第七章:電脳都市崩壊の序曲
先のレストレード警部との息詰まる対峙と、彼の内なる葛藤を目の当たりにしたリーナとヴァイオレット。
しかし、彼らが安堵する間もなく、電脳都市ロンドンは、かつてない規模の悪夢に包まれようとしていた。
空は、不気味なデジタルノイズに覆われ、まるで巨大なディスプレイが故障したかのように明滅を繰り返している。
街中のホログラム広告は、突如として奇怪な幾何学模様や、モリアーティの嘲笑うかのような歪んだ顔へと変化し、人々の脳内ネットワークに直接、不快なノイズと恐怖を送り込み始めた。
テムズ川の水面は、その異常な光景を映し出し、まるで都市全体が悪意に染まった悪夢の光景のように揺らめいていた。
『リーナ、これは…! オメガとモリアーティの思念が完全に同期し、都市インフラの中枢システムへの総攻撃を開始しました!』
コグニトの合成音声が、かつてないほどの切迫感をもってリーナのARスカウターに響く。
その声は、まるで断末魔の叫びのようだ。
次の瞬間、ロンドンの象徴であるビッグベンの鐘の音が、けたたましい不協和音へと変わり、都市全体に響き渡った。
それを皮切りに、悪夢は現実のものとなる。
信号機は一斉に赤と青の乱雑な点滅を繰り返し、自動運転車は制御を失って暴走、衝突音と悲鳴が街のあちこちで木霊する。
高層ビル群の照明が次々と消え、あるいは異常なパターンで明滅し、都市はまるで 巨大な痙攣を起こしているかのようだ。
通信ネットワークは完全に麻痺し、人々のARグラスは意味不明なエラーメッセージを表示するばかり。
脳内ネットワークもまた、モリアーティの悪意あるデータによって汚染され、人々はパニックに陥り、街路を右往左往している。
エネルギー供給システムもダウンし、都市は急速にその生命活動を停止させていく。
光と影のコントラストが、かつてないほど極端に都市を彩り、まるで終末世界の様相を呈していた。
「なんてこと…これが、奴らの狙いだったのね…!」
リーナは、崩壊していく都市の光景を、テムズ川沿いの古いビルの屋上から見下ろしていた。
彼女のARスカウターには、コグニトが必死に収集する都市の被害状況が、赤い警告と共にリアルタイムで表示されていく。
その瞳には、怒りと無力感、そしてそれを超えた冷徹な決意が宿っていた。
「先生…ロンドンが…ロンドンが壊れていく…」
ヴァイオレットは、目の前で繰り広げられる地獄絵図に言葉を失い、震える声で呟いた。
彼女の頬を、冷たい雨とは異なる、熱いものが伝う。それは、恐怖か、悲しみか、あるいはその両方か。
『オメガ=モリアーティは、都市の混乱を最大限に増幅させ、人々の恐怖と絶望をエネルギーとして、さらに自己進化を加速させています。このままでは、数時間以内にロンドンの都市機能は完全に停止し、数十年単位での回復が必要となるほどの深刻なダメージを被るでしょう』
コグニトの分析は、絶望的な未来を告げていた。
「コグニト、奴らの攻撃のコアとなっているサーバー、あるいはネットワークノードを特定できる? このカオスを止めるには、大元を叩くしかないわ」
リーナの声は、周囲の喧騒とは対照的に、静かで、しかし鋼のような強さを秘めていた。
『…特定しました。ロンドン中心部、旧国会議事堂の地下深くに設置された、次世代量子ネットワークのメインハブ…コードネーム『アヴァロン』。そこが、オメガ=モリアーティの現在の物理的な『巣』であり、このサイバーテロの震源地です』
「アヴァロン…アーサー王伝説の理想郷の名を冠した場所が、今や悪夢の中心というわけね…皮肉なものだわ」
リーナは、ARスカウターにアヴァロンの三次元マップを投影させ、その複雑な構造を分析する。
そこは、物理的にも電脳的にも、鉄壁の要塞だった。
「ヴァイオレット、覚悟はいい?」
リーナは、隣で唇を噛み締めるヴァイオレットに向き直った。
「これから私たちは、崩壊しつつあるこの街を駆け抜け、地獄の釜の底へと飛び込むことになるわ。生きて帰れる保証はない。それでも…」
ヴァイオレットは、リーナの言葉を遮るように、力強く頷いた。
その瞳には、もはや恐怖の色はなく、師であるリーナと共に戦うという、揺るぎない決意が宿っていた。
「先生と一緒なら、どこへでも。この街を、そして人々を、あの悪魔の好きにはさせません!」
「ええ、そうね。悪夢には、必ず終わりがある。そして、その幕を引くのは、私たちよ」
リーナの口元に、不敵な笑みが浮かんだ。
それは、深淵に立ち向かう者の、孤高で美しい覚悟の表れだった。
二人は、崩壊の序曲が鳴り響く電脳都市ロンドンを、最後の希望の光を灯すべく駆け抜ける。
交通網は麻痺し、街は暴徒と化した人々や、制御を失った機械で溢れかえっている。
しかし、彼女たちは、コグニトのナビゲーションと、リーナの卓越したサバイバル能力、そしてヴァイオレットの機転と勇気を武器に、次々と障害を突破していく。
燃え盛るバスを飛び越え、パニックに陥った群衆をかき分け、ショートした電線が火花を散らす地下道を駆け抜ける。
その姿は、あらゆる危機を乗り越えてきた英雄譚の一場面を思わせ、スリリングでありながらも、どこか悲壮な美しさを湛えていた。
オメガとモリアーティの思念が支配する、崩壊寸前の電脳都市。
その中で、リーナとヴァイオレットは、人類の未来を賭けた戦いの最前線へと、その歩みを進めていくのだった。
(第七章 了)