第十八話 明子の春
時の流れは早いもので、あれから半年以上の月日が過ぎ去っていった。俺も十七になって、春から三年の教室に通っている。
その後の透子ちゃんはというと、年明けの全国異能試験で一位になり、松宮さんから一年遅れて春に高校を卒業した。松宮さんが受けた治癒力テストに比べると倍率はあってないようなものなので単純に比較することはできないが、それでも堂々たる成績だ。
現在は大学に通いながら、なんと能力研究センターで働いているのだ。つまりゆり子先生の同僚になったわけだ。俺は「とりあえず生きてみろ」って言ったのに、透子ちゃんは俺の前を走り抜けて行ってしまった。アドバイスの受け取り方は人それぞれのようだ。
そもそも彼女は俺と出会う前からちゃんと勉強をしていた人なわけで、俺の存在が彼女の人生に影響を与えたとは考えにくい。夏休みが終わる前に異能力を完全にコントロールすることができるようになったが、それも透子ちゃん自身が頑張っただけである。
現在彼女は自ら被験者となり、透明力に関する画期的な論文を発表したばかりだ。彼女を動かしているものは彼女自身の心にあったものである。俺のおかげ、なんてことはありえない。そういう気持ちを持つこと自体が彼女に失礼だ。結局『俺だけが無能』である事実は変えられないのだ。
そう、つまり俺には他人の異能力を飛躍的に伸ばせる力が眠っているんじゃないか、と思っていた時期があったのだ。それこそが俺の異能力だと。でもそんなものはなかった。もしもそんな力があったら母さんが空を飛ぶのにダイエットなどしないはずだ。
結局は本人の努力なのだろう。透子ちゃんの論文を読ませてもらったことがあるが、俺には難しくて理解することができなかった。俺の知らない言語で俺の知らない人たちとしゃべっている感じだ。それを読んだ後どうしようもない焦燥感にかられてしまった。
いつもそうだ。仲良くしていたと思っていたら、気がつくと背中しか見えなくなっている。春風が吹くたびに置いてけぼりの寂しさを感じてきた。焦っても寂しくても追いつけない、この感じ。立ち止まっているだけで罪悪感を覚える、この感じ。もう何度目のことだろうか?
夏休み明けから松宮さんを含めて三人で頻繁に会っていたのだが、二人だけで難しい話ばかりするので次第に会わなくなっていった。会話に入れないのだ。そう、俺は別に人嫌いで距離を置いているわけではなく、自然とフェードアウトしてしまうのである。
歩くスピードが違う感じだろうか? 集団における独自の会話や決まりについていけなくなるのだ。それでその集団を外から眺める側になるわけだ。好きで独りになっているわけではない。孤高の存在とか孤立しているわけではなく、自分と同じ速度で歩ける人が周りにいないだけなのだ。
ひょっとしたら小説『無能者』のムガちゃんも同じなのではないだろうか? 彼女もまた好きで孤独を選択しているわけではないのかもしれない。ケンカした二人を仲直りさせたところで、その二人と馴染むことができるという保証はないわけだ。合わなければ疎遠になるのは当たり前の話だ。
それを俺は、ムガちゃんは意図して孤独を選択していると解釈していた。いや、そう読めなくもない書き方なので仕方ないのだが。ともあれ、ここにきてまた新たな発見ができたわけである。色んな解釈ができる作品だから『無能者』はおもしろいのである。
でも新たな解釈の方が切なく感じる。自分から孤独になる人よりも仲良くしたいけど仲良くできない人の方が悲しく感じるからだ。これではまるで俺のような人間ではないか。孤独を選択しているのではなく彼女もまた置いてけぼりを感じているのだ。
小説『無能者』のことばかり考えてしまうのは最新刊を読んだばかりだからだろう。今回は異性との交流があったが、やはり最後は孤独になった。ネタバレ厳禁なので詳しくは語らないが、恋愛に関しても特にしたくないとは思っていないようである。でも結局のところ他人と合わないのだ。
その辺の解釈を巡って話し合いがしたいと思ったので、早速ゆり子先生にも最新刊を読んでもらうことにした。元々は先生に薦められた本なのだが、いまは逆転して俺が先生に読むように薦めるようになってしまった。でも嫌いになったわけではないので読んではくれるだろう。
俺の勝手な憶測だが、先生が興味をなくしたのはコミック版でムガちゃんの胸が巨乳化されてからだと思っている。購入を止めた理由についてハッキリと聞いたわけではないので確証はないが、現実と違う、と首を傾げていたのを聞いたことがあるからだ。
「じゃあ読むから紅茶淹れてくれる?」
そう言って、本を持って診察室のソファに移動したが、俺が紅茶を淹れて持って行く前に全部読み終わっているのが、いつものゆり子先生だ。先生には瞬間記憶力がある。普通の単行本なら三分もかからずに読破することができる。しかも書かれてある文章を丸ごと記憶することができるのだ。
「これ、美味しいわね」
本日の紅茶は桜の花びらを集めて、それを小さなネットに入れて香りづけに使った春だけのスペシャルである。その紅茶を飲みながら俺の感想を聞いてもらった。先生の感想を聞くとしゃべれなくなるので、いつも俺が先に感想を述べることにしている。
「つまり何が言いたいかというと、ムガちゃんは孤独になりたいわけじゃなかったんですよ。結果的にそう見えていただけなんです。そう考えた方がしっくり来るんですよね。だってその方がムガちゃんの性格に合ってるじゃないですか。孤独を気取る子ではないですからね」
先生が壁の一点を見つめて考えている。
「忘れてならないのは笑吉くんが高校三年生になったように、作中でムガちゃんも年を取っているということなの。それはどういうことかというと、笑吉くんに変化があったように、ムガちゃんにだって心境の変化が起こり得るということなのよ。第一巻と最新刊で登場人物の性格が変わっていたって不思議なことじゃないわ。だって現実でも起こり得ることですものね。ただし、すべての人が理解できるとは限らないのも現実ね。人間の性格なんて変わらないと思っている人にとっては、それだけが現実なんですもの」
つまり、どういうことだ?
「俺の解釈は間違いということですか?」
ゆり子先生が首を振る。
「笑吉くんの感想は笑吉くんだけのものよ。正しいとか間違っているとかじゃないの。あなたにしか感じられないことだってあるじゃない。作者の意図したことだけが小説の正解だとは思わないわ。それに作者だって問題を出すために書いているわけじゃないでしょうに。感想は人と違っていてもいいの。たとえ作者が否定しても、笑吉くんが抱いた感想は消すことができないものね。それに案外と作者も自分の作品についてよく分かっていない部分があるんじゃないかしら? 笑吉くんの感想を知ったらハッとしたりして」
まさか湯川士郎先生に限ってそんなことはないだろう。でも感想を伝えたいというのはいいアイデアだ。湯川先生はSNSの類を一切やらないので気持ちを伝えるにはファンレターを出版社に送るしかない、って考えると面倒くさくもある。
「でもムガちゃんも恋愛するようになったのね。そりゃ私も年を取るわけだ」
「ムガちゃんの恋愛って、本当の恋愛って言えるんですかね?」
「本当の恋愛ってどういうこと? 今回は異性を意識していたと思うけど」
「いえ、相手と気持ちを確かめ合ったわけじゃないから恋愛として成立しているのかどうか」
研究一筋のゆり子先生に恋愛話は酷だろうか?
「成立させないといけないものなの? それこそ恋愛を型にはめ込むことだと思うけど」
「でも本を読む限りだとムガちゃんが本気で好きになったか分からないわけで」
「恋愛ってそういうものじゃないの? 相手の気持ちどころか、自分のことも分からなくなるでしょ?」
「でも、もう少し相手の気持ちや自分の気持ちを分かりやすく書いてほしかったですね」
ついつい反論してしまったが、俺だってゆり子先生の言っていることは分かっている。でも最新刊は本当に微妙だったのだ。これなら初めから終わりまで恋愛を匂わせてほしくなかった。別に無理やりムガちゃんに異性を意識させることはないではないか。
軽いネタバレになるが、今回の話は大事な大会を控えたフライング・サッカー部の男の子が主人公の話だった。大会前に異能力を失くして自暴自棄になりかけていた時にムガちゃんと出会ったのだ。大会の結果は想像した通りで面白いものではなかった。。
問題は散々恋愛を匂わせておいて、二人の気持ちの決着を描かなかったことだ。男はスカウトの目に留まり、ムガちゃんは一人きりに戻る。大会で活躍できたのはムガちゃんのおかげだというのに、男は大会を終えると一切ムガちゃんを振り返ることはなかった。
個人的には最新刊で完結させても良かったと思っている。初恋として描き、たとえメルヘンでも初恋が実って終わった方が後味は良かった。どうも部数が伸びると引き伸ばされるようだ。今回の話で終わらせるのがもっとも美しかったのに、これではタイミングを逃したようなものである。
ただ一方で、これも現実なのかな、なんて思うこともある。透子ちゃんのことを考えるとなおさらそう考えてしまうのだ。彼女の男性に対する怖がりは治ったが、だからといってすぐに恋愛モードになるかといったら、そうなっていないからである。
透子ちゃんに対しては俺自身の気持ちもあいまいだ。第一背中しか見えない人にどうやって思いを募らせろというのだ。歩くスピードが違う人を振り向かせるって、物理的にも簡単なことではないぞ。今や向こうは走り続け、俺は立ち止まっている状態ならなおさらだ。
「ところで明子ちゃんのことだけど、最近の様子はどう? ちゃんと会話してる?」
「先週も尋ねられましたけど、一週間くらいで変わりませんよ」
「でも春は五月病の季節でもあるから、特に心配が必要でしょう?」
「何も心配ありません。高校生活を満喫してますから、今が一番幸せなんじゃないですか」
最近、ゆり子先生は妹の明子を気にかけている。でも受験を終えてオシャレに目覚めた妹に、今や怖いものは何もない。むしろ俺が明子に恐怖を覚えるくらいだ。ちょっとしたことでも怒られるので、できれば家でも顔を合わせたくないと思っている。
「ムガちゃんもそうだけど、妹もいつカレシを家に連れてきてもおかしくないんですよね」
「そんなこと言ったら、私だっていつ笑吉くんがカノジョを連れてくるか分からないわけだし」
「それは俺だって同じですよ。先生にいきなり『結婚したんだ』とか報告されても嫌だし」
「嫌ってどういうこと? 結婚したらちゃんと喜んでちょうだいよね」
先生には幸せになってほしい。でも心のどこかで独身のままでいてほしい気持ちもある。独り身でいてくれると、なんだか安心できるのだ。俺より年上の人が独身だと、そこのラインまでは俺も独りでいても気にする必要はない、という安心感だ。
いや、でもこれは酷く自分勝手な考えかもしれない。不幸の道連れ、という一番醜い心の持ちようではないか。大好きな先生だからこそ早く愛する人を見つけて幸せになってほしいと願うべきなのである。先生の代わりに縁結びの神社にでも行ってあげようか。
「ニャッホー」
珍しく訪問者が来たと思ったら松宮さんだった。この日は透子ちゃんも一緒だった。二人とも白衣を着ている。
「お揃いで訪ねてきたということは、私じゃなくて笑吉くんに用があるってことね?」
このパターン、前にもあったような……。
「あっ『無能者』の最新刊、ちゃんと読んでるんだ。だったら話が早いや」
松宮さんは以前より明るくなったと思う。四月生まれの十八歳だけど、俺より二つか三つは年上に見える。ナチュラルに見えるメイクもばっちりだ。
「同級生にハイパーバスケをしている子がいて、その子が去年の秋からキャプテンを務めていて今年の夏が最後の大会になるの。でも紀子ちゃん、あっ太川紀子ちゃんっていう子なんだけど、急にスランプになったみたいで、まったくプレーできなくなったんだって」
この話どこかで聞いたことがあるような……。
「そこで無能くんなら紀子ちゃんのことを助けられると思ってこうして会いに来たんだ。『無能者』を読んでるなら何とかなるよね?」
いや、俺はムガちゃんじゃないし、創作と現実を一緒にしてはいけない。ムガちゃんには勇気が備わっているけど、俺にはそんなもんないし。