8.“父”
あの時、イグナーツを護衛として雇っていたのはある領主だった。跡目争いの煽りでキナ臭くなってきたという理由で、無事代替わりが済むまでと期間を区切って、護衛を依頼してきたのだ。
問題のその日も、たしかに賊の襲撃があった。
そろそろ夜も更けてきたという頃、急な胸騒ぎに襲われ、いつもの“勘”が働いたのかもしれないと、イグナーツは剣を持って領主の部屋へと急いだのだ。
はたして、領主の部屋の前には事切れた傭兵が倒れ伏していて、中では争うような音にくぐもった悲鳴が聞こえて……。
「おい!」
扉を開いて中へ飛び込むと、もうひとりの傭兵が小柄な賊に追い詰められ、斬り倒されるところだった。
「領主どの!」
イグナーツが慌てて確認すると、部屋の隅に蹲る領主その人に気付いた。幸い、まだ怪我はなく無事なようだ。
それだけを見て取ると、邪魔が入ったと舌打ちをする賊へとイグナーツは斬り掛かり……数合斬り結んで怪我を負わされた賊は叶わないと悟ってか、さっさと逃げ出したのだ。
「あの怪我は致命傷と言えるほどの深手じゃなかった。さすがに、それくらいは手応えでわかる」
イグナーツが嘘を吐いているようには思えず、ラーベは小さく頷いた。
「……あとな、その3日後だか4日後だかに、結局、領主は殺されちまったんだ」
ラーベに問われるように見上げられて、イグナーツは少し考える。
「誰がやったかはわからないが……魔法も使う賊だったはずだ」
「魔法」
あの後で、魔法も使うというなら……それに、何より父さまが「殺せなかった」で依頼を終わらせるわけがない。
カルミナは、あの日何を話したかったのだろう。あの日、自分の待つ森へ来るまでの間に、何があったんだろう。
「父さまは……カルミナのことを仕方のない子だって……手を掛けさせて悪い子だって……」
なぜ忘れていたのだろう。
バラバラだったものが集まって形を作っていくように、何かがはっきりと見え始める。
……見えてしまうことが、怖い。
ガタガタと震えだすラーベをイグナーツはもう一度抱きしめた。
「どうした? 大丈夫か?」
「と、父さまは、私に、悪い子になったらいけないと……」
震えながらいっぱいに目を見開き、ラーベはイグナーツを見つめる。
「か、カルミナは、仕事に行く前、終わったら、いろいろ、話したいことが、あるって……」
そうだ。
父さまのところを出る前に、言われたんだ。「お前は、カルミナのように“父”をがっかりさせてはいけない」と。
なぜ、父さまはわざわざあんなことを言ったのか。
……それに、戻ってきたカルミナは、何と言い残したんだった?
「カルミナ、は」
あの日、戻ってきたカルミナの背はべっとりと血で濡れていた。カルミナ自身の血で。
背中に深く短剣を突き立てられたままで、ふらふらで、よくここまでもったと思うくらいの出血で、血止めをしようとする私を押し留めてもう無理だと、「このまま、どこかに」と……。
このままどこかに、何だと言おうとしたのだろう。
そして、動かなくなったカルミナを埋めてからずっと、ただ呆然としていた私を、父さまが迎えに来たのだ。
「カルミナは期待はずれだったが、ラーベは期待に応えてくれるね?」
そう言って微笑む父さまが差し出した手を取り、私は、私は……。
「イグナーツ……」
「どうした?」
「私、父さまのところへ、戻らなきゃ」
「ラーベ?」
イグナーツの腕に力がこもり、ラーベの顔はイグナーツへと向かされる。
「待て、ラーベ。なぜだ?」
覗き込んだラーベの目は不安と恐怖に揺れていた。
「領主も、カルミナも、父さまが、やったんだ。
カルミナは、悪い子だから。罰を……私がここにいたら、イグナーツも危ない。だから、私が、戻らなきゃ……」
「だめだ」
「だって、イグナーツ」
「戻るな」
「だって、父さまは、すごく強くて……」
「大丈夫だ」
「でも」
「もっと俺を信じ……」
突然、イグナーツはラーベを抱えたままベッドの横へと転がり落ちた。
間髪入れず、さっきまでふたりのいた場所にナイフが3本、刺さる。
「イグナーツ?」
「驚いた。本当に噂通り勘がいい」
くつくつと笑いながら、いつの間にか“父”が部屋の中にいた。
「悪い子だね、ラーベ」
名を呼ばれ、ラーベの身体がびくりと震えて竦んだ。
「“父”の言い付けを守れないなんて。そんなことでは、カルミナがどう思うだろうね。カルミナはお前のせいで死んだというのに、本当に悪い子だ」
「父さま」
「カルミナの命に免じて、私はお前に時間を与えたのだよ? まさか、長く一緒にいたから絆されたとでも言うのかい?」
薄く笑みを湛えたまま、“父”はじっと部屋の隅に佇む。
イグナーツが剣を構え、ラーベを背に立ち上がるが、“父”は彼を無視してか、なおも言葉を続けた。
「お前の出来の悪さには、本当にがっかりさせられる。だがね……」
“父”がまた、くっと笑い。
「それでも、お前には見込みがあるのだよ。このまま私のところに戻るなら、この男は見逃してやるが……どうする、ラーベ」
「父、さま……」
伸ばされた手から庇うように、イグナーツはラーベを隠すように位置をずらした。
「ラーベは行かない……行かせない!」
宣言とともに、イグナーツはベッドを踏み越え斬り掛かる。だが、“父”はひらり躱し、おどけたように肩を竦めた。
「残念だが、時間切れのようだ、ラーベ。かわいそうに……お前のせいで、今度はこの男が死んでしまうね」
ますます楽しそうに笑んで、“父”はすらりと長剣を抜いた。
……“父”の剣は速い。イグナーツも速いが、やはり得物が大剣では速度で長剣に劣るのだ。
それでもイグナーツはよく躱しているし、“父”への斬撃も負けていない。
「……なるほど、妙に勘がいいのは、素養持ちだからか」
「何?」
相変わらず薄く笑みを浮かべたままの“父”が、またくつくつと笑う。
「お前は感覚系の素養持ちなのだろう。だから、人より勘が働く。だがね」
訝しむように睨み付けるイグナーツに、“父”は続けた。
「ならば、その素養が働かないようにしてやればいいだけだ。それだけでお前は動けなくなる」
そう言って魔法を唱えだす“父”に、ラーベははっと顔を上げる。
「……だめだ!」
“父”の不意を突くよう飛び出して、ラーベは短い魔法とともに炎を放った。もちろん、“父”の唱えようとした魔法……感知疎外の魔法を阻止するために。
この状況でイグナーツの“勘”が働かなくなったりしたら、彼には致命的なことになってしまうのは、すぐに想像できたから。
「ラーベ……“父”に逆らうのか。本当に悪い子だ」
難なく飛び退り、けれどさすがに詠唱を中断して炎を避けた“父”が目を眇める。
「この魔法、父さまが、最初に教えてくれた」
まだ怯えてはいるが、それでもラーベは“父”をぐっと睨みつけた。そんなラーベを、くつくつと“父”はさらに楽しげに笑う。
「そうだったね……だがお前はまだまだ甘い」
その途端にふっと“父”の姿が消えて。
「避けろ!」
イグナーツに強く腕を引かれ、よろめいて一歩下がった後に大きな炎が襲いかかった。
「ほんとうに、これだから、感覚系の素養持ちは厄介だ。これも察知するなんてね」
やれやれと首を振る“父”に、イグナーツがまた斬り掛かった。だが、“父”の結界の盾に阻まれ、傷を与えることができない。
舌打ちをひとつして、しかしそれでもイグナーツは攻撃の手を緩めなかった。
「それにしても、若い割に腕もなかなかのようだ。こんなに腕がいいのに、とても残念だ」
にい、と“父”は笑い、長剣でイグナーツの剣を逸らすと、もう片手を前に、また短い魔法を唱える。それでもイグナーツは身体を滑らせ、かろうじて炎の直撃を避けた。
「ほう、これもか」
そのイグナーツに、大げさに“父”は感心してみせて。
……完全に遊ばれている、とラーベは思う。
“父”は、完全に、ラーベとイグナーツで遊んでいる。
“父”とイグナーツの斬り合いに、ラーベが加わることはできない。イグナーツの足を引っ張るだけだ。だがしかし、魔法と剣を自在に操る“父”が相手では、この狭い室内はイグナーツにとって不利だ。何といっても、得物の大きさが違いすぎる。
なら、自分にできることは何か、と考えて……。
ああ、たぶん、“父”には気づかれるだろう。だけど、一瞬だけでいい、隙さえできればイグナーツならなんとかしてくれるはずだ。イグナーツならちゃんとわかって動いてくれるはずだ。
ラーベはベッドに刺さったままのナイフを取り、短い魔法を唱え……。
「ラーベ、お前はほんとうに悪い子になってしまったな」
背後に現れることは予想していたのか、“父”はラーベの現れた場所を無造作に剣で薙いだ。ラーベは傷を負いつつも、右に持ったナイフでかろうじて急所だけは守り、それから、左のナイフを“父”の肩に突き立てる。
……急所にはまったく届いていないし、負わせた傷も浅いものだったが、ほんの一瞬だけ……本当に、ほんの一瞬だけ、“父”の意識が完全にラーベへと移った。
「イグナーツ!」
ラーベの呼びかけと同時にイグナーツが大剣を振るう。
彼が“父”の胸を浅く斬りつけ、ようやく初めて“父”の顔から笑みが消えた。ラーベが畳みかけるように背後から後ろ首を狙ってナイフを振るう。さらにそこへ、イグナーツが返す手で“父”の首を狙って薙ぐ。
“父”が、膝をついた。
ぱっくりと開いた喉からひゅうひゅうと息が漏れ、ぱくぱくと何かを告げるように“父”の口が動き……それから、ばたりと倒れた。
「イグナーツ……」
目の前の光景が信じられなくて、ラーベはぺたりと座り込む。
とたんに、“父”に斬られた傷がずきずきと激しく痛みだし、ラーベの気が遠くなって……。
「あ、おい、ラーベ、しっかりしろ!」
慌てるイグナーツの声も遠くなり、そして何も聞こえなくなった。





