4.休日
グラールスでの依頼を終え、再び巡回者たちとフローブルクまで戻ってからずっと、カルミナの様子がおかしいように感じていた。
どことなくぼうっとしていて、気づくとどこを見ているのか、視線が定まらず彷徨ったままで……そういえば、顔が赤らみ、目も潤んでいるような? 呼吸も早く浅くて……。
「おい、カルミナ」
がたんと音を立ててイグナーツが立ち上がると、カルミナはゆるゆると振り返って、精彩を欠く声で「なんだ」と目を眇めた。
「お前な……調子が悪いなら悪いと、ちゃんと言えよ」
はあ、と盛大に溜息を吐いて、イグナーツは呆れ顔になる。
「我慢強いのは美徳かもしれないが、時と場合を考えろ」
様子のおかしさを見て額を触れば相当に熱かった。なのに、指先は氷のように冷たくなって震えていて、典型的な熱病ではないか。
「気付かなかった、だけだ」
「なんでだよ。これだけ熱を出しておいて気付かないわけがあるか」
頑なに「問題ない」を繰り返すカルミナに痺れを切らし、イグナーツは無理やり抱き上げ、歩き出す。「何をするんだ」というカルミナの抵抗は弱々しく、声にも動きにも、いつものような鋭さはなかった。
「部屋に連れてくから、寝てろ」
イグナーツは強く言い聞かせるようにカルミナに顔を顰めてみせた。
すぐに薬師を呼んで薬を処方してもらい、「季節の変わり目に流行る熱病ですよ。今年も流行り始めてますからね。2、3日もすれば治ります」と言われてようやく、イグナーツは安堵の吐息を漏らした。
多少の抵抗はしたけれど、寝かせてしまえばすぐにおとなしくなり……本当は、かなり苦しかったのではないかとも伺えた。
いつも、イグナーツの知る限り、ずっと気を張り詰めているようでもあり、もしかしたら、そうやって休まる暇がなかったことで病を得てしまったんだろうかとも思われて、また顔を顰めてしまう。
「いいかげん、馴れてくれないもんかな」
ようやくうとうとと眠ったカルミナを眺め、イグナーツは独りごちる。こんな風に無防備な姿を見ることができるのは、病気で薬の効いた今くらいではないだろうか。
「いつもこんなんだったらいいのにな」
カルミナのことになると、溜息ばかりだ。
以前は、何があっても動じない……というよりは、何も感じていないようにすら思えたのだが、最近はそうでもないということがわかっていた。
相変わらず話はするのに会話らしい会話は続かず、しかしその分、目に浮かぶものからいろいろなものが伺えて、実は、外に出さないだけで、内に閉じ込めたものは多いのだろうなと考えていた。
その半分に満たなくてもいいから、ほんの触りだけでも口に出してくれればいいのに、とも考えたりしていたのだ。
「まったく、なんだってこんな厄介な性格なんだろうな、お前は」
呆れ半分、諦め半分な気持ちではあるが、せめてもう少しだけ馴染んでくれたら、今よりもいろいろなことを話してくれるようになるだろうかという期待も捨てきれない。
「とりあえず、しばらくはゆっくり寝てろよ」
そう呟いてひとつ頭を撫でて立ち上がり、イグナーツは部屋を出た。
ふと、何かの気配を感じてカルミナが目を開けると……いつの間にか傍らに誰かが立って、自分をじっと見下ろしていた。その誰かは、カルミナが目を覚ましたことに気付くと、影のように気配を感じさせず、微かな物音すらも立てずにそっと近づいてくる。
いったい誰が、と息を呑むカルミナに、その何者かがくつくつと小さく笑い声をあげた。
「父……さま、どうして」
「お前は、本当に弱いな」
“父”と呼ばれた男は優しげに笑んで手を伸ばし……その指先に触れられたカルミナは、びくりと竦みあがった。
「吐きそうなほどに、脆く、弱い」
いきなり顔を覗き込まれ、もう一度「父さま」とカルミナが怯えた声で小さく呼ぶ。
「もう半分以上過ぎたのに、お前は何をしている?」
笑みを深くするかのように目を細め、さらに手を伸ばし頬を撫でる“父”に、カルミナは身体を固く縮こませた。病のせいなのか、緊張のせいなのか、それとも怯えのせいなのか、背を冷や汗が伝い、心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅く早くなる。
「いいかげんに諦めてはどうだ? どうせ1年など無駄に終わるのだから。お前に任せたい仕事だって、ないわけではないのだぞ」
くっと笑う“父”にいきなり首を掴まれ、締め上げられて、ひゅっと喉が鳴った。
「そもそも、お前にやれる見込みなどないことはわかっているのだろう? なんなら、私が代わりにやってもいいのだよ。……いや、それとも」
笑ったまま顔を近づけて、“父”は囁き、口付けをひとつ落とす。それからカルミナの固く閉じた唇をぺろりと舐めて顔を離すと、おもしろそうに口元を歪めた。
「その身体であれを誑し込み、油断させて喉を掻き切ろうとでも考えているのか?」
怯えた表情を浮かべて目を見開いたままのカルミナに、“父”はまたくつくつと笑う。その笑い声に、カルミナはますます身を強張らせた。
「お前に、そんなことができるのか? こんなに、弱い、お前に」
「カルミナ! 大丈夫か?」
「イグ……ナーツ?」
いきなり開いた扉と掛けられた声にカルミナは大袈裟なほどに驚いて……すぐにさっきまで“父”の立っていた場所に目をやると、既に姿を消した後だった。
ベッドに寝たまま、顔だけを自分へと向けたカルミナを確認して、イグナーツはほっと息を吐く。それから部屋の中を注意深く見回して首を捻った。
「誰かいたように感じたんだが……カルミナ、何か異常はないか?」
「……何も、ない」
イグナーツは訝しむように首を傾げてつかつかと近寄り、カルミナの顔を覗き込む。
「本当に? 何かあったんじゃないのか? そんな不安そうな顔をして、お前らしくないぞ」
「……夢見が」
「ん?」
「たぶん、夢見が悪かったんだ」
「そうか?」
それだけを言って首を抑えるカルミナに、どことなく納得がいかないという顔のまま、それでもイグナーツは無理やり頷いた。
「お前が何もないと言うんならいいんだが……」
イグナーツは椅子を引き寄せて座り、熱を確かめるようにカルミナの額に手を伸ばす。
だいぶ熱は下がったようで、寝る前までの燃えるような熱さは治っていた。この分なら、明日は起きても大丈夫なくらいには回復するだろう。
「そういやカルミナ。お前って、何か楽しいと思うようなことはあるのか?」
「……なぜ?」
「いや……なんとなく、かな」
少し困ったように微笑んで、イグナーツはカルミナの頭をぽんぽんと優しく叩く。なぜか、その手がとても苦しいもののように感じて……カルミナは目を伏せた。
「イグナーツ……わたしらしいというのは、どういうことだ」
変なことを訊くんだなと、イグナーツは軽く目を瞠る。腕を組み、少し考えて、イグナーツは指折り数えながら、こういうのがカルミナの特徴だろうと並べていった。
「……俺に関心がないし、素直じゃない。おまけに相変わらず会話をする気もない。愛想もないな。しかも怖い」
それからにやりと笑い、さらに付け足す。
「そのくせ、こっちが気になって仕方ないのか、ちらちらと伺ってくるんだよ。人馴れしてない猫みたいにな。おかげで、妙にかわいいと思ってしまう」
「どういう意味だ」
眉を顰めるカルミナに、はは、と笑って、イグナーツはもうひとつだけぽんと頭を叩いてから、手のひらでカルミナの目を覆った。
「もう少し寝てろ。悪い夢なんか見ないように、俺が付いててやるから。
なんなら、子守唄でも歌ってやろうか?」
「……いらん」
不貞腐れたように背を向けるカルミナに、もう一度、はは、とイグナーツは笑った。