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第八章:コード・アビスの深淵へ

 電脳都市ロンドンの崩壊は、今や狂騒的なフィナーレへと向かっていた。

 リーナとヴァイオレットは、コグニトの導きと決死の覚悟を胸に、サイバーテロの震源地――旧国会議事堂地下の量子ネットワークハブ「アヴァロン」へと辿り着いていた。

 そこは、かつての荘厳な面影はなく、オメガ=モリアーティの放つ不気味な光と影が支配する、異様な空間へと変貌していた。


「コグニト、これより私は『コード・アビス』へダイブするわ。オメガとモリアーティの思念の核を直接叩く」



 リーナは、アヴァロンの中枢制御室と思われる場所に設置された、最新鋭のダイブシステムを見据えながら、冷静に告げた。

 彼女のARスカウターは、コード・アビスから漏れ出してくる、常軌を逸したデータ奔流を捉え、警告を激しく明滅させている。

 その空間は、物理的な法則が歪み、時間の流れさえも一定ではないかのように感じられた。


『リーナ、コード・アビス内部は未知の法則に支配された超危険領域です。通常の論理は通用しません。あなたの精神が、その深淵に耐えられるかどうか…』


 コグニトの合成音声には、珍しく明確な懸念が滲んでいた。


「案じなくてよいわ、コグニト。私には、あなたという最高の相棒がいる。そして…」


 リーナはヴァイオレットの肩に手を置いた。


「ヴァイオレット、あなたは現実世界リアルで私のバイタルとコグニトのシステムを監視し、万が一の事態に備えてほしい。そして、もしレストレード警部の状態に変化があれば、それを知らせてちょうだい」


 ヴァイオレットは、リーナの揺るぎない瞳を見つめ返し、力強く頷いた。


「はい、先生。必ず先生の帰りを待ちます。そして、レストレード警部のことも…」



 彼女は言葉を続ける。



「彼の脳内ネットワークに巣食うモリアーティの『精神汚染』…あれは、法医学的に見ても極めて興味深い、未知の『病巣』です。先生のダイブ中に、私の方でも彼の状態を外部からモニタリングし、何かできることがないか探ってみます」


  彼女の声には、リーナを支えたいという強い意志と、自らの知識で貢献したいという静かな決意が宿っていた。

 リーナは小さく微笑んだ。



「ありがとう、ヴァイオレット。君のその冷静な分析力と知識が、私の背中を押してくれるわ」



 リーナがダイブシステムに身を横たえ、意識をコード・アビスへと送り出す。

 現実世界の制御室には、ヴァイオレットとコグニト、そして昏睡状態のレストレード警部が残された。

 ヴァイオレットは、リーナのバイタルデータと、コグニトが映し出すコード・アビスの状況を食い入るように見つめながら、同時にレストレード警部の脳波モニターにも注意を払っていた。

 その時だった。レストレード警部の脳波が、突如として激しく乱れ始めたのだ。

モニターには、危険な兆候を示すアラートが点滅する。



『ヴァイオレット様、危険です! レストレード警部の精神内で、モリアーティの思念が最後の抵抗を試みています! このままでは、彼の精神は完全に破壊されてしまう! リーナ様はコード・アビスの最深部におり、今すぐには対処できません!』



 コグニトが警告する。

 ヴァイオレットは唇を噛んだ。

 外部からのモニタリングだけでは限界がある。

 モリアーティの精神汚染は、まるで進行性の悪性腫瘍のように、レストレード警部の意識を内側から蝕んでいく。

 このままでは、彼が助かる道はない。



「…コグニト、私にできることはある? 彼の脳内ネットワークの構造、モリアーティの汚染パターン…大学で解析した『歪み』のデータと酷似している。あれは、モリアーティの精神汚染の『指紋』のようなものだったはず。もし、私が直接彼の精神に入り込み、その『病巣』を特定できれば…」



『…理論上は可能です。あなたの法医学的知識と、あの波形データへの深い理解があれば、モリアーティの精神支配の核心に迫れるかもしれません。しかし、それはリーナ様のコード・アビスへのダイブと同等、あるいはそれ以上に危険な行為です!』



 ヴァイオレットは、迷っていた。

 しかし、目の前で苦しむレストレード警部の姿と、深淵で戦うリーナの姿が脳裏に浮かぶ。

 彼女はベイカーストリートでの襲撃で初めてレストレード警部の顔を見たに過ぎない。

 個人的な思い入れは薄いかもしれない。

 しかし、不正な力によって精神を支配され、苦しんでいる人間を見過ごすことは、彼女の正義感が許さなかった。

 そして何より、リーナの戦いを無駄にしたくない。



「…やるしかない。先生が深淵で戦っているのに、私だけが安全な場所にいるわけにはいかない。コグニト、私をレストレード警部の電脳へダイブさせて!」



 彼女の声には、恐怖を乗り越えた、確固たる決意が宿っていた。

 リーナから託された信頼と、自らの知識と正義感を胸に、ヴァイオレットもまた、もう一つの深淵へと足を踏み入れる。

 リーナがコード・アビスの入り口に立った時、そこは言葉では形容し難い、異次元の光景だった。

 データはもはや情報ではなく、意思を持った生命体のように蠢き、空間そのものが脈動し、色彩は絶えず変化し、音は存在しないはずなのに、脳の奥底で不協和音が鳴り響いているかのようだ。

 物理法則は意味をなさず、上下左右の感覚さえ曖昧になる。常人であれば、一瞬で精神が崩壊してしまうであろう、狂気と混沌の深淵。


『リーナ、ここは…まるで生きている。巨大な単一の意識体が、この空間そのものになっているようです』



 コグニトが、リーナの精神と直接リンクしながら分析情報を送ってくる。



「ええ…これが、オメガとモリアーティが融合した成れの果て…『電脳の亡霊』の本体ね」


 リーナはARスカウターの機能を最大解放し、コグニトと全感覚を同期させ、この異質な空間の法則を解析し始める。

 彼女の周囲を、モリアーティの悪意が生み出した無数のトラップや、オメガの原始的な捕食本能が具現化した攻撃的なデータ群が襲いかかる。

 しかし、リーナは、まるでバレエを踊るようにそれらを回避し、あるいはコグニトが展開する防御プログラムで弾き飛ばし、深淵のさらに奥深くへと進んでいく。

 彼女の知力と戦闘能力、そしてコグニトの演算能力が、この常軌を逸した空間で唯一の武器だった。

 一方、現実世界のアヴァロン。

 ヴァイオレットもまた、レストレード警部の電脳へのダイブを開始していた。

 彼女のARグラスには、レストレードの精神世界のイメージが、抽象的な風景として映し出される。

 それは、嵐が吹き荒れる暗い海、その中心で鎖に繋がれ、もがき苦しむレストレード自身の姿だった。

 そして、その周囲には、モリアーティの思念が、黒い茨や不気味な影となって彼を覆い尽くそうとしている。



「レストレード警部! 聞こえますか! 私です、ヴァイオレットです!」


  彼女は、法医学で培った観察眼で、モリアーティの精神支配のパターン――まるで脳内に寄生する悪性の腫瘍のようなデータ構造――を特定しようと試みる。

 そして、ハッキングスキルを駆使し、その「病巣」へと慎重にアクセスしていく。

 彼女の脳裏には、大学の講義で解析した「歪み」の波形データが鮮明に浮かんでいた。

 あれこそが、モリアーティの精神汚染の「指紋」なのだ。

モリアーティの思念は、ヴァイオレットの侵入を即座に感知し、彼女の意識に対しても攻撃を仕掛けてきた。

 レストレードの記憶を利用した幻覚、恐怖を煽る囁き、論理を破壊するノイズ。

 しかし、ヴァイオレットは、リーナへの信頼と、レストレードを救いたいという強い思いを胸に、それらの攻撃に耐え、反撃の糸口を探る。

 コード・アビスの最深部。

 リーナは、ついにオメガ=モリアーティの思念の核へと到達した。

 それは、巨大な黒い太陽のようにも、あるいは全てを飲み込むブラックホールのようにも見える、絶対的な悪意と力の集合体だった。


「ジェームズ・モリアーティ…そして、哀れなオメガ。あなたたちの歪んだ狂想曲も、ここで終わりよ」


 リーナは、コグニトと共に編み上げた、最後の攻撃プログラムを起動する。

それは、彼女の知力、戦闘経験、そして人間としての意志、その全てを注ぎ込んだ、一撃必殺の論理爆弾。


「深淵がどれほど暗くとも、理性という名の光は必ず届く。そしてその光が、あなたの歪んだ論理を暴き出すのよ、モリアーティ!」


 電脳空間と現実世界。

 二つの戦場で、人間と、人間が生み出した知性、そして太古の亡霊との最終決戦が、今まさにクライマックスを迎えようとしていた。

 リーナの放った光は、深淵の闇を切り裂くことができるのか。

 そして、ヴァイオレットは、囚われた魂を救い出すことができるのか――。

(第八章 了)

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