれたら、どれだけあなたの救いになったでしょう? それなのに私はやっぱり怖くて正直に告白することができなかった。ここにも無能者がいるって言ってあげれば良かったのに、無能はあなただけじゃないって教えてあげれば良かったのに、それなのに、ごめんなさい」

 先生が泣いている。泣かせてしまったのは俺だ。

「ゆり子先生はちゃんと告白してくれたじゃないですか。『無能者』という本を書いて俺に読ませてくれました。あれで俺がどれだけ救われたと思っているんですか。気づいてあげられなかったのは俺の責任です。ゆり子先生、あなたがムガちゃんだったのですね」

 俺がずっと探し求めていた女性は目の前にいたのだ。

 作中におけるムガちゃんの変化は、ゆり子先生の変化でもあったわけだ。

 俺はゆり子先生を死ぬまで独りにさせないと決めた。

 たくさん笑わせて、残りの人生を幸せなものにしてみせる。

 生まれて初めて女性を抱きしめた。

 これほど大切に思える気持ちを持ち得ることは他にないと思うことができた。

 その日、ゆり子先生のお家に泊まることにした。

 大人になれて良かったと思うことができたのは彼女のおかげだ。

 また、子どもに戻りたくないと思うことができたのもゆり子先生のおかげである。

 しかし、夢と現実は交互にやって来るものだ。

 翌朝、目を覚ますと、ゆり子先生はすでに部屋のパソコンを使って仕事をしていた。

 俺はその姿を見て痛感したのだ。

 彼女は有能で、やっぱり俺だけが無能! だと。


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