彼と変わりゆく周囲と魔女。
これがいつから計画されていたのか、イニジィエルにはわからない。
だが、貧相な赤毛の仔猿が、愛らしい赤毛の少女に変わる内に自分たち二人以外が変化したのを薄々感じていた。
「おい、あんた!あの赤毛の魔女はどうしたんだっ!!」
父親のように揉み手でもしていればいいのに、少年はイニジィエルに食って掛かる。
イニジィエルには足を止める謂われはなかったが、掴まれた腕を振り払うため、一時的に立ち止まった。
それを自分の影響力と勘違いした少年は、嫌な笑みを浮かべている。
「主人やなんやっていってても、所詮は魔女だ。│御主人様が飽きれば、あんな娼婦なんてすぐ捨てるんだろ?それとも、御主人様が捨てたモノは使用人のあんたらがおこぼれをもらえるとかか?」
下卑た顔で笑う姿は、悪意が満ちていたが…ほんの一欠片だけ、それ以外の感情が紛れているようにイニジィエルは思えた。
しかし、だからといって彼の魔女を娼婦などと勘違いしている相手に考慮してやる気は起きない。
勝手に、服装や態度から貴族階級の使いと勘違いされているのだから、訂正もせずに冷たい視線と手を払い除けることで相手を退け、封鎖的な小さな田舎町と、悔しげな少年の目を背にして歩き去った。
「ただいま」
「おかえり、イール!」
「イニジィエル、だ」
わざわざ森の入口まで下りて来ていた魔女の少女は、隠れていた木から出て来て満面に笑みを浮かべてイニジィエルを迎えた。
「親しげでいいじゃない!」
「駄目だ。それに、ここまで下りて来る必要はないといっているだろう。必ず戻るのだから」
「あっ、そうそう!また、お手紙が届いてね」
「………」
魔女の少女は、彼の苦言を聞いてない。
「また、あの魔女か。返事はどうした?」
家に帰る道で、嬉しそうな魔女から差し出された手紙をイニジィエルは、香水に浸け込まれたように臭う異臭に顔を顰めながら受け取った。
顰めた顔か、それとも質問に対してか、ムッとした魔女の少女は腰に手を当てて悪魔を見上げる。
「便箋が見当たらなかったの!まったく、どこに隠したのよ」
…どうやら、彼が想像していたのと違うことで、彼女は怒っているらしい。
『怒る』とは表現したものの、“プンプン”と擬音が付きそうな様子で文句をいう彼女だが、魔女が本気で怒っているわけではないのはわかっている。
ポーズでそんな風を装っている魔女だが、いっていることは親に玩具を片付けられた幼い子どもと同じだった。
魔女の名誉のためにいっておくが、彼女は片付けやそれ以外のことも自分のことは自分でやる。
しかし、使い魔として契約したイニジィエルがごく稀にそこに手を加えるために、細々したものの在処がわからなくなることがあるのだ。
「ずいぶん、机に出しっ放しにしていた便箋か?それならば、一番上の引き出しに戻したぞ」
「あれは花柄だから、右の上から二番目の引き出しが定位置なんだけど」
魔女の少女は、よく使う文具は一番上の引き出しに仕舞っているのだが、便箋は柄ごとに分けてしまっているようだ。
「すまん」
「いいよ、きちんと仕舞っているのなら」
そもそもが出しっ放しにしていた方が悪いが、素直に謝れば、責めることなく許すところがこの魔女の純粋で可愛らしいところだ。
イニジィエルが、彼女が“友人”と呼ぶ魔女たちとの交流を阻止する行動を取っていることにいまだに気付きもしない。
ゆるゆると散歩でもしているような気軽さで歩く二人は、結界内にスムーズに入る。
魔女の少女と、彼女に害意のない相手だけが入れる結界は、今のところ町人たちも“友人”の魔女たちも入るどころか見付けることも出来ないであろう。
結界の外からは家が見えず、ただ森が続いているようにしか見えないところに入ったイニジィエルが擬態を解き、カーブした雄々しい角と一対の翼を持つ姿に戻る。
貴族家に仕える使用人らしい上質な衣服から、普段の黒衣に戻った見慣れた悪魔の姿に、笑みを深めた彼の魔女は振り返ってもう一度こういった。
「おかえり、イニジィエル」
◇◆◇◆
『ねーぇ、今回こそ来てくれるわよねぇ?』
「ごめんね」
サバトの誘いを申し訳なさそうに、それでもあっさりと魔女の少女断った。
『もぉ!せっかく、楽しみにしてたのにぃっ!珍しいお茶と、美味し~ぃお菓子とステキな殿方が来るわよぉ?』
毒々しいまでに甘い囁きを、魔女の少女へと注ぐのはカラスである。
手紙では埒が明かないと、使い魔を使ってサバトへと呼ぼうとしているのだ。
「うーん、あんまり興味はないかなぁ」
イニジィエルから注意され、結界の外の指定場所に決めた切り株に使い魔を止まらせて話しを聞いていた魔女の少女は自分でいった通り、興味がなさそうな態度である。
ここでもし、本当に親しい友人であるなら、彼女が興味を持つ異国でしか手に入らない薬草や、新しい薬液の抽出法などを話題に出せたであろう。
しかし、上辺どころか彼女自身に興味のない相手の魔女は、自分たちと同じものに興味がない彼女を異端と│見做していた。
『ヘンなのぉ。そんなのばっかで、サバトにも出ないと友だちなくすよぅ!あたしだって、いつまでもあなたをかまってられないしぃ?』
魔女の少女は、『友だちをなくす』という部分にグッと詰まる。
彼女に“魔女”というものの常識はない。
幼い時分にいた母親から教わったのが最後で、あとはその女性が書いたとされる書物を読んでの独学であった。
なので、だいぶ常識に乏しい彼女は、“友人”たちだけが頼りである。
それによると、サバトに参加して魔女・魔術師・悪魔などたくさんと交流を持ち、“友人”を得ることが優秀な魔女の証らしい。
最近、イニジィエルが薬の卸しをやっているため、良いところを見せられていないと感じている彼女は、ここで魔女としての威厳を失うわけにはいけないと焦っているようだった。
『まあ、こんなにいっても無理なのだから仕方ないわぁ。でも、困ったわねぇ。せっかく準備したお菓子が余ってしまうわ。…ねぇ、せめて少しぐらい、お菓子を受け取るぐらいは出来ないのぉ?使い魔越しじゃなくて、元気な姿をちょっと見せてくれるだけでもいいからぁ』
魔女の少女は、悩んだ。
菓子は兎も角、心配してくれているのだから顔を見せるくらいはいいのではないのかと。
「で、でも」
『それも無理ぃ?…もしかしてぇ、あたしたち嫌われてるのぉ?』
そんなつもりはなかった魔女の少女は、慌てて否定する。
「そんなことはないよ!」
『そぉ?…信用出来ないわぁ。だって、招待に応じてくれないのにぃ。…そうねぇ。自分で来られないのなら、自慢の使い魔を寄越して下さらない?そうしたら、信じてあげても良くってよぅ』
彼女の使い魔は、イニジィエルしかいない。
内容は“友人”の家から自宅までを往復する、簡単なお遣いだ。
むしろ、値段交渉もしなければならない薬の卸しよりも簡単だろう。
『ほんの少し、顔を出してお話をしてくれればいいわぁ。そしたら、あなたの使い魔を帰すわよぉ』
簡単なお遣い如きイニジィエルの翼であれば、あっという間だ。
しかし、自分のサバト出席の代わりに使うのは心苦しいのか、彼女は大したことでもないのに悩んでいる。
彼女は悩み、考えてから決めたつもりだった。
だが、普段の彼女にしては呆気ない程簡単に頷いてしまっていた。
「わかった。イニジィエルに行ってもらうわ」
そもそもサバトに行かないのは、純粋に知識を高めたい彼女と“友人”たちとで話しが合わないからであり、不愉快な視線をイニジィエルに向けるのを厭うているからだ。
“友人”たちは、使い魔であるイニジィエルを誉めていた。
強く、美しい悪魔だと、手放してそう誉めているように見せ掛けて、実際には物欲しげな眼差しを向けている。
あの“友人”たちの悪意に気付いていないながらも、その視線に何かを感じているらしい魔女の少女は自分より大きなイニジィエルを小さな背で隠そうと必死になっていた。
イニジィエルとしては、“友人”たちやサバトなど自分の魔女に必要ないと思っているため別段、困ることはない。
しかし、今後も魔女として生活するつもりの彼女には善意と悪意の見分けを含め、必要な学びの場だとも考えている。
だからこそ、彼女が困るのであれば“友人”宅までのお遣いぐらい、いくらでもやる心積もりがあった。
彼としては本当に、何てことのない仕事である。
自分の魔女が考えて頷いたことに文句をいうつもりもなく、何かが起こったところでイニジィエルが彼女を護りながら対処出来ない事柄などさほど多くもない。
自分の魔女に気付かれないよう、離れて“友人”とのやり取りを見ていたイニジィエルは近いうちに行われる│魔女集会について、そんな風に考えていた。
二人きりの小さな世界が壊されることなど、みじんも想像もせずに。