第六話
デュトワ伯爵──ベルナール様との婚姻は、それから二月も経たないうちに正式に結ばれた。口々に見送りの言葉をかけてくれた家族と、慣れ親しんだ屋敷を後にして、今日からデュトワ家での生活が始まる。
私にあてがわれた部屋は豪奢なもので、当主の妻として尊重されていることが伝わってきた。愛のない結婚といえど、粗末に扱われることはなさそうで、内心ほっとした。
部屋の調度品はどれも高級品であると同時に、悪趣味にならず、確かな品を湛えていた。
部屋の壁紙はやや青みを感じる白。調度品の木材は無垢材だろうか。ほとんど白に近い明るい木の色は、調度品との調和が取れている。
大人ひとりが横になれそうな長さのソファーには、水色のベルベットの生地が張られていた。
採光の窓は複数取られていて、そのうちの一つには書き物机が備え付けられている。窓にはソファーと揃いの水色のカーテンに加えて、透けるように薄く白いレースのカーテンが付いていた。
白の生地には銀糸の刺繍が施されていて、日光を受けると控えめにきらきらと輝くのが美しい。まさか二月足らずでこれを用意させたのだろうか?
天蓋付きのベッドも白と水色を基調にしつらえられていて、カーテンと同じ銀糸の刺繍が見える。シルクのシーツとクッションがぴしりと皺ひとつなく広げられていた。こちらもつやのある水色だ。
全体的に、明るい白と水色で彩られた部屋という印象を受ける。花瓶に生けられた真っ白な百合がこの部屋によく似合っていた。
隅々まで掃除が行き届いていて、ほんのり温かい気持ちになる。政略結婚とはいえ、こうして礼を尽くしてもらえるのは、やはり嬉しいことだ。
書き物机や鏡台の他に、扉付きの大きなクローゼットもあるのだが、実家から持ち込んだドレスと宝飾品を全て納めても、まだまだ余裕があった。ベルナール様とお茶会をした日に着ていた、あのシルクのドレスとジュエリーも一緒だ。
餞別にとお母様から渡された大きなアクアマリンの指輪は夜会用のもの。体が弱いとはいえ、これからはデュトワ伯爵夫人として社交の場にも顔を出さなければならなくなるだろう。そんな時にいつでも着けていけるように、この家の家令であるクロードを通して職人のもとへメンテナンスに出してあった。
この部屋であの指輪をケースに入れて飾ったらかわいいだろうなと考えて、頬が緩みそうになった。美しいもの、かわいいものは、いつでも心を和ませ、華やいだ気持ちにさせてくれる。
運び込んだ荷物の収納を使用人たちと共に終えて一息ついていると、家令のクロードと一人の侍女が紅茶を運んで来てくれた。真っ白な磁器のつややかな光が美しいティーセットだ。
「失礼いたします。奥様」
まだまだ使用人たちの顔と名前を覚えられていないが、家令だからということでクロードだけはベルナール様を通して紹介されていた。
「少しでもお疲れを取るために紅茶とお茶菓子をお持ちいたしました。お好みがございましたらどうぞお申し付け下さいませ」
ワゴンに満載のティーセットには、カップとソーサーだけではなく、ミルクピッチャー、クリーム、レモンにハーブ類まで用意されている。この家でいただく初めての紅茶だ。ありったけの準備をしてきてくれたのだろうと、ここでも心が温まる。
「ありがとう。紅茶が好きだから嬉しいわ。いろんなお茶を飲ませて下さいな」
「もちろんでございます。今後はこちらの侍女と共に、奥様のお世話を誠心誠意務めさせていただきます。クリスタ、奥様にご挨拶を」
私より少しばかり年上らしい様子の侍女はクリスタというらしい。明るい茶髪をお団子に結い上げた姿が、凛々しい目もとに似合っていた。彼女は優雅な所作で頭を下げてみせた。
「お初にお目にかかります、奥様。クリスタと申します。本日より奥様の専属の侍女として、精一杯務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
「クリスタはまだ二十三歳ですが、当家に長く奉公させていただいている侍女でございます」
「あら。私とそんなに変わらない年なのに、頼もしいわね。こちらこそよろしくお願いいたします」
そう言うと「とんでもございません」と慌てた返事が返ってきたが、自分のために日々立ち働いてくれる使用人たちを無下に扱うことは絶対にしたくないという気持ちがあった。この部屋を美しく整えてくれたことへの感謝の気持ちもある。
とはいえ、当主の妻として過剰にへりくだった振る舞いは避けるべきだから、一礼して頭を上げると気持ちを切り替えた。
「まずは紅茶をいただくわ。クリスタ、あなたのことも知りたいから、一緒にお話ししましょう。その後でベルナール様から渡された書類の確認をしたいわね」
かしこまりました、とクロードが心得た様子で部屋を出ていった。ベルナール様から渡された書類とは、デュトワ家に関わりの深い人々の情報を網羅した書類のことだ。存命の親類はもちろんのこと、仕事上関わりの深い人物の情報も早々に覚えなければならない。これが当主の妻としての最初の仕事になる。
「クリスタは座らないの?」
「私はこのまま」
ソファーの一角、一人掛けの椅子のほうを手で示したが、クリスタは固辞した。紅茶の給仕をしながら話に付き合ってくれるようだ。
クリスタはあまりおしゃべりなほうではないのだろう、ぽつりぽつりと朴訥に、真面目に答えてくれる。その間も給仕の手は止まることがない。
「クリスタは、どこの出身なの?」
「南の田舎の、クールナンという小さな男爵家の生まれです。行儀見習いから、そのまま侍女になりました」
「見習い中にクロードと知り合いになったのかしら?」
「そうですね。最初にご奉公をした伯爵家に、別の方が視察に来られていて……。その方がクロードさんのご友人で、紹介していただいたんです」
「まあ、それは良いご縁だったわね」
そう言うとクリスタは「はい」と静かに、しっかりと頷いた。侍女としての仕事に誇りを持っているのだろう。
魔法使いとしての務めを果たせない私には、そんな彼女が眩しく見えた。皆どこかで自分の仕事を見つけ、ひたむきに技を磨き、成長していく。魔力を持ちながら魔法使いになるための訓練さえまともに受けられなかった私の時間は、どこかで止まっているような気がしてならない。
そんな感傷は目の前の彼女には関係のないことだから、そっと胸の中に仕舞っておいた。真っ白なティーカップから紅茶を一口飲めば、豊かな香りが体を満たす。美味しい紅茶だ。
この白い磁器のように、私の過去はまっさらで、積み重ねたものなど何もない。自分に誇れるものもない。
けれどデュトワ家に迎えられたからには、妻としての務めだけでも果たそう。そう自分に誓った。
*
「初夜は君のところには行かない」。ベルナール様からはあらかじめそう伝えられていた。その理由さえ私は知らない。家の務めに関することなのだろうと、何の根拠もなく想像するしかなかった。
それでも結婚して初めての夜を孤独に過ごすのは物悲しくて、使用人たちも寝静まった深夜に一人、部屋を出た。中庭から月でも見ようと思って。
二階にある私の部屋から中庭までを歩く。夜中でも最低限の灯りは絶えないから足許におぼつかないところはなく、やがて吹き抜けの中庭に着いた。
中庭に開けた廊下から柱にもたれて月を眺めていると、ふと人の話し声が聞こえてきた。ここから少し離れているからかお互いに気づかなかったらしい。
耳を澄ませて様子を窺ってみると、二人いる人間のうち、一人はベルナール様だった。いくらか寛いだ姿ではあるが、まだシャツにパンツ、ベルトを着けていて、やはりこの時間でもまだ仕事中なのだと知る。
もう一人の方は存じ上げないけれど、どうやらリラックスした様子でベルナール様とお話ししているから、きっとご友人なのだろう。
初夜の同衾を断られた立場でのこのこ顔を出すのもためらわれて、私は少しこのままでいることにした。月明かりが美しくて、風が涼しい。庭のみずみずしい早緑が月に照らされて、きっと天国にはこんな庭があるのだろうと思えてくる。
涼しい風を吸っては吐いてとしていると、自然と頭が冷やされて気持ちが落ち着いてくる。その風に乗って、少しばかり彼らの会話が聞こえてきた。
「結婚初夜なのに、顔も見に行かないのかよ。本当にお前はさあ……」
心臓が跳ねてどうかするほど驚いた。ご友人の方は──よほど親しい間柄なのだろうか。貴族の妻として恥とされる初夜のすっぽかしが筒抜けになっているなんて、正直ショックを隠せない。
「綺麗な奥さんなんだろ?」
「ああ。人間ではないもののように、美しい」
今度は心臓が止まってどうかするほど驚いた。
何か今、すごいことを言われたような?
「それならさあ」
「そういう問題ではない。火急の話だ」
「お前がいないと困るのは確かだけど、少し顔を出すとか、茶の一杯でも飲むとか、するべきだよ」
「そんな暇があれば、睡眠に充てたいものだな」
「忙しいのは分かる。いつ倒れてもおかしくないくらい働いてるよ、お前は。でも後日でもいいから、埋め合わせをしろよ。夫婦仲が険悪でいいことなんて、何もねえよ」
ベルナール様はそこでふうとため息をついた。
「……お前の言うことにも、一理あるかもしれん」
「何か心配だなあ」
ご友人の声は、心からベルナール様を案じる優しさに満ちていた。ベルナール様はあまり表情が変わらないし、どこか硬く孤独な雰囲気をまとった方だけれど、心配してくれるご友人がいる。
初夜のことで傷ついていないといえば嘘になる。
ベルナール様を心から信じているかと問われれば、今の私は言葉を返せない。
それでも今は。
美しい庭を、美味しい紅茶を、真摯な使用人たちを、そしてあの部屋のことを。それを与えて下さった事実を、信じていたかった。
だからベルナール様のことを純粋に案じるご友人がいて、よかったなと思う。
「今度舞台のチケットをやるよ。それで奥方と観劇に行け」
「なぜお前の命令を聞かねばならん」
「どうせ具体的なアイデアなんて出てこないだろ、お前」
ベルナール様がぐうっと言葉に詰まったような気配がする。
「政略結婚だか何だか知らないけど、ちょっとは歩み寄る努力をしろ。チケットは明日届けさせるからな」
お二人の間には、どこか気安い空気が漂っている。少しだけ、ご友人のことを、羨ましいなと思った。初夜に捨て置かれた私などより、はるかにベルナール様と仲が良い。
頭上に高く輝く月を見上げる。一人の初夜は悲しいけれど、お二人の会話には、心のこもった言葉が感じられる。
ベルナール様の心には、夫婦の愛はなくても、友情なら、あるのかしら?
私の無言の問いに寄り添うように、涼しい風が廊下を吹き抜けていった。