5.魔の森/前篇
夏が終わり、雲が空の高くに漂うようになった。
魔の森の魔王の館を確かめろ。
それがカルミナとイグナーツの、今回の仕事だ。
1年ほど前、突然、王都の騎士団本部にあった“魔王の角”が消えた。だが、賊は未だに見つからず、角がどこへ消えたのかもわからず……魔術師団の魔法による調査でもはっきりしたことがわからなかったという。
おかげで、最近では、10年前に英雄カーライルが倒した魔王が復活してしまったのではないかという噂まで聞かれるようになっていた。
それを受けて、魔の森近辺の領主たちも震え上がったらしい。再び魔王が現れたのなら、いったいどんな災いがふりかかるのかと。
その憂いを晴らすためにも、誰か魔王の館まで行って所在を確かめて来いということなのだ。
「お前は魔王討伐とかはやらないのか」
「なんでそんなことしなきゃならんのだ」
カルミナに尋ねられたイグナーツの答えはとてもシンプルだった。魔王殺しの英雄──騎士カーライルと遜色ない使い手なんじゃないのかと言われるわりに、「名誉じゃ腹は膨れない」と言う。おまけに、下手に名誉なんて手に入れてしまったら、余計なことまでさせられる羽目になると、うんざりした表情まで浮かべて、だ。
英雄カーライルのような、身分ある名誉を求める騎士ならそれもいいだろう。だが、せっかく気ままにできる傭兵という仕事を好んでやっているというのに、名誉だなんだと縛られるようになってしまっては本末転倒だと、イグナーツは考えているようだった。
「まあ、そもそもいるかどうかもわからんのに怖がって、馬鹿みたいだとは思ったけどな」
だいたい、王国ができてから何度も魔王は討伐されているが、肝心の、魔王が王国に与えた被害といえば、とてもしょぼいものばかりなのだ。家畜がちょっと病気になったり長雨が続いたり、魔の森から魔物が1匹だか2匹だか現れたりと、とても地味すぎて、本当に“魔王”の仕業なのかと非常に疑わしい。仮にも“魔王”だというなら、王国の存亡に関わるほどの事件を起こしたりするのが本当なのではないか。
農民や近隣の住民にしてみたら、どんなにつまらない災いでも生活に関わるものであり、冗談じゃないのかもしれない。だが、それでもわざわざ生命の危険を冒してまで討伐に出るほどとは思えず、イグナーツは首を傾げてしまう。
「まあ、そうは言っても、見てくるだけで報酬をくれるんなら、引き受けないこともないってわけだ」
「だが、魔の森には強い魔物が多いと聞くが、その危険はいいのか?」
「なんとかなるだろう」
イグナーツの線引きは今ひとつ理解しがたいと、カルミナも首を傾げた。
魔の森は昼でも薄暗く感じるほど、木々が鬱蒼と生い茂っている。奥へ行くほどにその幹は太く高くなり、枝も厚く重なって暗さを増していく、古い森なのだ。
おまけに、あまり敏感でない人間にもどことなく魔法の気配が感じられるほど魔力が濃く、魔王がいるから魔の森と呼ばれるのか、魔の森と呼ばれるから魔王が棲み家を定めたのか、いったいどちらなんだろうと考えてしまうほどだった。
「意外に普通の森なんだな」
「そうだな」
馬を並べながら、いつもよりは少し気を張って歩いてはいたが、動物の気配や鳥の声は他の森となんら変わらず……ここに魔王がいるとは思えないくらい、とても普通の森であると感じられた。
「とはいえ、他の森に比べたら危険な魔物が多いとは言うし、気をつけるにこしたことはないな」
跑足で馬を歩かせながら、森の中心を目指して進んでいく。このまま魔物に会うことなく、館を確認できればいいのだが。
しかし、やはりここは“魔の森”だった。
こちらの気配を察知したのかただの偶然だったのか、木々の間を進むふたりの前に、魔物が現れたのだ。
「……キマイラか!」
出会うなり、ぐおう、と獅子の頭が吼えた。それだけでびりびりと空気が震え、脚を萎えさせるような恐怖が心の奥から湧き上がる。
とたんに、ふたりの乗った馬が怯えと恐れに棹立ちになり、泡を吹いて暴れ出した。
「馬はだめだ、降りるぞ」
イグナーツとカルミナは跳ね回る馬から飛び降りた。そのまま受け身を取り、ごろごろと地面を転がって勢いを殺す。
「カルミナ、無事か?」
「ああ」
どこにも大きな怪我はないことを確かめながら立ち上がり、ふたりは武器を抜いた。
「いきなりキマイラとは、ついてないな」
イグナーツが魔物を睨んでそう溢すと、ひとつ舌打ちをした。
キマイラは山羊と竜と獅子の3つの首を持ち、魔法まで使ってくる危険な魔物だ。力も強いし恐怖を呼び起こす咆哮や竜の息吹も厄介だ。カルミナがそこそこ魔法を使えるとはいえ、とてもふたりだけでどうにかできるような魔物ではない。
大きく息を吐き、イグナーツは「なんとかするしかないか」と呟いた。
「カルミナ、適当にやって、隙ができたら速攻で逃げるぞ」
「わかった」
イグナーツは大剣を構え、じりじりと回り込むようにキマイラへと向かう。カルミナも、それに合わせて強化と防御の魔法を唱えた。
イグナーツの身のこなしは重い板金鎧を付けているわりに早い方だが、それでもキマイラの爪の速さには敵わない。うまく剣や鎧を使って避けてはいるが、ひとりでいくつもの攻撃を躱しながらで、よく保っているほうだろう。
カルミナも魔法や剣を巧みに操り牽制や攻撃をするものの、どうしてもイグナーツに比べて当たりが軽く、思うほどの打撃を与えられない。精々が、山羊の魔法を妨害したり、竜の息吹を逸らしたりがいいところだ。
「……つぅ」
なかなかうまく隙を作れないまま戦い続けるうちに、キマイラの鋭い爪がイグナーツを薙いだ。鎧で守られているはずの胴から鮮血が飛び散り、結構な傷を負ったことがわかる。
「イグナーツ!」
「大丈夫だ。鎧があったからな」
イグナーツは踏みとどまり、剣を振り抜いた。咆哮を上げようとしていた獅子の頭を掠め、一瞬だけキマイラの動きが止まる。
しかし竜首が息吹を吹き掛けようと、イグナーツに向けて首をもたげる。それに気付いたカルミナは、思う通りにはさせないと、竜の頭上目掛けて転移し、上下の顎を突き通すように手の小剣を振り立てた。
「カルミナ、無茶するな!」
苦悶の唸り声とともに振り回されて、カルミナの身体が吹き飛ばされてしまった。
「カルミナ!?」
「大丈夫、だ」
背中を強く打ち付けた衝撃で一瞬息が詰まったが、咳き込みながらもカルミナはふらふら立ち上がる。
竜の首は息吹を吐くことはできなくなったようだが、まだ山羊と獅子の頭は残っている。小剣を手放してしまった今、あとは短剣しかない。
その短剣と魔法で、なんとか隙を作らなければ……。
そこまで考えて、ふと、なぜ自分はこんなに必死にイグナーツを助けようとしているのだろう、と、首を傾げた。
今は、チャンスなのではないか? 今なら、イグナーツが逃げられないように立ち回り、彼をキマイラの生贄として自分は無事に逃げ果せるはずだ。何を迷うのか。今すぐそうすればいいのではないのか。
“父”は、カルミナに与えた1年など無駄に終わるだけだと言ったが、今この機会をうまく使えば無駄にはならず、自分の目的は果たせるのではないか。
かたかたとカルミナの手が震える。
どうする……どうすればいい?
「──カルミナ!」
呼ばれて我に返ると、傷を抑えたイグナーツが「逃げるぞ」と手を伸ばしたところだった。慌てて「ああ」と頷いてキマイラを振り返ると、前足の関節を砕かれたのか、よろよろと立つのがやっとなくらいに傷付いた魔物が見えた。
歯を食いしばり、どうにか走れるだけ走ったところで、イグナーツががくりと崩れ折れる。血を流しすぎたのか、傷を抑えた手は真っ赤に染まり、顔色は青を通り越して白くなっていた。
「……カルミナ、俺は置いていけ」
「だが、イグナーツ……」
カルミナの声が掠れる。衝動のままに手を伸ばそうとして、カルミナは、自分の指先が震えていることに気付いた。けれど、イグナーツは伸ばしたその手を振り払う。
「……なんでだ、イグナーツ」
目を見開いてじっと見つめるカルミナを叱咤するように、イグナーツは背を叩いた。
「いいから、行け。お前は、まだ、走れるだろう?」
俺はちょっと無理っぽいからな、と小さく言って、はあ、と荒く息を吐く。げほっと咳をすると、血が混じっているようだった。喉か……それとも肺がやられたのだろうか。
自分にもっと強い治癒の魔法が使えたらいいのに、とカルミナは唇を噛む。せめて血止めくらいはと魔法を唱えようとすると……イグナーツは、「もたもたしてるな」とそれを押しとどめてしまった。
「血の匂いに惹かれて、ほかの魔物が来るぞ。その前にさっさと行け」
「……だが、お前はどうするんだ」
どうしてもイグナーツを置いて行く気になれず、カルミナは駄々を捏ねる子供のように顔を顰める。
「俺のことは気にするな。なんとかなるさ」
イグナーツはカルミナを宥めるように優しく笑うと……背を思い切り突き飛ばした。
「……ほら、躊躇してないで行け! さっさと行け!」
イグナーツの視線に追われるようにカルミナはふらりと立ち上がり……少しだけ逡巡したあと、もう一度イグナーツに追い立てられて、その指差す方向へと走り出す。
一度だけ振り返ると、イグナーツはよろよろと立ち上がり、カルミナの走る方角とは逆に向かって歩き出そうとしていた。