第十九話 真面目な紀子
診察室で白衣をまとう三人の女性に囲まれているという状況は、人生でなかなか経験できることではないだろう。その時ばかりは無能者に生まれてきて良かったと思えた。しかしスランプになった運動選手を再起させることなど、俺なんかにできるはずがない。
「私は一緒のクラスになったことがないけど、紀ちゃんはすごい真面目で、すごく正義感があって、とにかくいい人なんだって。ねっ?」
松宮さんが透子ちゃんにもしゃべらせる。
「うん。男子だけじゃなくて同性にもちゃんと注意してくれるから一緒のクラスで心強かった。私が無事に卒業できたのは半分、紀ちゃんのおかげなんだ」
そっか、俺が知らないだけで透子ちゃんには彼女を支えた人が他にもいたんだ。しかも半分もその紀ちゃんのおかげと言っている。俺のおかげだと口にしなくて良かった。そんなことを口にしていたら、とんだ勘違い野郎と思われていた可能性がある。
「無能くん、彼女のことお願いしていいかな?」
松宮さんの目は真剣だった。
「いや、どう考えても無理でしょう。いくら俺がムガちゃんと同じ無能者だからって、できることとできないことの区別はつけようよ」
「あれ? 無能くんってやってもいないことを『できない』って言う人だったっけ? 昔はそんな人じゃなかった気がする」
いや、俺は昔から何もできない無能者だ。
「私が透明力をコントロールできるようになったのも無能くんと出会ったからだし、過去の実績から見ても、何らかの反応が起こる可能性は高いと思う」
「いや透子ちゃんね、松宮さんもそうだけど二人とも元から高能力者だったことを忘れたらダメだよ。キスしたら目が覚めるという話ではないんだ」
そこで透子ちゃんがうつむいた。
「手は握られたけど……」
その言葉に一瞬だけ時が止まった。
ゆり子先生にも話していないことだ。
松宮さんも聞いていないのかもしれない。
そう言えば、俺も話した憶えがない。
先生の目が怒っている。
「笑吉くん、どうして教えてくれなかったの?」
言わなかったけど、怒られることだろうか?
「何がどう影響するのか分からないんだから、ちゃんと教えてくれないとダメじゃない。意外なところに答えがあるかもしれないのよ?」
ゆり子先生は研究のことしか頭にないようだ。
「会ってみたら? その紀子ちゃんっていう人に。ダメで元々なら悪くなりようがないものね。どうせ家でゲームばっかりしてるんでしょう?」
ということで先生の言葉に従って太川紀子さんに会いに行くことになった。会うのは俺一人だ。二人のOGは来てくれなかった。
待ち合わせ場所は彼女が通っている城東高校で、俺たちが東高と呼んでいる進学校だ。そこの体育館入り口で待つように指示を受けた。東高のハイパー・バスケットボール部、通称『ハイバス部』は平日の放課後はもちろん、土日も練習があるため、日曜の練習終了後しか時間を作れない。
俺が家で小説を読んだりゲームをしたりしている間、紀子ちゃんはずっとハイバスの練習をしていたわけだ。そんな彼女に俺がアドバイスするとか、それは絶対にやっちゃいけないことだろう。運動ができない奴のアドバイスなど迷走させるだけだ。
そんなことを体育館前の入り口横で座って考えていると、やっと練習が終わって中が静かになった。でも中から一人も生徒が出て来なかった。入り口が二つあるので間違ってるのだろうか、と移動しようと思ったところで、目の前に小さな女の子が現れた。
「無能くん?」
はて? このおかっぱの中学生は誰だろうか?
「無能というか、加東だけど、君は誰かな? 俺はキャプテンに用があるんだけど」
「人を見た目で判断しないで下さい。私がそのキャプテンなんですから」
「え? じゃあ君が紀子ちゃん? あっ、ごめん、太川さんだっけ?」
「そうですよ。でも呼び名は『紀ちゃん』にして下さい。みんなからそう呼ばれているので」
そうだった。ハイパーバスケは瞬間移動を持った異能者が有利にゲームを支配できるスポーツなので、背の高さは関係ないのだ。顔立ちも幼いので中学生かと思ったが、これでも俺と同い年の高校3年生のようである。良く見ると美形で男子が好きそうな顔をしている。
「今まで練習してたんだよね? でも他の人の姿が見えないけど、みんなどこ行ったの?」
「全員帰りましたよ。みんな瞬間移動できるので今頃家でシャワーでも浴びてるんじゃないですか」
さすがは進学校だ。学校から家までの距離を瞬間移動できるって、並大抵のことではない。歩いて十分以上の距離を移動するには特別な才能が必要だ。俺は父さんが瞬間移動できるので仰天するほど驚かないが、それでも瞬間移動がもっとも難しい特殊能力であることは知っている。
「正直に言うと、有子ちゃんから話を聞いた時は迷っていたんですよね。でも透子ちゃんも勧めてくれたから会ってみようと思ったんです。それは透子ちゃんが無能くんに感謝していたからというのもあるんですけど、それよりも一人で悩むのは良くないと思ったからなんです」
真っ直ぐ目を見てしゃべる優等生タイプの子だ。
「考えてみたら、私はこれまで相談されることはあっても、自分から相談することはなかったんですよ。みんなには『何でも相談して』って言っておいて、自分は人に相談しないって、矛盾してるじゃないですか。だから相談してみようって思ったんです」
いい人オーラがすごい。練習に参加していることから、独りになって落ち込むタイプではないようなのでひと安心だ。
「とりあえず座れる場所とかないかな?」
「ロッカー・ルームに椅子があります」
「俺が入っても大丈夫なの?」
「はい」
ということで、早速移動することにした。女子ハイバス部の更衣室だが誰もいないので特に問題はないだろう。
「その相談だけど、紀ちゃんは何について悩んでいるのかな?」
ロッカー・ルームの椅子に向かい合って腰掛けて、悩みを聞くことにした。
「春になってから瞬間移動ができなくなっちゃったんです」
「それはコントロールができなくなったということかな?」
「いいえ違います。やり方をきれいさっぱり忘れて思い出せなくなったんです」
やっぱりこのパターンか。これって俺が関わらなくても自然と治るのではないだろうか? 松宮さんも透子ちゃんも自然と治った気がする。
「無能くん、私どうしたらいいですか?」
そう言われても、どうすることもできない。
「じゃあとりあえず着ている物を脱いでみようか」
「はい」
え?
「ユニフォームを脱げばいいんですね」
そう言って、ビブスを外した。
「ちょっと待って! ちょっと待って!」
紀ちゃんが脱ぎ掛けのお腹を見せて不思議そうな顔をして俺の方を見ている。その無邪気な顔に心が痛くなった。
「いや冗談だから。そんな治療法はないんだ」
紀ちゃんが立ち上がって、俺の正面に立った。
「私、怒ります!」
この人に冗談を言ってはダメだ。
「待って、俺は緊張をほぐすために冗談を言っただけなんだよ。ほら、ちゃんと途中で止めただろう? 騙すつもりなら止めなかったさ」
と言いつつ、ちょっとだけ後悔している。
「でも初対面でこういう冗談は言うべきじゃなかった。だから謝らせてくれないかな? いや謝ります。ごめんなさい」
目を見て謝り、頭を下げた。
「私、許します」
ハァ、慈悲深い人で良かった。
「今度から冗談を言う時は、ちゃんと前もって『冗談を言います』と宣言してから言って下さい」
いや、それで笑わせるのはムリだから。
「分かったよ。今度からそうするね。紀ちゃんも何か冗談を思いついたら俺に聞かせてくれ」
「はい。そうしましょう。人を驚かせたり、怖がらせたりしてはいけないのです」
紀ちゃんのペースに合わせるしかなさそうだ。
「ところで瞬間移動の話なんだけど、実は俺の父さんも同じ能力を持っているんだ。でも生まれてこのかた使い方を忘れたなんてことは聞いたことない。だから参考になるようなことを教えてあげることなんて、俺にはできないんだよ。せっかく相談してくれたのに力になれなくて申し訳ない」
紀ちゃんは俺の目の前に腰を下ろして、真っ直ぐ俺の目を見ていた。姿勢が良いいので俺まで背筋をぴんと伸ばさなければいけないと思うほどだ。
「それはお父様との会話が少ないということでしょうか?」
「ああ、うん。なにしろ仕事がら長距離移動ばかりしていて、家にいることの方が少ないからね」
「それは寂しい思いをしてきたことでしょう。おそらくお父様も同じ思いだと思います」
「そうかな? 自分に合った仕事をしていて楽しそうに見えるけど」
って、なんで俺が心配されてんだろう?
「お父様が帰って来られた時はちゃんと顔を合わせていますか?」
「いや、家に帰らないといっても、父さんはいつでも帰りたい時に帰って来られるからね」
「そうは言っても、ひと言でも声を掛けてもらうと嬉しいと思いますよ」
「そういうものかな? 男同士だとそういうのは照れ臭くてさ」
って、だから俺のことはどうでもいいって。
「いや、紀ちゃんね、今日は君の相談を聞くために俺は会いに来たんだよ」
「ああ、それはすいませんでした。つい、いつもの癖が出てしまいました」
「謝らなくてもいいけどさ、まずは紀ちゃんの話を聞かせてくれないか?」
「と言いましても、異能力を忘れたこと以外にお話できることはないのです」
確かにその通りだ。
「瞬間移動というのは本当に怖い思いをするって言うけど、ひょっとしたらそれで能力を発揮できないっていうことはない? だって特殊能力の中でも一番事故が多い能力だろう? 移動した途端に車にひかれたり、足場がないとこだとそのまま落下したりするじゃないか」
人の話をちゃんと頷いて聞いてくれる子だ。
「そういう無謀な移動はしないので、事故の経験はしたことがありません。接触によるファールも厳しく取られるので注意しているんです」
それはそうだ。東高に合格できるくらいの高能力者なのだから、そこは心配するポイントではないのだろう。
「だったらやっぱり最後の大会をキャプテンの立場として挑むことで、プレー以外で余計なプレッシャーを感じているのかな?」
「自分の中でそんな意識を感じたことはありませんが、無意識のうちに感じている可能性はあります。でもそれならば割り切ることもできるんです」
すごく冷静な口ぶりだ。
「私たちのチームには試合に出られない選手がたくさんいるんです。私もレギュラーが保証されているわけではありません。ですがそこでチームのために何ができるかを考えることこそチームの一員というものです。異能力を忘れても力になることは可能だと思っています」
だったらこのままの紀ちゃんでもいいんじゃないのだろうか? 現時点でキャプテンという大役を立派にこなしているように見える。
「とりあえずだけど、今日は紀ちゃんに読んでもらおうと思って本を持ってきたんだ。三冊もあって読むのが大変だと思うけど貸してあげる。松宮さんと透子ちゃんにも読んでもらったんだ。それで効果があったかどうか分からないけど、俺のことは分かってもらえると思うんだ。だからといって無理に読まなくてもいいよ? こういうのは強制して読ませるものじゃないからね。忙しいだろうしちょっとずつでいいんだ」
小説『無能者』を持参していたのだ。過去の二人もこの本が会話の糸口となった。まずは共通の話題を作ることが先決だ。
翌週、同じ場所で紀ちゃんと会って話をした。
「無能くんの『無能』って、名前ではなく本当に無能だからそう呼ばれているんですか?」
「う、うん。そうだね。正真正銘、お話の中ではなく、この世で無能なのは俺だけなんだ」
といっても俺のことを「無能」と呼んでいるのは松宮さんと透子ちゃんの二人だけで、紀ちゃんで三人目だ。
「そういう方がいらしたんですね。私、知りませんでした」
「知らなくて当然さ。たとえ知ったとしても、信じない人もいるくらいだからね」
「これまで大変な経験や、つらい思いをされてきたんじゃないですか?」
「まぁ、グレそうになったこともあるけど、何とかやってこれたよ」
そう言うと、俺の手をいきなり握り締めた。
「私、力になります!」
え?
「無能くんの力になりたいんです」
いやいや、俺は別に人から同情されるような存在じゃねぇし。
何度も言うけど力を必要としているのは紀ちゃんの方なんだって。