大牙
――――キィャャヤヤヤーーーッ――――
4度目の咆哮。
大牙は 激昂しながら渾身の爪撃を目の前に立つ艶橙髪をした人間のメスに振り下ろす。
だが その一撃は 女の構えた盾に阻まれ ダメージを与えることが出来ていない。
それどころか 攻撃しているのは大牙であるにも関わらず 後退しているのは 大牙の方なのだ。
攻撃する度に 背後の岩壁との距離が 縮まっていく。
その不可解で理不尽な事態に 大牙は 更に激昂し 更なる速度と力で爪撃を繰り出す。
自分より はるかに小さな人間のメスごとき 例え金属製の盾を持っていたとしても 装備ごと吹き飛ばされるのが道理なのだ……現に 今日まで そうなってきた。
だが 強靭な両の腕を豪快に振り回した攻撃は虚しく空を切り 女が右手に持つ金属の刃が 大牙の急所へと 迫りくる。
慌てて身を捩り 必死に避わす。
その姿を見て 人間は 小さく鼻を鳴らし 微かに笑う。
どう考えても不可解で理不尽な事態。
だが 大牙は知っていた人間どもが〈まやかし〉の術を使うことを。
だとしたら アイツらは 何をしているのだ?
――――キィャャヤヤヤーーーッ――――
5度目の咆哮。
〈まやかし〉を使っているであろう人間へ石を投げるように命じる雄叫び。
だが それに応えて飛来する筈の 無数の投石は 起こりはしない。
そもそも 大牙が人間共と対峙する平地を見下ろす岩場に現れる筈の群れのメス共や 年若いオス共が姿を見せないのだ。
この一帯の岩猩々のボスである大牙の招集に応じて集まって来ているのは 数頭の成長したオス達のみ。
その内の数頭が投石を行うが そんな疎らな攻撃では なかなか命中しないし たまに飛んだ命中弾も後列にいる人間共は 自ら持った杖や刃物で防いでしまう。
なんとなれば アイツらは まともに攻撃する気が無いのだ。
それどころか 大牙が人間のメスとの戦いで傷を負うことを望んでさえいるのだ……かつての自分がそうであったように。
3年ほど前 当時のボスが右腕を痛めた機会を捉え 大牙はボスに挑み その喉笛に自慢の牙を突き立て 現在の地位を奪い取った。
それ以来 1番最初にエサにありつく事で身体を更に大きくし 自らの力を誇示してきた。
最強のオスであること。
それが 岩猩々の世界に君臨する唯一無二の方法。
侵入してくる はぐれオスを血祭りに上げ 人間をはじめとする外敵に立ち向かい 群れの中から現れる不遜な挑戦者を叩きのめす。
それでこそ メス共を独占し子孫を残すことができる。
単純明快な掟。
だからこそ 群れの中の成獣になったオスの前で 弱みを見せることは 決して許されることでは無かった。
もしここで この人間のメスに遅れを取り 大牙の権威に傷が付くようなことがあれば 力を付けつつあるオス達は 大牙に歯向かい 挑んでくるだろう。
よしんば 一戦で敗れることは無いだろうが 傷を負う可能性は十分にある……その状況で 新たな挑戦者を迎え撃つことになるかも知れぬ。
――人間のメスの鋭い斬撃が 肩に生えた剛毛を散らすが 肉は切らせていない。
右腕を唸らせ 殴りつけるが またもや金属盾に阻まれる――
大牙の父親だったオスは そういった連戦の果てに満身創痍の状態で先代のボスに挑まれ力尽き 命を落とした。
そうして行われた メスを妊娠可能に戻す為の凄惨な嬰児殺し。
辛うじて乳離れしていた大牙は 生き延びることができたが 新ボスから日々行われた酷い仕打ちの数々。
だが 大牙は はぐれオスになることを選ばず 群れの中で チャンスを窺い続けた。
そして 訪れたボスの怪我と死闘と勝利。
もちろん 大牙も権力を握った時 同じことを行った。
つのる憎悪と敵意。
……若いオスで大牙を憎悪していない者などいないだろう。
だからこそ 最強のオスであることを誇示し続けねばならないのだ。
人間相手に苦戦している姿を他のオス共に見られていること自体に焦燥と恐怖を感じる。
――――キィィャャヤヤヤァァァーーーッ――――
大牙は 全身全霊を懸け絶叫し 目の前に立つ不快極まりない人間を排除すべく 自慢の巨大な剣歯で噛み掛かる。
――――キィィィィィン――――
鋭い高音。
走る激痛。
振るわれた刃が眼前を走り抜けたようだった。
そして 空中へと舞い上がる 白く鋭利な突起物。
それは ゆっくりと放物線を描き 最も軽装の人間のメスの手の中に収まった。
大牙の名前の由来。
権威と力の象徴である剣歯の内の1本。
右の牙が根元から 叩き折られ 失われたのだ。
その意味を理解した時 大牙は……いや 今や片牙と呼ぶべき岩猩々は 全身を硬直させ恐懼した。
反逆者共は 王の権威が失墜するのを眼前にし 片牙が築き上げてきた王国は 崩壊の瀬戸際にあった。
――――キィャャヤヤヤーーーッ――――
片牙は ある若いオスの激しい咆哮を耳にする。
崩壊の瀬戸際などでは無かった……もう 既に【王殺し】が 始まっているのだ。
だが ここで死ぬ訳にはいかなかった。
今 ここで自分が命を落とすようなことがあれば 幼い息子や娘 乳飲み子達は無残な死を迎えるだろう。
どんな手段を使ってでも 王の地位を守り 生き延びねばならぬ。
片牙は 人間のメス共に背中を見せて 岩壁に飛び付くと 勢いよく登りはじめる。
無様だろうが 何だろうが 自分にとって一番有利な場所で挑戦者達を 迎えなければならぬ。
まずは 人間共を撒き 湖の傍の〈黄金の枝〉と呼ばれる岩場を目指す。
彼処なら そうそう遅れを取ることは無い筈。
自分に苦杯を嘗めさせた人間共に 復讐するのは その後だ。
まずは 反逆者共に 身の程を教えること。
それが先決だ……。
………。
……。
…。




