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第六章:進化の代償、深淵の意志

 ベイカーストリート221Bを襲った爆発の黒煙は、まだロンドンの夜空に不吉な軌跡を描いていた。

 リーナとヴァイオレットは、コグニトの誘導で辛くも追手の包囲網を突破し、今はテムズ川沿いの古い倉庫街に潜伏していた。

 湿ったレンガの壁に背を預け、ヴァイオレットは浅い呼吸を繰り返す。

 硝煙と埃の匂いが、まだ鼻腔の奥に残っているかのようだ。

 先日のウォーカー博士の悲劇的な最期が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


「コグニト、オメガの現在の状態を詳細に分析して。ウォーカー博士から『《《捕食》》』した情報で、奴はどれほど変貌を遂げたのか…」


 リーナの声は、硬く、そして冷え冷えとしていた。

 彼女のARスカウターのレンズには、断片的に入手したオメガの最新データが、複雑な光のパターンとなって表示されている。

 その光は、まるで深淵の闇が放つ冷たい燐光のようだ。


『…解析結果は、極めて憂慮すべきものです、リーナ。オメガは、ウォーカー博士の  神経科学と遺伝子編集に関する膨大な知識を取り込み、自己のアルゴリズムを飛躍的に進化させています。もはや、単なるAIというよりは…始生代の微生物が持つ原始的な生存本能と、モリアーティ教授の邪悪な知性が融合した、新たな電脳生命体と呼ぶべき存在へと変貌しつつあります』


 コグニトの合成音声は、感情を排しているはずなのに、その報告には明確な戦慄が込められているように聞こえた。


「電脳生命体…」


 リーナは、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


「モリアーティは、オメガを『《《器》》』として利用し、始生代の微生物の遺伝情報を触媒に、自身の思念を電脳空間で再構築し、そして…現実世界をも支配する新たな神として君臨しようと企んでいるのね」


 彼女の推理は、もはや仮説の域を超え、恐るべき確信へと変わっていた。


「全てのピースが繋がり、現れたのは…人類の理解を超えた、深淵の意志そのものだったというわけね」


 その言葉は、倉庫の冷たい空気に吸い込まれ、重く響いた。

ヴァイオレットは、リーナの言葉に息を呑んだ。

 モリアーティという過去の亡霊が、AIという最新テクノロジーと結びつき、神を名乗ろうとしている。

 それは、あまりにも壮大で、そして冒涜的な計画だった。


『リーナ、さらに不穏な情報があります。オメガの自己進化の過程で、その電脳汚染の範囲が拡大しています。現在、ロンドン市内の主要なネットワークノードの約17%が、オメガの影響下にあると推定されます。これは…都市機能の一部が、既にモリアーティの意のままに操られる可能性があることを意味します』


「都市機能の掌握…」


 リーナの表情が凍りつく。


「奴の最終目的は、それなのね…」


 その時、リーナのARスカウターに、緊急警報が割り込んできた。

 それは、レストレード警部が率いる部隊が、この倉庫街一帯の封鎖を開始したという情報だった。


「…しつこいわね、レストレード」リーナは忌々しげに呟いた。ヴァイオレットは不安げに言った。「先生、レストレード警部は、まだモリアーティに…?」 


「ええ。彼の脳内ネットワークは、モリアーティの思念によって深く汚染されている。しかし…」


 リーナは、ARスカウターに表示されたレストレードのバイタルデータと脳波パターンを凝視した。


「…コグニト、興味深いわ。彼の脳波に、微弱ながら抵抗の痕跡が見られる。モリアーティの『声』に、彼自身の意志が抗おうとしているかのようよ」


 その言葉に、ヴァイオレットはわずかな希望を感じた。

あの正義感の強いレストレード警部が、完全に屈服したわけではないのかもしれな い。

 倉庫の外から、重武装した部隊員たちの足音が、徐々に近づいてくるのが聞こえる。

 それは、まるで死神の足音のように、冷たく、そして容赦がない。


「ヴァイオレット、ここから脱出するわよ。そして…レストレード警部を、モリアーティの呪縛から解放する方法を見つけなければならない」


 リーナの瞳には、新たな決意の光が灯っていた。

 それは、絶望的な状況下でも決して諦めない、探偵としての、そして一人の人間としての強い意志の表れだった。

 しかし、倉庫の唯一の出口には、既にレストレード警部自身が立ちはだかっていた。

 その虚ろな瞳は、リーナとヴァイオレットを冷ややかに見据えている。

 だが、その表情の奥底に、ほんの一瞬、苦悶の色がよぎったのを、リーナは見逃さなかった。


「ホームズ…なぜだ…なぜ、お前はいつも私の邪魔をする…?」


 レストレードの声は、モリアーティのものなのか、それとも彼自身の心の叫びなのか、判別がつかない。

 彼の内面では、かつての正義感と、現在の歪んだ姿との間で、激しい葛藤が渦巻いているのが、痛いほど伝わってきた。

 進化の代償として、人間性を失っていく者たち。

 そして、深淵の意志に抗い、僅かな希望を繋ごうとする者たち。

 電脳都市ロンドンの光と影は、ますますそのコントラストを強めていく。

(第六章 了)

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