三顧目の礼
某所でアップしていたものです。(加筆修正してます)
久しぶりにこちらのサイトにお世話になります。
更新は極めてのろいです。
ふぅ、と少女は机の上にシャープペンを放り出し、頬杖を突いて窓の向こうに広がる晴れ渡る空を眺めた。
教壇では教師が机に伏せている生徒を睨めつけながら漢詩の説明をしている。古の人間が詠んだ詩など高校生には退屈なだけだ。それが分かっているからか、教師の声にも張りがない。
ボソボソと、詩聖と呼ばれた男の創った詩を読み上げている。
そもそも教え方が悪いのだ、とそのやる気のない声をぼんやりと聞きながら彼女は思う。
漢詩というのはただの漢字の羅列ではない。そこにはその詩を創った者の人生、心のありようが詰め込まれているのだ。であるから、本当の意味で興味を持たせるならば作者の生きた時代と生涯を解説すべきなのだ。教科書の端に載っている略歴では事足りない。
それに加え、現代日本語訳された詩には、音の美しさが殺がれてしまっている。極上の音楽のようなリズムと抑揚がなければ、詩の魅力など半減というのでは足りぬ。
少女は西の方へ飛んでいった鳥を目で追い、それから教科書に視線を戻した。
―――三顧頻繁天下計
両朝開済老臣心
会ったこともない男が綴ったその二行。
文字を辿るだけで、彼女の脳裏には「その時」が鮮やかに甦るのだ。
あの人は萌葱色の衣を纏っていた。
自分は井戸の傍らで身体を拭いているところだった。上半身を肌蹴ているところへ突然現れた人影に驚いて、弟の名を呼ぼうとした。
けれど、闖入者の顔を見れば自分以上に驚いている。
口と目とをまん丸に開いて突っ立ったまま、一瞬後、破顔した。
「やっと会えた……」
そう言うとヨロヨロと歩み寄ってきて、衣を掻き合わせた自分にがばりと抱きついた。
驚いて、声を出すことも出来なかった。
突然見知らぬ男に抱きつかれたのだ。当然だろう。
当時を思い出すと、自然と少女の口元には笑みが浮かぶ。
後の世で、あの人生を悲劇と呼ぶ人がいる。
私を殺し忠義に生き、亡き主の命だけを胸に無謀な大業を成そうとする半ば、陣中に倒れた天才軍師。
それが彼女の前世に対する現代の評であった。
そう。少女はこの日本に生まれる前の、所謂「前世の記憶」を持っている。
千八百年ほども昔の話であるから、もしかすると前前世くらいの記憶なのかもしれない。どちらにしろ、今、この日本で生きている「自分」以外の記憶を持っているのは確かだった。 その記憶で彼女は諸葛亮という名の男であった。
あの時どのような気持ちで最期を迎えようと、後世の人間がなんと言おうと、今にして思えば前の人生は幸せだったのだ、と彼女は思う。
彼女の名は諸葛亮≪もろくずりょう≫。
日本では珍しい(とあるデータによると日本の名字ランキング第34236位だ)前世と同じ漢字を用いた諸葛氏に生を受けたのは完全なる天の采配として、名前まで同じなのは何も偶然ではない。
亮が前世で生きた時代というのは後に、大陸に三つの帝国が並び立ったがゆえに三国時代と呼ばれ、乱世を縦横無尽に駆け抜ける英雄たちの武勇伝が民衆の心を掴み、講談になり芝居になった。そして遂に、現在から400年から600年前、それぞれに語り継がれていた英雄たちの物語が一本の長編小説として誕生した。
三国志演義と呼ばれるソレは、三国の中で真っ先に滅びた劉備の蜀を正義として綴られており、大陸よりもむしろ、判官贔屓が大好きなこの島国で好んで読み継がれている。
亮の母親は、まさに三国志フリークであった。自分が「諸葛」という姓の男性と結婚すると分かる前から、子どもができたら男でも女でも「亮」という名前にしようと決めていたのだという。
また、亮の友人は、彼女を昔の字に似た音感で呼んだ。
小学校も中学年になれば三国志を愛する男子生徒がクラスにひとりはいて、亮の名前を見て「孔明」と呼んだのが最初だった。
こうなってくると、亮の記憶は次第に混乱し始めた。
今は確かにどこにでもいるような日本の女子高生であるのに、いまだ遥かいにしえに滅びた蜀漢の丞相であるような……。
昔は良かった、と呟く少女の「昔」とは、古代中国のことなのである。
(誰がなんと言おうと、昔は幸せだった)
覇気のない教師の声を聞きながら、亮は心のうちで呟く。
もちろん、小さいながらも一国を丸々動かし得る権力を有していたからではない。
以前の人生には、一緒に歩む者がいた。隣で支えてくれる者も。何より、常に亮を導いてくれる絶対的な彼がいた。
詩聖に悲壮な詩を詠まれようとも、後世の人間に憐れまれようとも、目的も目標もなく、ぬるま湯に浸かっているような今に比べれば格段に幸せな生涯を送ったと言えよう。
ふぅ、と二度目になるため息を零し、亮は再び窓の外を見た。
今度は空ではなく地上を。
亮の教室は三階にあって、窓からは校門と前庭が見える。
春まではまだ間がある。
枝ばかりの木々の足下で短く刈られた椿の葉だけが艶々と深緑に輝き、赤白の花を咲かせている。
三度目の吐息を吐く直前、亮の目は校門に釘付けになった。正しくは、校門の前に佇む人影に。
人影は、三階の高さから見下ろす亮の視線を驚異的に感じ取ったのか顔を上げてこちらを見た。
被っていた黄色いヘルメットを外し、小脇に抱える。
亮の様子が可笑しいのに気が付いた隣の席の美優が伸び上がって窓外を見下ろした。
「やだ。あのオッサンまた来てる」
校門の近くに佇む人影を見つけた美優が心底気味悪そうに呟いた。
「また?」
尋ねる亮にウンウンと頷いて、
「さっき言ったじゃん。コメがインフルでぶっ倒れてる間、変質者がコメのこと聞いて回ってたって」
マジキモイ、絶対ストーカーだよ、と美優は両手で両腕をさすって見せる。
「ミュウちゃん、あの人、何回くらい来てるの?」
亮は人影から目を離さない、否、離せない。
「えぇ?分かんないけど、アタシが見たのは今日で三回目だよ……」
多分、と続けようとした美優の声は途中で掻き消された。
「亮ー――――――――!!!」
ヘルメットを抱え萌葱色のつなぎを着た男の声によって。
「今日で三度目だー―――――!!!」