6.変化と/前篇
どうも避けられてる気がするな、とイグナーツは感じていた。
魔の森から戻ってから体調が万全に戻るまで、少し休養も兼ねてトイヘルンの町に留まっていたのだが、その間ずっと、どうもカルミナは自分を避けているのではないかと感じていたのだ。
いや、感じているどころではなく、どう考えても避けられている。
「懐いてくれたんじゃないかと思ったのにな」
見つけた途端、まるで怯えた野生動物のようにすっと姿を隠してしまうのは、いったいなぜなのだ。魔の森で、自分は何かやらかしてしまったのだろうかと考えてみるが、イグナーツには思い当たることがない。
……自分の相棒はつくづく厄介な性格だと思う。それなのに、なぜ自分と組むことにしたのか、おそらく何か彼女なりの事情や理由があることはわかっていた。その内容まではわからないが、何かがあるんだろう。
それにしても、魔の森から戻った後の手のひらの返し方は、少し度が過ぎてるのじゃないだろうか。
だが、そうは言ってもそろそろ次の仕事を請けなければならない頃だ。話をしなければいけない。
はあ、と、大きく息を吐く。
もし……もし、どうしてもカルミナが一緒にやっていけないというなら、チームを解消することも考えなければならないだろう。
「解消は、したくないな」
ぼそりと呟いて、イグナーツは頭を掻き毟り……これ以上ひとりで悶々と考えたところで答えは出ないのだ。なら、当たるしかない、仕方ないと立ち上がった。
「おい、カルミナ」
どんどんと扉を叩くと、中でカタンという小さな音が上がった。カルミナは在室しているようだ。以前なら、何かしらの返事は返したのに、戻ってからはそれすらも返さなくなったことに、またひとつ溜息を漏らす。
「入るぞ」
意を決してイグナーツが扉を開け、中へと踏み込むと、カルミナが表情を強張らせたまま立ち尽くしていた。そのカルミナの様子に、イグナーツは我知らず落ち込んでしまう。
「……そろそろ、次の仕事をしないといけないと思うんだが」
「あ、ああ、そうだな」
どことなく落ち着きなく視線を泳がせたまま、カルミナは頷いた。以前はこんな風にイグナーツと対峙したまま目を逸らすなんてことも、無かったはずだ。
「なあ、カルミナ。いったい何があった? それとも、俺が何かしたのか?」
「なんの、ことだ」
びくりとひとつ、あからさまに震えてごくりと唾を飲み込む……魔の森へ行く前は決して見せなかったそんなカルミナの様子に、イグナーツはまた少し落ち込んだ。これは、避けられてるというよりも、怯えられてるのではないだろうか。
「とぼけるなよ」溜息交じりにイグナーツは続ける。「……何かあったんだろう? 魔の森からずっと様子がおかしいのに、俺がわからないと思ってたのか?」
「別におかしくなんか……」
唇を噛んで俯く姿なんて、これまで見せたこともなかったのに、それにも気づいていないのかと、イグナーツは眉を寄せる。
「カルミナ」
もう一度名前を呼んで、つかつかと近寄るイグナーツに、カルミナはますます身体を縮こまらせた。
肩に手を置かれてまたびくりと震えるカルミナは、本当にどうしてしまったというのだろうか。
「お前、傭兵を辞めるか?」
「なんで」
イグナーツの言葉に、カルミナはぱっと顔を上げた。驚きに目を瞠り、いきなり何を言うのかと問うかのように、じっと見つめる。
「魔の森からずっと、お前はおかしい。もしかしたら、死ぬかもしれない目にあったからかと思ったんだが……ともかく、俺と組んでれば、もっと危険な仕事を請けることだって出てくるだろう」
カルミナは心持ち青褪めた顔で、ただ瞠目したままじっとイグナーツを見つめるだけだ。
「お前は腕がいいから、何も傭兵じゃなくても食っていける。町の警備に雇われることだってできるし、女だから、どこかの領主家の夫人や令嬢の護衛にだってなれる。腕のいい女の傭兵は少ないから、重宝されるしな。伝手なら俺にもいくつかあるから、なんなら紹介したっていい」
それから、イグナーツはやや言いにくそうに、少しだけ落とした声で続けた。
「そうじゃなくて、単に、もう俺とやっていくことが難しいだけだというなら……仕方ない、チームは解消しよう」
イグナーツが少し目を逸らし気味にそう告げると、カルミナは反射的に「それはだめだ」と彼の腕を掴んでいた。
「カルミナ?」
「別に、傭兵を辞めたいとか、お前とやってはいけないとか、そういうことを考えてるわけじゃない」
「じゃ、何があったんだ?」
再び問われて、カルミナは言葉に詰まる。
「……少し、いろいろと、考えてた、だけだ」
「何を」
「……いろいろと、だ。もういいだろう」
訝しむように見られて、カルミナは肩に置かれた手を無理やり振り払い、それから、イグナーツを扉へぐいぐいと押しやった。
「わたしはお前とチームを解消する気はないし、傭兵を辞める気もない。だからいいだろう。もう、出ていってくれ」
「カルミナ」
力任せに胸を押され、イグナーツはひとつ息を吐くともう一度カルミナの腕を取り……しっかりと抱き締めた。手を頭に添えて自分の胸へと引き寄せ、腕を背に回し、それから赤い髪に顔を寄せる。
「わかったから、何かあるなら、俺にも話してくれ。力になるから」
「──は、放せ」
一瞬だけ固まった後、カルミナは逃れようと身体を捩った。イグナーツの力は強かったが、全力で腕を突っ張った。
「お前に話すことなんて、何もないんだ」
「カルミナ……」
イグナーツは目を伏せて、カルミナを離す。
「ごめん」
それだけを言って、イグナーツは部屋を出た。
イグナーツを追い出し、今度こそ扉の鍵まで閉めて……カルミナはそのままへたへたと床に座り込んだ。
彼が、怖い。
魔の森で彼が無事だとわかった時、なぜかとてもうれしいと思ってしまった。
恋人なのかと訊かれ、心臓が苦しくてたまらなかった。
目を覚ました彼に名前を呼ばれて、安堵のあまり震えてしまった。
頭を撫でられ、優しい手の感触に涙が出そうになった。
……彼のせいで、わたしがおかしくなってしまう。
以前のように判断ができなくなってしまった。
今まで簡単に隠せたものがうまく隠せなくなった。
傭兵を辞めろと言われて嫌だと思った。
チームを解消してもいいと言われて、それだけはだめだとも思った。
自分を抱き締める腕の感触がまだ残っている。
たくさん機会はあったのに、魔の森でだって、あとほんのちょっとだけで彼に死が訪れたはずなのに。
今だって、イグナーツは油断していた。
……なのに、身体が竦んで動けなくなった。
喉か心臓、どちらかを突くだけで終わったはずなのに……肝臓を刺したっていい。
けれど、そんなことをしようなどと欠片も思わなかった。
自分がこんな風になってしまうなんて、怖くてたまらない。
自分に何が起きているのか、わからなくて本当に怖い。
「……あいつは、わたしの半身を、殺したんだぞ」
ふらふらと立ち上がり、鏡を覗き込んで自分に言い聞かせる間も、動悸が止まらない。
これではだめだ。
これでは、1年なんて……もうあと4ヶ月も残ってないのに、“父”の言う通り、すべてが無駄に終わってしまう。
「カルミナ……」
鏡の中に映る赤い髪。
いつも一緒だったカルミナがいないだけで、自分はこんなに役立たずになってしまうのか。
「カルミナ、カルミナ、私、どうしよう」
このままずるずるとここに留まり続け、可不可の見極めすらもできない“使えないもの”だと判断すれば、“父”は容赦なく自分を処分するだろう。
今なら、私にはやはり無理だったと頭を下げて“父”に頼めば、どうにかなるかもしれない。“父”の手にかかれば、いかにイグナーツだって……。
なのに、それは絶対に嫌なのだ。
「私は……」
そもそも、私は何のためにここにいる? なぜ、彼に近づいたんだ?
思い出せ、ラーベ。
鏡の中から、カルミナが私に語りかける。「ねえ、さっさとあいつを殺って、父さまのところに帰ろう?」と。「ラーベなら、できるよ」と。
「でも、カルミナ。お前がいないと、私、何にもできないんだ……助けてよ、カルミナ……」
できるよ、ともう一度カルミナが言う。だって、今、お前はわたしなんだよ? と。
幼い頃によくやったように、お互いの仕草も話し方も何もかもを似せて、カルミナと私を入れ替えて。
そうして、わたしはここに来たんだ。ラーベは弱くても、カルミナは強い。
それに、カルミナとラーベ、どちらがどちらか見破ったのは、いつだって父さまだけだった。
今、父さまはここにいない。わたしがカルミナだと名乗ってもラーベだと見破るひとはいない。
だから、わたしはラーベじゃなくてカルミナなのだ。ラーベにできなくても、カルミナならできる。
カルミナはふらふらと立ち上がり、ベッドの下に置いた荷物を引っ張り出した。
武器と、暗器と、薬と……手持ちの道具を並べて順番に点検していく。
ひとつひとつ磨き、身につけて……以前、仕事の前に必ず行っていた手順で準備をしていく。
必要な魔法を頭の中でさらい、イグナーツの滞在する部屋の中を思い浮かべ、手順を整理する。
彼は手練の剣士なのだ。それも、恐ろしく勘の良い。
正面からでは自分に勝ち目はない。
どうすればいい?
終わらせるために、どうすればいい?





