第二十三話 明子の秋
あれから半年、季節は秋になっていた。俺も十八歳になったけど、土曜日の午後は変わらなかった。この日もゆり子先生の診察を受けていた。
「そういえば有子ちゃんに聞いたけど、紀子ちゃんと真実ちゃんだったっけ? 二人ともプロ契約したそうね」
学校で話題になっているので俺も知っている。
「真実ちゃんって子、すごいらしいじゃない」
「まぁ、彼女は低能力者ですからね」
「取材も来てるんでしょ?」
「デビュー前なのにファンもいるみたいですよ」
「彼女、笑吉くんに何か言ってた?」
「あれ以来まったく話してないです」
「そう、それは残念ね」
「俺、関係ないですもん」
「おめでとうって言ってあげたら喜ぶかもよ」
「いいですよ、そういう関係でもないし」
「それでも嬉しいと思うけどな」
ソファで紅茶を飲むゆり子先生が窓の外を気にしている。今は小雨程度だが台風が接近しているので夜には大雨になるかもしれない。
「真実ちゃんはプロになったくらいじゃ喜ばない人ですからね。ちゃんとレギュラーとして活躍しないと納得しないと思うんです。いや、それどころかチームが優勝してタイトルを獲得しても満足しないかもしれない。そういう人なんですよね。それにたとえプロで成功しなくても、それで試合が終わったと思う人じゃありません。自分が勝負できる新たな場所を見つけられる人なんです」
先生が黙って話を聞いてくれている。それが俺にはとても心地良かった。勝手に想像して話しているだけなのに、それを全部受け止めてくれるのだ。
「俺はスポーツとかしたことがないから実際は分からないけど、真実ちゃんや紀ちゃんを見ていると俺もやっておけば良かったと思いました。スポーツって素晴らしいですよね。何度も試合をして、何度も負けて、それでも挑戦を諦めないんだもん。練習することと同じくらい休息することも大事だと教えてくれますからね。怪我をしたら怪我とも向き合わないといけないし。身体能力に恵まれていると素直に感じられるでしょうし、本当にスポーツには人生のすべてが詰まっているように見ていて感じます」
だからといってすべてのスポーツ経験者が優れているかといったら、そうでもないのが現実だ。それも含めて人生が凝縮されているということである。
「紀ちゃんとも会ってないの?」
「会ってませんよ」
「あれから一度も?」
「会ってたら先生に話してますよ」
「あっ、そうか」
「そうですよ、俺、黙ってることできないんで」
「それもそうね」
どうしてそんなに気になるのだろう?
「でも紀子ちゃんの場合は笑吉くんのおかげで異能力を取り戻すことができたわけでしょう? それなら感謝の一つもあっていいと思うのに」
「彼女だって俺が何かをしたわけじゃないんです。異能力を取り戻した瞬間に立ち会っただけですからね。真実ちゃんのおかげなんじゃないですか?」
そこが小説『無能者』のムガちゃんと違う点だ。
「むしろ俺の方が感謝したいくらいです。ちゃんと勉強しようと思ったのは二人と出会ったおかげですからね」
そう、俺は高校三年生になって初めて自分から勉強しようと思い立ったのだ。単純だけど真実ちゃんに触発されたのだ。今は「何かを始めるのに遅すぎることはない」という言葉を大事にしている。探せば世の中には、その時の自分に合った言葉がいくらでもあるものだ。
「ちゃんと続けてるんだ?」
「はい。まだ中学生の問題をやってますけど」
「受験に間に合いそう?」
「松宮さんと透子ちゃんに協力してもらってます」
「それは聞いてないけど?」
「勉強の仕方を教えてもらってるだけなんで」
「私に聞いてくれればいいのに」
ゆり子先生が不機嫌になる。
「先生の勉強方法なんて参考になりませんよ。教科書に目を通しただけで覚えられる能力なんて、俺にはないんですから」
先生の瞬間記憶能力は反則だ。
「俺、そろそろ帰りますよ。話してたら勉強したくなっちゃいました」
「ええ? もうそんな時間? なんだか最近、帰るの早くない?」
「それは気のせいです。ほら、今日は台風も来そうだし、先生も早く帰った方がいいですよ」
「つまんないな。どうせ私なんて家に帰っても独りなんだもん」
早く結婚したら、とは口が裂けても言ってはいけない言葉である。顔に出してもいけないので早速帰ることにした。
家に帰ると母さんが不安そうな顔をしていた。どうやら妹の明子が友達と遊びに行って、まだ帰ってきていないらしい。
「どこ行ったの?」
「サンモールだって」
校外の大型ショッピングモールだ。
「台風なのに?」
「人が少ないから快適なんだって」
母さんがリビングを行ったり来たりしている。
「さっきから何してるの?」
「迎えに行こうか迷ってるの」
「子どもじゃないんだし放っておけよ」
「でもお財布なくしたって言うんだもん」
「友達と一緒なんだろう?」
「もう別れたみたい」
「金借りてないの?」
「一緒に探してもらうと帰りが遅くなるからって」
友達に迷惑を掛けるから早めに別れたわけだ。明子は優しいのでそういう気遣いをしてしまうのだ。ということはバス賃も持っていないということか。
「だったら迎えに行ったら?」
「来なくていいって言うんだもん」
「それなら待ってればいいだろう?」
「だって台風強くなりそうじゃない」
「こういう時に親父がいればいいのにな」
父さんには瞬間移動力がある。
「ただいま」
噂をしていたら妹の明子が帰ってきた。
「お母さん、タオル取って!」
廊下に出ると全身ずぶ濡れの姿で玄関に立っていた。たとえ濡れても折れた傘を途中で捨てて来ないだけでも立派な行動だ。
「身体冷やすから先にお風呂はいっちゃいなさい」
母さんが明子の着替えを準備しに行った。
「財布落としたんだって?」
何も言わずに明子が濡れた靴下を脱ぐ。
「歩いて帰ってきたのか?」
何も答えない。
「バス賃もなかったんだろう?」
こちらを見ようともしない。
「言ってくれれば迎えに行ったのに」
明子が黙って浴室へ向かった。
「バス賃くらい借りたらいいだろう?」
浴室で背を向けて、動かなくなってしまった。
「友達にお兄ちゃんがいること話してないんだ。これからも話すつもりはないし、聞かれても答えるつもりはない」
久しぶりの会話だった。
「だから、お兄ちゃんもそのつもりでいてほしい。一緒にいるところを友達に見られたくないし、お兄ちゃんがいることをみんなに知られたくない」
妹がそう思っているだろう、ということは俺もしばらく前から感じていたことだ。ハッキリ言われたところで驚くことではない。
「着替えるから、あっち行って」
何も言わずにその場を離れてやるのが明子のためである。ここでケンカしても仕方ない。そんなことを妹は望んでいないからだ。
とはいっても、この日は勉強に集中することができなかった。薄々気づいていたこととはいえ、実際に言葉にされるとキツイものがある。だからといって妹を悪く思うことはない。明子が優しい子だというのは誰よりもこの俺が知っているからである。
それに十六歳の女の子ならば、父親に嫌悪感を抱いてもおかしくない年頃だ。それが明子の場合は単純に兄貴である俺だったという話なのだろう。冷たく見えても、それで性格が悪いなんて決めつけてはいけないのだ。むしろ自然なことだと考えられる。
好きな人ができたのだろうか? だとしたら俺を隠したいという気持ちも分かる。根拠はないとはいえ、身内に無能力者がいるのは大きな負担だ。遺伝との関連はないとはいえ、まだまだ偏見が残っている。若かろうが高い教育を受けていようが、そういうものを無くすのは難しい。
異能力社会では無能者の俺が身内にいるだけで妹にとっては引け目というか、コンプレックスになってしまうのである。それで自由な恋愛ができないとしたら可哀想な話だ。俺がいなければ、それだけで余計なことを考えずに人を好きになることができただろうに。
俺のような無能者に偏見を持つような男などロクな男じゃない、と言えるのは第三者であって、俺が自分で言うことではない。悩んでいる妹にそれを言うのは、あまりにむごい話ではないか。明子は充分すぎるほど悩んでいるのだから、それ以上を求めてはいけないのだ。
大事なのは、そこで俺が負い目を感じてはいけないということだ。無能者に生まれたのは俺の責任ではないのだから俺が俺自身を差別してはいけない。この、自分を差別しないというのが案外難しかったりするのだ。他の人と比べてダメな人間だと考えてしまうからだ。
先生に助けてもらい、家族に負担を掛けていると思ってしまうと、途端に自分が社会に迷惑を掛けている存在だと考えてしまう。でも、生きるって、そんなことじゃないんだ。誰が一人きりで生きている? 誰一人そんな人はいないではないか。
反論するなら電気や水道やガスや乗り物や他人が作った服や生活用品のない生活をすればいい。誰もが他人の力を借りて生きているではないか。でもそんなことは人に言わない。それで人様に対して偉そうに説教をする人間になりたくないからである。
俺の理想の生き方は、他人への感謝を忘れず、時に自虐して笑ってもらい、無能者にもおもしろい奴がいるんだな、って思ってもらうことである。小説『無能者』のムガちゃんが読者に愛されているように、俺は現実でそれを実行していきたいと思っている。
他人からおもしろいって思ってもらうには、やっぱり俺自身が俺を差別していてはいけないのだ。まず俺が自分をおもしろいと思わないといけない。すごく自信家な時と、まったく自信が持てない時と、その二つの感情が交互に襲ってくるけど、試合には出続けたいと思っている。
こうして部屋の中でぼんやりと考え事をしていると、俺は色んな人や色んな創作物に影響を受けていることが分かる。今の自分の言葉には家族や先生だけでなく、松宮さんや透子ちゃんや紀子ちゃんや真実ちゃんの生き方が反映されているのである。
色んな人と出会えて良かったと思うし、色んな本やマンガや音楽や映画やテレビを観てきて良かったとも思える。素直に感謝したり、すべての過去がムダではなかったと、そう思える自分になったのも、きっとこれまで出会ってきた人たちのおかげなのだろう。
これからもそう思える人生を歩むためには、慎重でありながらも大胆さを忘れず、一人きりで考える時間を持って、新しい人と出会うしかない。人生には生死に関わる災難に見舞われることもあるが、先回りしすぎて自分の周りに壁を作っては、素敵な人との出会いも逃すことになりかねない。
そういう生き方もあるよな、って思うこともあるかもしれないが、それはその時になって考えればいいことである。ぼんやりとだけど、ようやく自分の将来を考えられるようになってきたところだ。やっと自分のやりたいことが見つかった感じである。
俺は小説を書いてみたいと思っている。将来の夢とか、憧れの職業という話ではない。どうしようもないくらい、書かずにはいられない衝動だ。夢なんて持たなくていいし、持ってる人が偉いわけじゃない。人様に生き方を指図するなんてもっての他だ。
この衝動だけは誰にも止められない。ただそれだけの話である。すごいとか、すごくないとか、そんな話ではないのだ。すべては衝動である。俺を突き動かしているものがある、というだけだ。これが犯罪行為じゃなかったことだけが、俺の救いだろう。
紙一重だったのではないだろうか? 青少年が事件を起こしたニュースを見る度に、そう思う自分がいる。あれは自分だったかもしれない、と何度これまで思ってきただろう? そうならなかったのは、やっぱり周りの人のおかげなのだ。だからこそ妹を絶対に悪く思えないのだ。
口を利いてくれなくても、冷たい態度を取られても、今の自分があるのは明子のおかげでもあるからだ。こちらからは何も要求することなどない。妹が困っていたら力になってあげたいと思っている。たった一人の兄妹というものは、そういうものなのだ。
物事を前向きに考えられるようになると、これからの将来がすべて上手くいきそうに思える。そう思えたら勉強も苦じゃなくなるのだ。すべてのプロセスまで楽しく感じられるから不思議である。これまで支えてきてもらった人たちのためにも、もうひと踏ん張りだ!