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第二十話 紀子の心情

 紀ちゃんという人は困っている人が目の前にいるとどうして放っておけないようだ。でも俺は別に困っているわけではない。

「紀ちゃん、さっそく本を読んでくれたんだね?」

「はい。読みました。まだ一巻だけですけど」

「それでムガちゃんと俺を重ねたわけだ」

「誰にも理解されないって、つらいことです」

「あれは創作の世界だから」

「でも一人きりにしたくありません」

「うん。それはすごくありがたいことだ」

「ありがとうございます」

「いや、褒めたつもりじゃないんだけどね」

「そうでした。力になるのは当たり前ですからね」

 紀ちゃんっていう子は優しい心の持ち主なのだろう。物語に感化されて俺をムガちゃんのように一人にさせたくないと思ったようだ。

「でもね、俺はムガちゃんと違って独りじゃないんだ。ありがたいことにゆり子先生という人がいて子どもの頃から力になってくれている人がいるんだよ」

 ロッカー・ルームで診察を受けているようだ。

「最近になって思うのは俺よりも先生の方が大変なんじゃないかってことでさ、実はすごい犠牲を強いていたように考えることがあるんだ。というのも中学生の頃なんてずっと俺に付きっきりで診察してくれてたからね。先生の私生活まで奪っていたような気がするよ。その三年間を振り返ると申し訳ない気持ちでいっぱいになるんだ。俺と出会わなければいい出会いもあったかもしれないし。そう、つまりもっと他の今とは違う人生があったんじゃないかって思うわけさ。二十代前半を俺に費やしてくれたわけだからね」

 紀ちゃんは慈悲深い眼差しを注いでくれる子だ。

「無能くんはそんなことを考える必要はないと思いますよ。その気持ちだけで先生は喜んでくれると思います。むしろ無能くんに出会えて感謝しているかもしれません。それは私が多くの人と出会えて感謝しているからです。部内で問題を起こす人がいても、いない方が良かったなんて思いません。出会わなければ良かったなんて思わないのです。それは起こった出来事すべてがチームや自分を成長させてくれていると思っているからなんです。だから私、感謝しているんです」

 彼女はいい人だけどいい人すぎると心配になる。

「そっか、そういえばゆり子先生もやたらと感謝する人で不思議に感じてたけど、そういう風に考えられる人なのかな? でも俺にはそれが苦しそうに見える時があるんだよな。もっと自分の人生を生きればいいのにって勝手に思ってしまうんだ。でも考えてみれば他人の人生だから俺なんかに理解できるわけがないんだよね。それこそ独りよがりってことなのかもしれない」

 紀ちゃんが深く頷く。

「はい。人というのは楽しそうな顔をしてつらかったり、苦しそうな顔をして嬉しかったり、様々な顔と心を持っていますからね。いつもニコニコしている後輩を見ても、この人の人生は楽しそうだって思い込まないようにしているんです。そういう人ほど人に言えない悩みを抱えていて、誰にも打ち明けられずに苦しんでいるかもしれませんからね。反対につらそうな顔をしてくれると多くの人に気がついてもらえるのでホッとします。一種の意思表示みたいなものなので。つまり感情を表に出してくれるということは、私たちにサインを出してくれているということなんです」

 団体競技のキャプテンを務めている人の言葉なので発言に重みが感じられる。自分だけではどうにもできないと若くして悟っているかのようだ。

「俺、このところずっと先生に申し訳ない気持ちがあったけど、紀ちゃんと話ができてちょっとだけ気分が楽になったよ。やっぱり色んな人と話をしてみるもんだね。自分とは違う見方をしている人がいるんだもん。先生には先生の生き方もあるしね」

 って、俺は何しにここへ来たんだろうか?

「来週までに二巻目も読んでおきますね」


 その前に俺はゆり子先生に紀ちゃんのことを相談することにした。相談といっても俺が一方的にしゃべっただけである。それに対して先生が感想を言う。

「そっか、悩みのない人の悩みを解決するって、それほどの難題はこの世に存在しないかもしれないわね」

 この日のゆり子先生はレモンティーを希望した。そのレモンは俺が買ってきて俺がスライスして用意したものだ。家の用事は面倒に感じても、ゆり子先生のためならできてしまうのだ。むしろ嬉しくてたまらないものがある。これが感謝の気持ちだろうか?

「でも紀ちゃんの言葉に従えば、彼女自身も自分から打ち明けられない悩みを胸に秘めている可能性があるかもしれないのよね」

「そういうことになりますね。でも出会ったばかりの俺が、その思いを引き出すなんてムリですよ。むしろ引き出してもらっている方なんですから」

 ゆり子先生が優しく微笑む。

「いい出会いをしたわね」

 どういう意味で言ったのだろう?

 先生にもちゃんと出会いがあるのだろうか?

 ふと、そんなことが頭をよぎった。

「でも紀ちゃんと話をしていると、ホントいつの間にかペースを握られているんですよね。気がつかないうちに俺が相談者になっているんです。スポーツなら勝っているはずなのに負けている気になって、終わってみれば逆転を許していた感覚とでも言ったらいいのか」

 いや、スポーツなんてしたことないけどな。

「だったらこのまま彼女のペースに合わせてみたらどうかしら? 笑吉くんがそうであるように、紀ちゃんも自分で気がつくことがあるかもしれない」


 ということで翌日練習終わりに紀ちゃんの元へ会いに行ったが、ロッカー・ルームで向かい合う彼女はとても真剣な眼差しをしていた。

「何かあった?」

「続きが気になったので三巻まで全部読みました」

「ああ『無能者』のことね」

「はい」

 最新刊はムガちゃんが運動部員を助ける話だ。

「だから私のことを気に掛けてくれたんですか?」

「うん、まあ気に掛けるというか」

「ムガちゃんのように力になろうとしたんですね」

「それは松宮さんと透子ちゃんがね」

「本の通りにしようと思って?」

「そういうことかな」

 そう言うと、紀ちゃんはうつむいてしまった。いつも姿勢よく真っ直ぐこちらを見つめる子なので陰影がより悲壮に見える。

「あっ、でも本は本だからね。俺はムガちゃんのような真似はできないし、するつもりもない。いや、できるわけないよ。だから紀ちゃんも変なプレッシャーを感じなくていいからね。別に無理やり能力を引き出そうなんて思ってないし」

 正直に言うと俺は最新刊のムガちゃんの行動には納得していない。野暮を承知で難癖をつけているだけである。少しだけネタバレすると、最新刊のムガちゃんは浮遊力を失った男の子のためにある行動に出るのだった。それが俺には受けつけられないのである。

 いや、これでは説明しきれない。

 完全なネタバレになるが、それは男の子の見ている前で校舎の屋上から飛び降りてしまうのだ。そこがいくら創作でもやりすぎだと思ったのだ。結局、飛び降りたムガちゃんは彼の浮遊力で救われたからいいものの、現実では無謀としか思えない行為なので、どうも褒める気にはなれないのだ。でも松宮さんや透子ちゃんには好評みたいで、フィクションを割り切って楽しんだ方がいいのかな、なんてモヤモヤしているのである。

「私、ムガちゃんの気持ちが分かるんです。もちろん口にするだけなら誰だって言えるって、それも含めて分かっているんです。それでも私はムガちゃんの気持ちが分かるって言いたいんです。そう強く思っていないと生きているのがつらいから。だってそうじゃないですか? 自分が誰かのために生きることができないなんて思いながら暮らしていくのはつらいです。実際に命を犠牲にしてまで誰かのために生きることができるかどうかは分かりません。でも私は、できないなんて思いたくありません」

 紀ちゃんの顔が赤い。自分でも恥ずかしいことを口にしていると思っているのかもしれない。でも彼女は勇気を出して口にしてくれた。俺はそういう人を絶対に笑ったりしない人間だ。いくら無能でも真面目な人間を笑う男にはなりたくないからである。

「言い回しが難しくて分かりにくいかもしれないけど、俺も人のために何かできる人間でありたいと、そう願える人間でありたい、と思っている。開き直って悟るのは年を取ってからでも充分だからね。ただ、俺は本物の無能だから、人から助けられてばっかりだけどさ」

 紀ちゃんの顔がキリッとした。

「そんなことは絶対にありません。無能くんはこうして私のために力になってくれているではありませんか」

 いや、俺の最後の一言は自虐して微笑み程度の笑いを誘おうと思ったんだが、……忘れてた。紀ちゃんはそういうのも真面目に受け取るんだった。

「でも犠牲ってどこまでが犠牲と呼んでいいもんなんだろう? 屋上から飛び降りたムガちゃんの行動って、果たして犠牲といえるのかな?」

「それはムガちゃんにしか分からないことなので憶測になりますが、彼女は犠牲になるつもりはなかったんじゃないですか?」

「え? どういうこと? 相手の男のために飛んだんじゃないの? 彼に能力を取り戻させるために飛んだんだよね?」

「いいえ、ムガちゃんは衝動で飛び降りてしまったんじゃないでしょうか? だからその後の二人はうまくいかなくなったんだと思います」

 そういう解釈もできるのか。

「うまくいかなかったというのは、恋愛に発展しなかったということだよね?」

「いいえ、恋愛はすでにしていたと思います。でもうまくいかなかったということです」

「それはムガちゃんの行動が重すぎて、男が怖くなったのかな?」

「そうかもしれませんし、ムガちゃんが身を引いた可能性もあります」

 紀ちゃんの解釈が必ずしも正解とは限らない。

「無能くんはムガちゃんが人を好きになるのがいけないことのように思っている感じがします」

「いや、そんなことないけど、そんな男を好きになるか? っていうのはあるかな」

 紀ちゃんが本の奥付を確認する。

「このシリーズは刊行ペースが遅いですよね? そのペースに合わせて作中の時間も流れています。だからムガちゃんの成長が早く感じられるんです」

 ゆり子先生も同じ指摘をしていた。

「無能くんと違って私は一気に読んだから分かるんですが、ムガちゃんって一巻と三巻では別人のようになっているんですよ? シリーズを通してその献身性や自己犠牲の精神は変わっていないんですが、最新刊では自分のことを考えられるようになっているんです。人のためにしているとばかり思っていたことが、自分のためにもなっていると感じ始めたんじゃないでしょうか? 本来はそれでいいんですが、彼女はそんな自分に戸惑っているんです。利他的ばかりではなく、利己的でもいいのに、ムガちゃんはそれを必要以上に許せないのかもしれません。それで男の子から身を引いてしまったような気がします」

 頭のいい人の感想を聞くと、どうしてもそれが正解だと思ってしまう自分がいる。そうなると自分の頭で考えられなくなるのが難点だ。

「俺さ、最新刊を読むまで自分とムガちゃんを重ね合わせていた部分があって、それで夢中になって読んでたんだけど、最新刊は読み返してないんだ。今は無能っていう部分しか共通点がないように思えてさ、どんどん熱が冷めていっているのが自分でも分かるんだよ」

 紀ちゃんが唇を噛む。

「無能くんは自分と同じ女のひとじゃないと好きになれませんか?」

「いや、そんなことはないと思うけど、ほら価値観が大事とは言うだろう?」

「ムガちゃんの価値観は変わっていないと思いますよ。ただ異性を意識したというだけで」

「まぁ、そうだよね。正直に言うと俺も嫉妬しているだけかもしれないし」

 創作物のキャラクターに対して何を言ってるんだと自分でツッコミを入れたくなるが、紀ちゃんは至って真面目な顔をしている。

「嫉妬を覚えたのは無能くんだけではなく、ムガちゃんも同じかもしれません。でもいいんです。それが人間ですから」

 紀ちゃんも大概だった。

「なんか、俺より紀ちゃんの方がムガちゃんのことを理解しているみたいだね。こういうのって、やっぱり器の違いなのかな?」

 そこで紀ちゃんが何度も首を横に振った。

「そんなことありません。自分がそうだから他人も同じなんじゃないかって思っただけなんです。でもみんながみんな嫉妬するわけじゃありませんよね」

 紀ちゃんが思いつめた顔をしている。

「嫉妬って恋愛だけじゃありませんよね? なぜかどうしても気になってしまう人っているじゃないですか? 自分でもキャプテンに向いていないことも知っていますから。私よりマミの方がキャプテンに相応しいんです」

 はて? マミって誰だろう?


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