異端審問官になった魔女。
魔女は周囲を見渡した。
見渡したところで、自身を助ける余力のある使い魔は一体も居らず、自慢の魔法は一発も敵に当たることはない。
自分の魔法を相殺している存在がいるーー。
杖を構え、苛立ちのまま親指の爪を噛む。
爪の形は今や歪になっていて、ラインストーンもマニキュアも剥がれて見るも無惨な状態だった。
「なんでなんで!なんで、こんなことになったのよ!!なんで、異端審問官なんているのよ!!」
自分の優秀さを自慢していたのは数刻前だというのに、そんなことを金切り声で叫んでいた。
愚鈍だといつも見下していた異端審問官たちに包囲され、駒を呆気なく失っていく魔女はこの失敗を誰かに着せなければ気が済まないと、血走った目をギョロリと動かしてその標的を見付け出す。
「お前かぁぁぁぁっ!!」
杖が光り、完成した魔法が標的に向けて放たれる。
標的に複数の魔法が襲い掛かり、後には原型の留めていない肉片が飛び散っているだけであった。
…本来であれば。
標的は、銀色の武骨な形をした大鎌を手の色が白くなる程強く握り締めていた。
フードを深く被っているため、どのような表情をしているかはわからないが、その力む様子から少なくとも好戦的なものではないはずだろう。
素早い呪文が魔法を完成させ、飛んだ先で魔女の魔法が火花を散らして消え失せる。
呆気なく相殺されたのを見た魔女は、この標的が自身の魔法を生意気にも消し去った存在だと改めて知って歯軋りをした。
魔女が魔法を練り上げ放ち、標的がそれを魔法で次々と撃ち落としていく。
その間も異端審問官たちは、魔女の駒を次々に無効化していった。
後がないーーそう魔女が、冷静に思ったかは不明だ。
ただ苛立ちを感情の大半を占めていたのだけは、魔女が次に行った動きからわかるだろう。
つまり、魔法を使う者にあるまじき暴挙に出たのだ。
怒りにブルブルと震えていた魔女は、ギッと標的を睨み付けて強く地面を蹴る。
魔女の足を包む光りは、肉体強化の魔法だ。
魔法に特化した魔女たちは体力も腕力もないものが多いが、肉体強化された今であるなら杖の一撃で人間を粉砕するぐらい容易いだろう。
接近を邪魔するために標的が放つ魔法は、同じ魔法が掛かっている杖の一振りで全て掻き消え、凄まじい速度で魔女は肉薄する。
魔法は最早、何の障害にもならない。
そう悟った小柄な標的は、両の足で地面を踏み締めてしっかりと立って魔女を迎え討つ。
「死ねぇぇぇぇっ!!」
裂けんばかりに大きく開かれた口、血走った目、歪んで怒りでどす黒くなった顔で魔女は杖を大きく振り上げた。
標的もまた、大鎌を振り上げて勢い良く振り下ろす。
嫌な音と共に、真っ赤な花が鮮やかに飛び散った。
「経過報告」
低い声での簡潔な言葉に、ルルティカは我に返った。
いつの間に接近していたのか、隣には上官がいて彼女を見下ろしている。
飛び散った赤が乾き、こびり付いた小さな手には彼の大きな手が重ねられていて、震えは気付けば治まっていた。
「経過報告」
もう一度告げるのと同時に、重ねられていた大きな手は離れた。
力なく下ろされたままだった大鎌を慌てて持ち上げ、邪魔にならないように抱えたルルティカは上官に報告をする。
「主犯と思われし魔女を捕縛。抵抗されたので制圧しました」
「…ん」
返事なのか吐息なのか最初のうちはわかりかねた、独特な返しで上官は彼の言葉と同じくらいに簡潔な、ルルティカの報告を聞き終えた。
ルルティカは上官の姿を見上げて、溜息を吐きたいのを堪える。
異端審問官を示すシルバーグレーの詰め襟の制服は、率先して大立ち回りを演じた割に皺も少なく汚れは一つも付着していない。
血飛沫を真正面からもろに浴びてしまったルルティカとは真逆で、彼女よりも多くを屠ったとはいつもながら思えない姿である。
上官の背中に生えた、大きな純白の翼も相変わらず美しく光り輝いていた。
彼の得物は、今回は大きく湾曲した片刃剣である。
上官がそれを使用している姿ははじめて見るわけではないが、前回と前々回に使っていたものとは違っているため、使い慣れているわけではないはずだ。
しかし、かつて愛用していたらしい大鎌をルルティカに譲って以来、様々な武器をとっかえひっかえしている上官はいつだって不慣れな様子を見せることはない。
いつだって、どんな武器であろうとあっさりと使い熟してみせる。
戦闘において邪魔になりそうな大きな翼同様、まったく動きを制限されることなく華麗に扱ってみせるのだ。
戦闘に特化した天使であり、本人の努力の賜物であるその能力の高さにルルティカは思わず物欲しげな表情を浮かべ掛けて慌ててフードを目深に被る。
今、すべきことは何か。
簡単だ、彼の補佐官としての業務を全うすればいい。
シルバーグレー制服がひしめく中、たった一人だけ黒を纏うルルティカは、大きく吸った息をゆっくりと吐いて、天から遣わされた異端審問官として、彼の忠実な部下としての自分を取り戻してから一歩踏み出した。
◆◇◆◇
フッと意識が浮上したきっかけは、わからない。
カーテンの隙間から見える空はまだ薄暗く、いくら仕事に誇りを持っているルルティカといえども、さすがにまだ出勤には随分と早い時間だ。
自分の起きる時間ではないのだとすれば、同居人が起きたからかと思い、横を見ればそうではなかった。
同居人は常に、同じ体制で寝ている。
相変わらず不安になる程に、彫刻か何かの如く静かに横になっていた。
ルルティカは、自身の呼吸音すら抑えて、静かに静かに至近距離にいる存在を感じ取ろうとする。
鋭さが際立つ双眸は閉じられ、穏やかな寝息がルルティカの前髪を微かに揺らしていた。
素肌に触れる温もりを感じてやっと、短い確認作業を終えてルルティカは安堵することが出来るのだ。
以前とまるで違う質の良いシーツと、目の前にある温もりに包まれていると、ルルティカは夢を見ている気がしてならない。
薪がないのは以前の我が家と変わらないが、暖炉と煙突は綺麗に清められていて、いつでも火が入れられる状態になっている。
シーツだけではなく、掛け布団もモコモコしていて柔らかく、マットレスもふかふかで寝心地が良い。
だから少なくとも、凍える心配はもうしなくてもいいのだ。
食事だって、野菜の屑を具にした薄いスープだけということはもうないし、水でひもじい腹を膨らませることももうなかった。
洗濯した衣服に、毎日の湯浴みがいつもルルティカの身体を清潔に保ってくれる。
そして何より、直属の頼もしい上官に優しい先輩たちがいる職場に、明るい商店街の人々の存在が、迫害されたルルティカの心を癒してくれた。
「……ん」
何となく甘えたくなり、むき出しの肩口に額をぐりぐりと押し付けていれば、頭上から微かな声がし、ルルティカの頭を乗せていた腕が動いて彼女を抱き寄せる。
抱き寄せられたルルティカの頭を宥めるように、大きな手が数回軽く叩き、そのままぐにゃりと力が抜けて落ちた。
その後は静かな寝室に、穏やかな寝息だけが変わらず聞こえるのみだ。
自分が立てる音しかない、静かだが寂しい部屋。
嘲笑と陰口、冷たい眼差しが満ちた騒がしくも残酷な空間。
そこから明るい場所へと連れ出してくれたこのヒトに、報いることが出来るのだろうか。
いつまでも、ここ温かな場所に、このヒトの隣に置いて貰えるだろうか。
しかし、そんな思いは烏滸がましいのかもしれない。
そもそもルルティカは、この異端審問官である天使に保護されている、魔力を持つだけの魔女でしかないのだから。