左派リバタリアニズムをリバタリアニズムに含めるのが妥当な理由について
現代ではリバタリアニズム左派をリバタリアニズムに含めるべきではないとする主張が目立つ。しかし私はリバタリアニズム左派をリバタリアニズムに加えることに好意的だ。この文章では、リバタリアニズム左派とリバタリアニズム右派の違いと共通点について述べようと思う。
まず、多くのリバタリアンは右派リバタリアンも左派リバタリアンもジョンロックの思想を参考にしている。そのジョンロックは、市民政府二論(1690)において、自然物に労働を加えて商品を作ることで作られた商品を作った人が商品の所有権を主張できると主張した。この考え方こそが労働所有論である。ただしジョンロックによると、個人の所有権が成立するためにはその所有物に労働が加えられていることのほかにいくつかの条件を満たさなければならない。その条件のことをジョンロックの但し書きという。
ジョンロックの但し書きには二つの条件がある。一つ目の条件は、共有物を私有化しても、他者が同様に十分に、かつ良質なものを手に入れる機会が残されていなければならない、とする条件である。二つ目の条件は、私有化したものを浪費したり、腐らせたりしてはならない、とする条件である。このジョンロックの但し書きは、もともとは共有物の私有化を正当化するためのものだった。
右派リバタリアニズムは、ジョン・ロック的な自己所有権の伝統を継承しつつ、20世紀にはロバート・ノージックのアナーキー・国家・ユートピア(1974)によって広く知られるようになった、自己所有権を重視する自由主義的な発想に基づく思想である。その基盤は、個人の自由と権利を絶対的な原則として擁護する点にある。この思想は、国家のいかなる権力も、個人の自由を侵害してはならないと考える。右派リバタリアンは、ジョンロックの但し書きに対して懐疑的、あるいは否定的な態度をとることが多い。ロバート・ノージック(1974)は、財産権を取得の正義と移転の正義に基づき正当化しつつ、ジョンロックの但し書きの適用可能性に対しては懐疑的だった。彼らは、個人の財産権を絶対的なものとみなし、但し書きがその権利を制限すると考える。すなわち、右派リバタリアンは、ジョンロックの但し書きを現代社会に適用することは不可能であり、個人の財産権を不当に制限するものと見なす。右派リバタリアンにとって、人が労働によって得た財産は、いかなる条件も付けられない絶対的なものだ。但し書きを適用すれば、土地や資源が私有化されるたびに、それが他者の機会を奪っていないかを証明する必要が生じ、財産権の安定性が損なわれると考える。彼らは、地球上のすべての土地や資源がすでに私有化されている現代において、但し書きの第一条件(他者のために十分に、かつ良質なものが残されていること)を満たすことは不可能だと主張する。したがって、右派リバタリアンは、この但し書きは、現代社会においては無効な論理であると見なしている。彼らは、慈善活動やボランティアのような自発的な行為は容認するが、国家による強制的な再分配には強く反対する。実際、米国のリバタリアン党は、社会保障制度の縮小や税制の最小化を訴えており、再分配を最小限に抑える立場を取っている。したがって、右派リバタリアンは、ジョンロックの但し書きを、彼らが最も重要視する絶対的な財産権の原則と矛盾するものとして、ほとんど受け入れない。
20世紀には、しばしばリバタリアニズムとオーストリア学派の経済学(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・ハイエクら)とが関連づけられて語られることがある。しかし両者は区別されるべきである。オーストリア学派は、価格シグナルや知識分散といった市場メカニズムの優越性を理論的に解明し、規制緩和や小さな政府を支持した。その意味では古典的自由主義や新自由主義の系譜に連なる。一方、リバタリアニズムは経済効率の議論ではなく、あくまで自己所有権や絶対的財産権といった権利論を出発点とする政治哲学である。したがって、両者は重なる領域を持ちながらも思想的基盤を異にしている。例外的に、マレー・ロスバードのようにオーストリア学派の経済理論とアナーコ・キャピタリズムを結合させた人物もいるが、ミーゼスやハイエクのような経済理論中心の学者はリバタリアニズムそのものに含めるべきではない。
一方で、1970年代以降、ヒレル・スタイナーやピーター・ヴァレントライン、フィリップ・ヴァン・パリースらによって左派リバタリアニズムが理論化された。彼らはジョンロックの但し書きを再解釈し、資源配分の不平等を是正するための再分配を主張した。左派リバタリアンは、ジョンロックの但し書きを現代社会に適用し、現在の富裕層は、他者が十分な富を得る機会を奪っていると主張している。彼らは、地球上の資源や土地は人類全体の共有物であり、少数の人々が膨大な富を独占することは、但し書きの第一の条件に違反すると考える。したがって左派リバタリアンにとって再分配政策は正義に適うものとされる。左派リバタリアニズムの政策的具現化には多様な形がある。よく知られる左派リバタリアンの思想を体現する政策例はアラスカ州が1976年から実施しているアラスカ永久基金配当という、資源収益を住民全員に均等に分配する制度だが、これだけを代表例とするのは不十分である。たとえばヒレル・スタイナーやピーター・ヴァレントラインは、自然資源の分配に関して資源利用から得られる利益は平等に分配されるべきだと主張して資源利用税構想を作っている。ヘンリー・ジョージの思想をリバタリアン的に継承したジオリバタリアンの土地価値税という構想もある。さらに、フィリップ・ヴァン・パリースは現実的自由の保障のための無条件所得の観点から、ユニバーサル・ベーシック・インカムを擁護している。これらはいずれもロックの但し書きを拡張的に解釈し、資源や富の集中が他者の自由を阻害しているなら、補償が必要だとする立場に基づいている。したがって左派リバタリアニズムは単なる再分配重視ではなく、幅広い平等主義的試みの集合体と捉えるべきである。右派リバタリアンは、強制的な再分配を個人の財産権への侵害と見なすのに対し、左派リバタリアンが但し書きを根拠に富の再分配を正当化する。この潮流には平等主義的リバタリアニズム、ジオリバタリアニズム(土地・資源課税)、アナルコ・サンディカリズムなど多様な形態が含まれる。
右派リバタリアンは但し書きを拒否し、絶対的財産権の安定性を守ることを優先する。これは、個人が正当に取得した財産をいかなる条件付きでも制限できないとする考え方であり、国家による強制的再分配はこの原理に反するとされる。ノージックにとって正義とは取得の正義と移転の正義に尽き、分配のパターンを国家が操作することは不当である。
これに対し左派リバタリアンが重視するのは「実質的自由(real freedom)」である。ヴァン・パリースによれば、形式的自由(何をしてもよいという権利)があっても、資源や所得を欠いた人は実際には選択肢を行使できない。したがって最低限の所得保障を制度化することで、形式的自由を実質的に保障できると考える。ここに「市場と再分配の組み合わせ」の理論的根拠がある。
この違いは深刻な対立を生み、互いに批判を向け合う。右派リバタリアンから見れば左派リバタリアンは平等主義に傾斜しすぎ、財産権を侵害する危険を孕む。逆に左派リバタリアンから見れば右派リバタリアンは不平等を容認し、貧者にとって空虚な自由しか残さない。しかし、こうした批判の応酬は自由の本質をめぐる理論的実験として意義を持つ。
しかしこうした違いにもかかわらず、左派リバタリアンと右派リバタリアンは重要な共通点を持っている。リバタリアンは、ジョンロックの思想をもとにして自身の思想を作っており、また自己所有権という概念を最も重要な価値として共有している。これは、誰もが自分の身体、労働、そしてその労働の成果を所有する権利を持つという考えだ。この権利は、他者や国家からの侵害に対して絶対的であると見なされる。この共通原理に基づき、リバタリアンは以下のような点で共通している。
第一に、リバタリアンにとって最上位の価値は自己所有権およびそこに含まれる思想・良心の自由であり、経済的自由はその派生的価値に過ぎない。右派リバタリアンも左派リバタリアンも国家が個人の思想・良心に介入することに等しく反対し、思想統制や言論弾圧、宗教的自由への侵害には一致して反対する。
第二に、リバタリアンは、国家が個人の自由を侵害する最大の脅威であると考える。そのため、政府の権力を最小限に抑えることを目指し、国家による強制的な徴兵や、個人の行動に対する不必要な規制に反対する。
第三に、リバタリアンは、個人の自由な選択と取引を尊重する市場経済を重視する。政府の介入や規制が経済活動を歪め、個人の自由を奪うと考え、原則として自由市場を擁護する。ただし、右派リバタリアンは市場をほぼ放任する一方で、左派リバタリアンは市場と再分配を組み合わせる必要性を強調する
第四に、リバタリアンは、政府による監視を、個人のプライバシーと自由に対する直接的な侵害と見なす。彼らにとって、監視技術の導入や警察権限の強化といった政府の介入は、個人の自由という究極的な価値を根底から否定するものだ。故に彼らにとって、国家による監視や警察権限の強化は治安維持という功利的目的のためであっても許されない。例えば、米国で行われたスノーデン事件(2013年)は、政府による監視が自由を侵害する典型例としてリバタリアン双方から批判を受けた。
つまりリバタリアンは経済活動の自由に対する態度に違いがあるだけで、個人の自由そのものに対しては共通の姿勢を持つ。リバタリアン右派の財産権絶対主義も、リバタリアン左派の実質的自由の補償および再分配政策も、ともに個人が自由に生きる条件を整えるという同一目的のための異なる手段である。したがって私は、リバタリアニズム左派とリバタリアニズム右派を広義のリバタリアニズムとして共に理解する立場をとる。両者の対立は自由の内実をめぐる豊かな思想的実験であり、現代社会においても重要な意義を持つ。




