1.黒い竜/前篇
「それで、その魔物は何か、わかっているのか」
カルミナはいつものように平板な声で尋ねつつ、顔に掛かった真っ赤な髪を掻き上げた。酒場のざわめきに消されそうな小さな声の割に、対面に座った自分の耳までしっかりと届くのは何故だろうと考えつつ、イグナーツは首を振る。
「それが、わからない。だから行ったとこ勝負だろうな」
「お前はいつもそうだ。事前調査をなんだと考えている」
自分の顔をじろりと見上げて半眼になったカルミナの目に、呆れの色が浮かぶ。それに気付いて、イグナーツは肩を竦めて「しかたないだろう」と返した。
「依頼者の話じゃ、家畜が襲われたという被害はあるけど、誰も魔物を見てないというんだ。そんなんじゃ、何かなんてわからないだろう」
やはりいつもと変わらない軽い言葉に、カルミナは溜息を吐く。
「魔法使いはどうするつもりだ? 相手がわからないなら調査も必要となるはずだが」
「このあたりにはいないらしい。だから、カルミナの使える魔法頼りだ」
「……しかたない。では、いつから行くんだ」
「明日にでも」
へらへらと笑うイグナーツに、もう一度カルミナは溜息を漏らした。
イグナーツとカルミナが一緒に組んで仕事を請け負うようになって、もう3ヶ月が過ぎた。
最初は成り行きだった。傭兵組合に登録に来たものの勝手がわからなかったカルミナが、そこに居合わせたベテランらしい剣士……つまり、イグナーツにいろいろと教えを乞うたのが始まりだ。
へらへらと締まりのない笑いを浮かべたイグナーツという傭兵は、意外にも剣士としては手練であり、かなりのお人好しでもあった。
傭兵として身を立てようと組合に来てはみたものの、右も左もわからないと途方に暮れた様子のカルミナに登録のしかたを教え、その後も最初の依頼を終えるまではとあれこれと世話を焼き、面倒を見てくれたのだ。「これも何かの縁ってやつだろう」と。
簡単な魔法と斥候をこなせるカルミナと、魔法はからっきしだが剣の腕だけは滅法よいイグナーツはチームとしての相性もよく、それからも度々組んで依頼をこなすようになった。ふたりで組んだほうがより多くの依頼をこなせるとわかった今では、正式にチームを組んで仕事を受けるようになっている。
最初は表情の変化も声の抑揚も乏しいカルミナから、あまり感情の動きを追うことができなかったイグナーツにも、今では彼女に現れる僅かな変化が難なくわかるようにもなっていた。
いつもふざけて笑っているだけに見えるイグナーツが、評判より遥かに腕が立つ剣士であり、言われるほどいい加減な性格でもないことを、カルミナは既に知っている。
翌日、さっそく依頼のあった村に向かって馬を走らせながら、カルミナはもう一度確認しようと口を開いた。
「お前は、魔物がなんだと考えている?」
「ん……家畜が襲われたっていうからなあ。ありがちなところでただの獣か巨狼ってあたりだろうな。厄介なやつだとするなら、梟熊か魔狼の群あたりか」
「妥当だな」
家畜が魔物に襲われたので退治してくれという依頼は、辺境ではけっこう多い。
もちろん、騎士団へ討伐隊の派遣を頼むことはできるし、そのほうが費用はかからない。だが、時間はかかってしまう。時間がかかればかかるほど魔物の被害は大きくなるし、ようやく討伐騎士たちが到着したものの、既に家畜は全てやられた後で人間にまで被害が出ていたということになってしまえば、魔物を退治できてもその後の生活が立ち行かなくなってしまう。
そこで、多少金はかかってもすぐに動いてくれる、イグナーツやカルミナのような傭兵へ魔物退治を依頼することになるというわけだ。
「あそこが問題の村か」
「ああ、あれだな」
半日ほど馬を走らせ、カルミナが細い街道の先に見えてきた集落を指すと、イグナーツは頷いた。
「まずは、村長の家に行こう。魔物が何かくらいはわかったかもしれないし」
「そうだな」
街道沿いの畑地で農作業に精を出すひとびとに村長の家の場所を聞き、ふたりはまた馬を走らせた。
「では、相変わらず魔物の正体はわからないと?」
「ええ、そうなんです」
困ったように汗を拭きながら壮年に差し掛かったくらいの男が頷くと、むう、とイグナーツは唸りながら考え込んだ。これ以上村長に魔物のことを聞こうとしても、埒があかなそうだ。
「まずは家畜が襲われた場所を確認すべきだろう。痕跡から魔物がわかるかもしれない」
「そうだなあ……やっぱ、それしかないか」
カルミナの提案に、イグナーツは村長に案内のできる者を頼み、今日のうちにできることはさっさと済ませてしまおうと決めた。
まずは日が沈む前に家畜が襲われたという放牧地の場所へと向かう。もうあとふた時もすれば日は完全に沈み、暗くなってしまうのだ。急いだほうがいいだろう。
歩きながら、襲われた家畜の様子はどうだったのか、このあたりに出る魔物といったら何なのか、案内をかってでた狩人からいろいろと聞き出してはみたが……。
「それが……」
狩人にも、魔物の正体がさっぱりわからないのだと言う。たしかにこの辺りにも魔狼や巨狼はいるのだが、どうもそういう、よくある魔物に襲われたのだとは思えないらしい。現場に家畜の死骸や血痕は残っていたけれど、肝心の魔物がどこからどうやってそこへやってきたのか、周辺の森にも痕跡が残っていないのだ。
「それは、ちょっと面倒なことになりそうだね」
狩人と話しながら、イグナーツが眉根を寄せて考え込んでしまうと、周辺をぐるぐると見回しながら歩いていたカルミナが急に口を開いた。
「このあたりの地形に詳しい奴は誰だ?」
「俺です」
このあたりの森の中までを熟知しているのは、やはりこの狩人が一番らしい。カルミナはひとつ頷くと、このあたり……特に森の中にあるものや、丘陵地帯や山までの距離など、さまざまなことを質問した。
「カルミナ、何か気がついたことでもあるのか?」
「少し気になったことがある。だが、現場を見るまではなんとも言えない」
淡々と述べるカルミナの顔を見やって、イグナーツは「厄介なことにならなきゃいいな」と独りごちた。
2日前に家畜が襲われたという現場は、今日まで雨も降らずにいたおかげか、まだ生々しい血痕や何かの爪痕などがくっきりと残ったままだった。
「俺たちも周りは調べてみましたが、急に、突然この場に魔物が現れたとしか思いようのない跡しかなかったんで……」
困ったような狩人の言葉に頷きながら、カルミナは地面に残されたものを仔細に観察する。
この爪跡は、魔狼や巨狼のような、ましてや狼のような獣の爪ではない。もっと鋭く長く尖った……しかし、梟熊のでもなく……。
それに、この現場の周囲にはたしかにこの魔物が残した痕跡がない。普通、どんなに慎重な魔物でも、ここへ来るときと去るときのどちらにも足跡が残らないということはありえない。
まだ日があるうちに出来る限り調べてカルミナが出した結論は、「魔物は空から来たのだろう」だった。
「空から?」
カルミナはイグナーツに頷き、現場の一点を指し示す。
「ここを見ろ。かなり凹んでいるだろう。それなりに重さのある奴が降りた跡だ。この爪のある足跡はそいつのものだろう」
「空を飛ぶ、魔物?」
狩人が青い顔でじっと足跡を見つめる。
「ああ。周囲に跡なんか残すわけがない。そいつは空を飛んでここまで来たんだからな」
「カルミナ、お前、こいつが何か予想がついたのか?」
目を丸くして驚いた様子のイグナーツに、「はっきりとはわからない」と応えた後、声を落として続ける。
「だが、だいたいは。話は戻ってからだ」
そこまでわかったところで、日が沈まないうちにとさっさと現場を後にした。狩人は何か恐ろしいものでも見るかのように、後を振り返りながら、村への道を足早に戻っていった。
「なあ、カルミナ。空を飛ぶってことは、鷲獅子あたりか?」
村長に空を飛ぶ魔物の仕業だと伝え、滞在の間提供された部屋に引っ込むと、さっそくイグナーツが尋ねてきた。
しかし、カルミナは「たぶん、もっと悪いものが相手だろう」と首を振る。
「よくて飛竜……だが、飛竜は普通、捕まえた獲物を巣に運んでから食う。あんなところで食い散らかしたりしない」
「じゃあ、何だって言うんだ?」
カルミナがちらりとイグナーツを見ると、彼は嫌なことを考えてしまったとでも言わんばかりに顔を顰めていた。
「竜かもしれない」
「まさか」
カルミナの予想を反射的に否定してから、イグナーツは息を呑む。
「……本当に?」
「この辺りに、飛竜や鷲獅子の棲家になるような地形はない。一番近い場所で、南のエッタラー山地だが、わざわざここまで餌を獲りに来る意味がわからない」
たしかに、エッタラー山地なら鷲獅子や飛竜がいるかもしれないが、いかんせん遠過ぎる。たとえ空を飛べても、2日は掛かるような距離だろう。なら、やはり鷲獅子や飛竜ではなさそうだ。
イグナーツは先を促した。
「狩人の話では、ここから近い場所の森の奥には沼地があるという。あまりひとが立ち入らないような森の奥だ。狩人も滅多にそこまでは入らないと言っていた。それに」
カルミナが腰に下げた袋をごそごそと探り、何か小さなものを取り出した。
「あそこに落ちていたこれも、竜だと考える根拠だ」
カルミナの指に摘まれていたのは、少し欠けた、カルミナの小指の爪ほどのサイズの、小さな黒い鱗だった。
「この落とし物は、竜のものだろう。黒い竜は沼地を好んで棲家にすると聞いたこともある。このあたりの地形から考えると、妥当なところだ」
イグナーツはますます顔を顰めて、「参ったな」と小さく呟いた。