逃げる姫
リーナは逃げていた。
何からと言われればそれは国の英雄殿から。
長々と続く回廊を、お気に入りのスカートの裾が汚れるのも構わずに彼女は走っていた。
〔この国から出なければ。〕
スカートなんて脱ぎ捨ててしまいたい。
でも今そんな時間はない。
彼女は更に走った。
薄暗がりの回廊にはごろごろと先ほどまで生きていたであろう兵士達の屍が転がっている。彼女はそれらにつまづきそうになりながらも乗り越え、時に足蹴にしながら止まることはない。
〔殺される…!〕
ハァ、ハァ、と徐々に息が切れてくる。
窓から見える向かいの塔はすでに火に包まれ焼け落ちていた。
真っ直ぐ前を見据えているリーナの目から涙がこぼれる。
「にいさま、、にいさま!兄様!」
兄は死んだ。
彼女を庇ってその胸に矢を受けた。
呻き、苦しむ中、リーナの兄はただ一言「逃げ切れ」と言い放ちその場に崩折れた。
兄の最後の表情が浮かび上がる。
涙は止まらない。
そして彼女の足もまた止まることはなかった。
「姫さまぁ!!」
走る先に近衛兵が数人立っていた。
リーナに向かって手を伸ばす。
「姫様こちらへ!!お急ぎ下さい!」
彼らが囲むのは小さな隠し扉だった。
リーナも必死に手を伸ばし縋るように手を握った。
「姫様、時間がございません。この扉からお逃げください。我々すぐにおいかけますゆえ!」
リーナは深く頷き扉に手を掛けた。
その瞬間ドサ、という音がした。
「騎士殿!」
リーナが振り向けば先ほど喋った近衛兵の騎士たちが倒れている。一番近くの彼の背には三本の矢が刺さりその表情に生気はない。
急いで顔を上げると今リーナが来た道に矢を構えた男が三人、そしてそれを支持したであろう男が立っていた。
「…ユリウス、貴様!!」
首謀者を目の前にリーナはギリ、と歯をくいしばる。
捕まるわけにはいかない、とリーナは今しがた亡くなった近衛兵の弓と矢を手に取り彼女は急いで扉を閉めた。錠を閉め、細長く続く小道を駆け抜けた。
剣はリーナには重すぎる。
しかし弓には自信があった。
そう、アイツに教わったのだから間違いなどない。
父を殺し、兄を殺し、母も、幼い弟の命も奪っていったこの国の英雄。
ユリウス・ランバート
国境に住まう様々な怪物たちを何度も仕留め、戦争では軍師として軍を率い勝利へと導いた男。
国王である父を嵌め、国民からの信用は今やないに等しく、誰もが王を引きずり落とせという声を上げさせた張本人。
私の、婚約者だった。
「なぜ、何故だユリウス…何故裏切ったぁ!!」
父を目の前で殺された時、私は彼に向かって叫んだ。
大事な話があるからと私とユリウス揃って父の部屋に行った時のことだった。
「ユリウス?お父様と話すだけなのに何故剣を持っているの?」
「姫様、これは正装の一部でございます。“大事なお話”というならば私もそれなりの格好をする方がいいかと思いまして。」
彼のすることになんの疑問もなかった。
何故、なんて思わない。全幅の信頼を寄せ、次代の王は兄になり、それを私とユリウスで支えていくことが私の夢だった。
この時、剣を置いていくように進言出来ていれば何か変わっただろうか…いや、彼の強さの前にそんなこと関係ない。
きっと未来は変わらない。
リーナは現実に戻る。
もうすぐ出口、森の奥に出れば小さな古城があり、そこにはこの国に仕える古くからの家臣がいる。
助けてくれるかはわからない、でももう頼るところはそこにしかなかった。
〔ユリウス、何故…!父様は一体何を言おうとしたの…?〕
わからないことだらけだった。
父を嵌めたのはユリウスだと兄が言っていた。確かめる術はないが、恐らく事実なのだろう。
『リーナ様、お慕いしております。』
記憶の中のユリウスが優しく微笑む。
英雄となった彼は元々国お抱えの庭師の一族だった。といっても彼自身は拾われ子で、拾った当時の当主。ユリウスの義理の父には子供ができなかった。そこに拾われたのがユリウスである。
幼い頃から次期庭師の当主として育てられたユリウスはリーナの暮らす庭園にも出入りし、時折目があうと微笑みあうだけではあるがリーナにとって特別な関係だった。
そんなある日、ユリウスが魔物を倒して王にその死骸を献上した。
国の周りに出る魔物たちのせいで閉鎖的であったこの国はユリウスの出現によってどんどん他国との外交が増えた。
人々は外との交流を喜んだ。
その頃にはすっかり英雄となっていたユリウス。
それと同時に近隣の国と戦争が起こった。しかし、ユリウスはそれを軍師として参戦し、見事に勝利を収め、国は更に大きくなった。
王は約束した。
『望みを叶えよう』
ユリウスは兼ねてからの望みであったリーナとの婚約にこぎついたのである。
それから半年、たった半年で彼は王を殺した。
王の死ぬ数ヶ月前から王に対する不満が街に溢れ、またユリウスを讃える流れが出来始めていのも王族は皆気づいていた。
しかし、ユリウスはリーナと結婚するのだから裏切るわけがない、ユリウスが王族に仲間入りすればこの反感も治まると誰もが考えた。
ユリウスもまた王族に従順であった。
だから誰も疑わなかった。__
「姫様、お待ちしておりました。」
隠し扉の小道を抜け、森に出たリーナを待っていたのは数人の兵を引き連れた老兵が立っていた。
「コープ先生…」
リーナは今度は安堵の涙を流した。
疲れからか、安心からか、服が汚れるのもかまわず彼女はその場にへたり込んだ。
近くの兵士が慌てて駆け寄る。
「ごめんなさい、だい、大丈夫。」
ありがとう、と言って迎えに現れた老人を見る。
「先生、お久しぶりです。」
「姫様、話をしておる時間がございません。お辛いでしょうが、まずは我々と城に来ていただきたい。」
「わかりました。行きましょう。」
ん、と立ち上がり前を見据える。
城の方を振り返れば山間の向こうに燃え盛る塔が顔を覗かせていた。
〔私の帰る場所は、もうない…〕
しっかりせねば、と一歩踏み出す。
兵士たちは道を開け、案内に老師が一人リーナの前を歩き始めた。