東の森
「紅瑠石ッ! そっち行ったわよッ!」
「……分かってるし」
木洩れ日差す 東の森の一角。
シャリオ草の群落の前に立ち 闇エルフの美女は小さく呟く。
右手には 抜き身の片刃刀。
左手は 褐色の美貌の前で印を組む。
そのスラリとした立ち姿に向かって猛然と突進する オスの牙猪。
「――――rh――fyl―ghur――」
聞き取れぬような微かな声で咒を唱え 精霊を揺り動かす白銀色の巻き髪。
その呼び掛けに応えるように 紅瑠石の周囲の影の黒が色濃くなり その姿が仄かに揺らぐ。
その瞬間 細身のエルフの10倍近い重さのありそうな巨体が その身に激突し 突き抜ける。
闇エルフがいた木立の空間を駆け抜けた牙猪は 10歩ほど進んだかと思うと 地響きを立てて木々の根元へと倒れ込む。
ひ弱なエルフを吹き飛ばしたと信じていた巨獣は ついに真実に気づくことはなかっただろう。
自慢の牙が捉えたのが 闇の精霊が作り出した紅瑠石の残像だったことに。
そして 駆け抜けたその刹那 闇エルフの片刃刀が自らの頸動脈を切り裂いていたことに。
「ありがと 紅瑠石」
「……いや まぁ こんなもんやろ。けど なんで 春やのに こんなに気が立っとんやろ?」
「かなりデッカいけど 若いオスね……」
倒れた牙猪の傍に寄り 手に持った長杖で つついてマリノアが検分する。
その時 紅瑠石の長耳が微かな風斬りの音を捉えた。
と同時に 水碧髪の薬師に警告を飛ばす。
「マリノアッ! 上ッ!」
とっさに 左前方へと転がり 自らの上に覆い被さるように落ちてきた真っ黒い影から 身を避わす マリノア。
二擊三擊と白い羽毛を散らして 追撃する猛禽。
体勢を崩しながらも 寸でのところで 回避する。
鎌のような鉤爪で薬師を追い詰める白い猛禽の後ろ半身は 茶褐色の猛獣……大鷲の前身と獅子の後身。
「なっ なんで こんな所に翼鷲獅おんねんッ!?」
牙猪よりも更に大型で獰猛な幻獣からの攻撃を木杖で かろうじて逸らすが 水碧色の髪が鋭い爪に千切れ飛ぶ。
「……ひぇッ じょっ 冗談でしょ? こんなの聞いてないしッ」
海碧色の瞳を攣らせ なんとか立ち上がろうとするが 上からの重い攻撃に 傷を負わないように防ぐので精一杯。
――――クキーーッッッ――――
大鷲の鉤爪が マリノアの杖を抑えつけることに成功する。
尖った嘴が 無防備になった細い頚に向けて振り下ろされる。
――クゲッッ!?――
白い喉笛が 喰い破られそうになる その寸前 翼鷲獅の嘴から 悲鳴のような叫びが洩れ 攻撃が止まる。
左翼の付け根に深々と刺さる手投げナイフ。
苦痛に顔を歪める翼獣の背中に掛かる声。
「おいッ ケダモンッ! そんな貧乳 喰うとこ無いで? そんなん相手してんと ウチに掛かってきぃや?」
見れば 太股に仕込んだホルダーから引き抜いた柳葉刀を構えた闇エルフの姿。
大声で挑発しながら 正確無比な動作で柳葉刀を放ち 1本目が刺さった直ぐ真横に2本目を突き立てる。
――――クゲーーーーッッ!――――
敵意を込めた視線を送る暗紅色の瞳に一撃を加えようと 幻獣は身を翻し飛び掛かろうとする。
その左翼に 更にもう1本 突き刺さる鋭い刃。
激昂した翼鷲獅は より危険と判断した 刃物を持ったエルフに対して 持てる力の限りを尽くして 襲い掛かる。
両の鉤爪と鋭い嘴を 次々と繰り出し 褐色肌をしたエルフを追い詰めていく。
「……誰が 貧乳よ。後で とっちめてやるんだから……」
翼鷲獅の注意が紅瑠石に向き 窮地を脱したマリノア。
ブツブツと呟き 肩から掛けたカバンを開きながら 立ち上がる。
調合済みの薬品瓶の封を切り 薬包紙に入った粉末を静かに投入し 軽く薬瓶を揺すって溶かしていく。
黄色がかった蛍光色にゆっくりと発光し始める薬品瓶。
薬師の視線の先では 大型の幻獣が 闇エルフに向かって猛攻を加えていた。
「やっぱ 片刃刀 1本やとキッツいわ……」
左側から襲い掛かる 鉤爪を避わし 右鉤爪による刺擊を片刃刀でいなす。
「ここまで 防戦一方やと ジリ貧やで……ッ っと」
上からの嘴の斬擊を 横っ跳びに回転するアクロバッテックな動作で回避する。
先程の牙猪戦の時に自らに掛けた〈影分身〉の効果も 程無く切れる。
そうなれば いよいよ闘いは厳しさを増す。
そのことは 視界の端に映る薬師も理解しているハズなのだが……。
「……こんなことやったら 家に〈細身の大太刀〉置いてくるんやなかったッ…わ」
護身用の片刃刀で 大爪の一撃を受け止めながらボヤく。
翼鷲獅の攻撃が徐々に 正確さを増してきている。
……いや。
回避効果が切れてきたと言うべきか。
もう一度 薬師に目をやってから 覚悟を決める。
「……fhe…lr……shy……」
左手で印を結び 精霊魔法の咒を唱えはじめる紅瑠石。
目を瞑り 一瞬の深い精神集中へ。
だが それを見逃す幻獣では無かった。
大きく身体を伸び上がらせ 必殺の一撃を白銀髪の脳天に向けて繰り出す……。
――ゴォォォォオオオッ――
勝利を確信した右半身が突如 爆炎に包まれる。
慌てふためき 身を捩る翼鷲獅目掛けて飛んでくる2つ目の薬品瓶。
拳大の薬品瓶が 幻獣の右肩に触れると同時に 炸裂し大型の魔物の右半身全てを包み込むほどの業火が吹き出す。
「ドンピシャや…。さすがはマリノア……gh…kh……」
暗紅色の瞳を薄く開き 左手で印を切って精霊への呼びかけを続ける闇エルフ。
火焔に包まれ のたうち回る翼鷲獅。
己の不利を悟り 炎に包まれたまま中空へ逃れようとする。
「逃がす訳には いかへん…。……sh…uylt。……悪いけど 仕舞いや…。……闇に滅せよ!〈奥義:鬼殺斬〉ッ!」
紅瑠石の姿は一陣の閃闇となり 世界の陰翳が反転する。
刹那の後の陽転。
白銀髪の姿が森に現れるのと 翼鷲獅の首が胴から落ちるのが同じタイミングだった……。
………。
……。
…。




