第十七話 透子と父親
しばらくしてから透子ちゃんのお母さんが帰ってきた。俺たちが話し込んでいる姿を見て、とても嬉しそうな顔をしてくれた。それから夕飯に誘われて、透子ちゃんも「いい」と言うので、お言葉に甘えることにした。これはとても特別なことで意味のあることだ。
何しろ透子ちゃんの身体は半透明の状態なので口に入れたものが見えてしまう。誰だってそんな姿を見られたいと思わないだろう。それでも俺が同席することを許してくれたのだ。これほど嬉しいことはない。自分の存在が認められたような確かな喜びだ。
「無能くん」
玄関には透子ちゃんだけではなく、透子ちゃんのお母さんまで見送りに来てくれた。外はもうとっくに日が沈んでいる。
「明日から娘と一緒にしばらく田舎に行くことになってるの」
「そうですか、それだとしばらく会えませんね」
「十六日には戻ってると思うから、それ以降にまた遊びに来てちょうだいね」
「はい。今日はどうも御馳走様でした」
無能だけどお礼はちゃんとする方だ。
「あっ、ありがとう」
さっきまで楽しそうにしていたのに別れ際の透子ちゃんはぎこちなかった。不器用なところも彼女の魅力である。
家に帰ってから母さんが作った晩飯を温め直して食べた。食べないとうるさいから腹が減ったフリをして、お代わりまでしておいた。自分の母親には今日の出来事などいちいち報告などしない。十六にもなってそんなことをする方がおかしいのだ。
俺の家もお盆の時期は家族で墓参りに行くことになっている。でもその前に土曜日があるので、ゆり子先生に会える日がある。二週間ぶりのゆり子先生だ。土曜日から休みに入る人が大半なのだが、ゆり子先生は俺のために会ってくれると言ってくれた。
「すごい焼けたわね」
研究室に入るなり、いきなり驚かれてしまった。それから診察室へ移動して、二週間の間に起きた出来事をすべて話した。
「また来てちょうだいね、って言われたなら、ちゃんとお行儀よく食事ができたようね」
「そこですか? これだけたくさん話したのに感想がそれになるとは思いませんでした」
「なんだろう? 自分のことのように心配になるのよね。でも安心した」
「大丈夫ですよ、ゆり子先生に怒られたことは全部直しましたから」
そう言うと、ゆり子先生は紅茶を飲んで一息ついた。同じ紅茶のはずなのに先生が飲む紅茶の方が美味しそうに見えるのは飲み方の違いだろうか。
「透子ちゃんの能力異常だけど、環境の変化によって自然治癒したというのはおもしろい話ね。因果関係を立証するのは難しいけど無関係ではなさそう。もちろん個々によって環境が及ぼす影響に差異が生じるのは当たり前だけど、透子ちゃんの場合はそれがより有効に働くんじゃないかしら? だとしたら今回の帰省で変化が見られるかもしれないわね。たとえ変化がなくても、そのこと自体が重要なデータになると思うの」
今日のゆり子先生はデスク席に座っている。表情も完全に仕事モードだ。こういう時はまるで学校にいるみたいで楽しくない。
「あとは普段会わない人と会う、というのも環境の変化に含まれると思う。透子ちゃんにとっては父親や親戚かな? それと食事や水も変わるでしょうし、変化させる誘因は幾つも挙げられるわね。それを彼女自身が掴めるといいんだけど。そうしてヒントを見つけることができればコントロールすることができるかもしれないでしょう? そう、まずは変化を感じることが重要ね」
その言葉をそのまま透子ちゃんに伝えたかった。
「そういえば笑吉くんも久しぶりにお父さんと会えるのね。どのくらい会ってないんだっけ?」
「いや、俺の場合は違いますよ。父さんは週に一度は家に帰ってるみたいだし」
「みたいって顔も合わせないの? 挨拶もしていないっていうこと?」
「はい。夕方から部屋でゲームをして、明け方まで集中してると、もういませんからね」
先生が険しい顔をしている。
「それは酷いよ。それに集中という言葉の使い方も間違ってる気がする」
「ああ、夢中の間違いです。でもボスキャラが強いと集中しないと勝てないんですよ」
「その、勝つという言葉も意味が分からないけど。一体なにに勝利したの?」
「いや、それはですね、つまり、それまでコツコツと積み上げてきたレベル上げの成果をですね」
そういう現実の話はやめてくれ。
「その、コツコツ積み上げる、という意味も分からないんだけど」
「いや、もういいです。これは俺の趣味の問題なので先生は無理に理解しなくてもいいです」
「やだやだ、とことん話し合おうよ。レベルを上げた先には何があるの?」
「エンディングが待ってます。最高の形で達成したいんですよ」
結論だが、どうやら趣味を他人に理解させるのは不可能のようだ。説明して分かった気にさせても、なんの満足感も得られないのである。とはいえ、この後もソファに席を移していつまでもダラダラとしゃべり続けた。こっちはゲームと違ってエンディングを迎えたくないと思った。
お盆の期間を父さんと一緒に過ごしたけど特に印象に残ることはなかった。ぼそぼそっとしゃべって写真を撮るだけの人だ。意味の分からないことを独り言のようにしゃべるので記憶に残らないのである。母さんのようにうるさくないのが最大の長所ではある。
お盆明け、性急すぎるが気になって仕方がないので透子ちゃんの家に行くことにした。庭に車があれば家にいると言っていた。
「ああ、無能くん」
出迎えてくれたのは透子ちゃんのお母さんだ。
お盆前に別れた時と違って表情が曇っている。
何も聞かなくてもよくないことがあったと分かる。
「透子ちゃん、いますか?」
「いるけど、会ってくれるかしら」
「会わせて下さい」
「部屋にいるから上がって」
許可をいただけたので上がらせてもらった。
それから階段を上がり、透子ちゃんの部屋の前へと案内された。
「透子」
お母さんが優しくドアをノックする。
「無能くんが来たわよ」
反応がない。
「開けていい?」
やっぱり反応がない。
「いいですよ、ここでも話せますから」
「そう?」
「聞こえますよね?」
「聞こえると思うけど」
でも、なんて声を掛けていいか分からなかった。
「私、いない方がいいわね」
そう言うと、その場から離れて行った。
「透子ちゃん」
名前を呼ぶことしかできない。
それからしばらく考え込んでしまった。
開けて、は違う。
どうしたの? も違う。
話をしよう、もなんか違う。
会いたい、は全然違う。
俺と話をしてくれないか、違う違う。
頭の中が迷走し出した。
「透子ちゃん」
反応がない。
眠っているのだろうか?
だとしたら起こしたくない。
起きるのを待つのは慣れている。
廊下に座り込むことにした。
そういえば前にもこんなことがあった。
デジャヴじゃない。
「ああ」
ゆり子先生だ。
その時は俺が部屋の中にいた。
布団を頭からかぶってたっけ。
笑吉くんって名前を呼ばれていた。
先生もドアを開けなかったな。
何か話すでもなかった。
ノックもしない。
ひたすら名前を呼ばれたっけ。
「透子ちゃん」
俺って人の真似しかできないんだな。
正しいかどうかなんて、分かってないんだ。
俺はでも先生じゃない。
真似なんてできない。
でも、それでもいいや。
俺は俺でしかない。
透子ちゃんもそうだ。
透子ちゃんも、あの時の俺ではない。
「透子ちゃん」
ここにいていいのだろうか?
迷いもある。
こうしていることが重荷にもなり得る。
やめた方がいいのだろうか?
でも、やめたくなかった。
この場から動きたくない。
こんな形で今日を終わらせたくないんだ。
結果が分からないなら、なおさらだ。
「透子ちゃん」
ガチャッ、っと音がした。
音もなくドアが開かれる。
一瞬だけ何が起こったのか分からなかった。
それは透子ちゃんの姿が見えなかったからだ。
服だけが宙に浮いている。
目を合わすことも叶わぬ姿だ。
俺を見下ろしているのだろうか?
かすかな息遣いだけは感じられた。
「無能くん」
透子ちゃんの声だ。
「透子ちゃん」
そう言うと、突然宙に浮いていた服が音を立てて崩れ落ちた。
その場でしゃがみ込んでしまったのだろう。
姿が見えなくても声や服の動きで泣いているのが分かった。
俺は思わず透子ちゃんの手を握りしめた。
そこには確かに透子ちゃんの感触がある。
とても冷たいけど、やわらかくて小さな手だ。
痛くならないようにと大切に扱った。
透子ちゃんの流した涙が俺の手を濡らす。
こぼれた瞬間、現れては水跡をつくる。
透明なのは透子ちゃんだけではないのだ。
しばらく互いに動かなかった。
やがて透子ちゃんは俺の手を掴んで部屋の中へ引っ張るように入れてくれた。
ベッドに並んで腰掛けるが、表情は分からないままだ。
「元に戻せないの?」
「うん」
「いつから?」
「三日前から」
あまり質問攻めはしたくない。
「ドアを開けてくれてありがとう」
「うん」
「会ってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
ぎこちない会話に戻ってしまった。
「俺、女の人の部屋に入るの初めてなんだ」
「妹さんの部屋は?」
「それはカウントしないから」
「そっか」
初めて女の人の部屋に入ったという緊張もある。
俺の部屋とはまず匂いが違う。
胸いっぱいに吸い込みたくなる部屋だ。
いや、絶対にしないけどな。
でも部屋の中は乙女という感じがしない。
参考書だけの本棚があって、『ザ・勉強部屋』といった感じである。
カーテンもモスグリーンで女の子が好む色彩の部屋にはなっていなかった。
いや、勝手なイメージだけど。
「あんまりジロジロ見ないで」
「あっ、ごめん」
「透明だけど見えてはいるから」
「そうだった」
「ふふっ」
透子ちゃんの笑い声だ。
もう、笑い声を聞かせてくれただけで幸せな気分になれる。
特に透子ちゃんのような子に笑ってもらえると格別だ。
「しかしすごい参考書の数だね」
「お母さんがおしゃれもしないで買ってくれたの」
いいお母さんだけどプレッシャーにならないのだろうか?
綺麗で羨ましいと思っていたけど、そこは自分んちの母親の方で助かった。
「それを全部読むんだろう? 俺にはちょっと真似できないかもな」
「私も最初は興味なかったけど、読んでみたらおもしろくて、それで読んでるだけだよ」
羨ましい話だ。
「それで増えていったわけか。俺はマンガ好きだけど全然買ってくれないからな。いまだに『マンガばっかり読んで』って呆れるような親だから」
「でも、お父さんは参考書ですら読まなくていいっていう人なんだ。進学校へも行く必要ないって、お母さんとケンカしてたし」
見えていないけど、うつむくのが分かった。
「せっかく久しぶりに会ったのに、毎日ケンカばかりだった。その原因が全部私で、私のせいでお母さんも責められて。『こうなったのはお前のせいだ』とか、『だからあの時反対したんだ』とか、『ほらみろ、俺が正しかっただろう』とか。お母さんのせいじゃないのに、私の代わりに謝って、何度も謝ってるのに、お父さんは許してくれないの。そのくせ私には何も言わなかった。見えてもいないの。それか見たくないのかもしれない。だって私がいなければケンカなんか起きないんだもん」
いまだに『こんな子どもを産んだのは母親の遺伝のせいだ』と盲信している父親は少なくない。一度広まった科学的根拠は根絶が難しいのだ。俺の世代はもうすでにそれが間違いだったと認識できているのに、世代が違うだけで上書きされた事実が浸透しにくくなるのだ。
「こんなことになるなら会わない方が良かった。悪いのはお母さんじゃないんだよ。身体を元に戻せない私が悪いんだもん」
見えないけど、透子ちゃんを見た。
「違うだろう? 君だって欲しくて手に入れた異能力じゃないんだよ。それでどうして、誰に、君が悪いと言えるんだ。透子ちゃんだって分かっているはずなんだ。だからお母さんと一緒に進学校を目指して合格したんじゃないか。たとえ肉親であっても明らかに間違っているならば全力で否定してくれよ。君は悪くない。間違っているのは君のお父さんだ」
他人の父親を責める権利が俺にあるのか?
「俺の父さんが『世の中には矛盾したり正反対だったりするアドバイスがたくさんあるな』って、ぼそっと呟いたことがある。それはつまり探せばどこかに自分を生かしてくれる言葉があるっていうことなんだ。自分の父親だけを盲信することはない。世の中には素晴らしい父親がたくさんいるんだ。だから透子ちゃんには俺の父親の言葉を贈るよ。それは『とりあえず生きてみろ』ってさ」
しばらく無言だった透子ちゃんが呟いた。
「私にやれることを、やるしかないもんね」