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第五章:逃亡と追跡、新たな犠牲

 爆音と衝撃波が、ベイカーストリート221Bの静寂を無慈悲に引き裂いた。

 壁が崩れ落ち、舞い上がる粉塵と煙が、一瞬にしてリーナとヴァイオレットの視界を奪う。

 部屋に充満する硝煙の匂いと、コンクリートの砕ける刺激臭。

 このクライマックスで訪れた絶体絶命の状況は、悪夢が現実を侵食するかのように、さらに混沌の度を増していた。


「ヴァイオレット、こっちよ!」


 リーナは、爆風で吹き飛ばされそうになるヴァイオレットの腕を掴み、崩れた壁の隙間から身を躍らせた。

 背後では、モリアーティに操られたレストレード警部とその部隊が、混乱の中でなおも銃口を向けてくる気配がする。

 赤い非常灯が、粉塵の中で不気味に揺らめき、まるで地獄の灯火のようだ。

 二人は、夜のロンドンの裏路地を、息を切らして疾走した。

 濡れた石畳が街灯の光を反射し、逃げる二人の影を歪めて引き伸ばす。

 追手のサイレンの音が、すぐそこまで迫っている。

 しかし、それは物理的な追跡だけではなかった。


『リーナ、都市監視ネットワークが、私たちの生体認証情報をスキャンしています! 全ての監視カメラ、ドローン、交通システムが、私たちを追い詰めるために連携しているようです!』


 コグニトの緊迫した音声が、リーナのARスカウターから直接脳内に響く。

 モリアーティは、電脳都市ロンドンの神経網そのものを掌握し、巨大な罠を張り巡らせていたのだ。


「上等じゃないの…」


 リーナは唇の端を歪めた。


「コグニト、都市OSの深層レイヤーに潜行。ダミーのゴーストプロファイルを作成し、追跡システムを攪乱して。私たちは、一度『《《消える》》』必要があるわ」


 彼女のARスカウターのレンズが、複雑なコマンドを処理するために激しく明滅する。

 リーナは、まるで熟練のハッカーのように、指先で空中に現れるARキーボードを叩き、電脳空間と現実世界の間を縦横無尽に駆け巡る。

 古い地下鉄の廃線跡、忘れ去られたデータ中継ステーション、人の意識が届かないネットワークのデッドスポット…それらが、彼女たちの束の間の隠れ家となった。

 ヴァイオレットは、そんなリーナの姿に、改めてその鮮やかな手腕に目を奪われ、憧れの念がさらに強くなった。

 この人は、絶望的な状況でさえ、決して思考を止めない。

 追手の目を眩ませながらも、リーナの頭脳はマクレガー博士の行方を追っていた。記憶に新しい彼の悲痛な叫び、「コード・アビスに真実が…」。しかし、今の状況でコード・アビスにアクセスするのはあまりにも危険すぎる。


「コグニト、マクレガー博士がオメガプロジェクトで担当していた研究領域を再分析して。彼が『《《オメガが生きている》》』と言った意味…そして、オメガが次に何をしようとしているのか、その手がかりが隠されているはずよ」


『再分析中…マクレガー博士は、オメガの『自己進化トリガー』に関する研究を主導していました。特定の条件下で、オメガが外部からの情報を取り込み、自身のプログラムを書き換える…そのプロセスです。そして、リーナ…オメガの現在の活動パターンから、次の『トリガー』となる可能性のある人物を特定しました』


 ホロディスプレイに、一人の初老の女性の顔写真が映し出される。エリザベス・ウォーカー博士。神経変性疾患の治療における遺伝子編集の権威であり、かつてクレイ博士やマクレガー博士とも共同研究を行っていた人物だ。


「エリザベス・ウォーカー博士…彼女が、オメガの次の標的なのね」


 リーナの表情が険しくなる。


「モリアーティは、彼女の知識と遺伝子情報を利用して、オメガをさらに変貌させようとしている…!」


「悪夢の脚本は、既に次の犠牲者を選んでいたというわけね…許せないわ」


 リーナの瞳に、冷たい怒りの炎が灯った。

 ウォーカー博士の研究室は、ロンドン郊外の静かな地区にある。

 しかし、そこに辿り着いた時、二人が見たのは、既にモリアーティの思念に操られたレストレード警部の部隊が、研究室を完全に包囲している光景だった。

 重武装した隊員たちの動きは、以前ベイカーストリートで対峙した時と同様に、人間味のない正確さで統制されている。

 彼らの目は虚ろで、まるで闇に魂を奪われたかのようだ。


「間に合わなかった…というの…!」


 ヴァイオレットが声にならない悲鳴を上げた。

 研究室の窓からは、不気味な青白い光が漏れ、何かの機械が作動する低い唸り声が聞こえてくる。

 それは、まるで生命を弄ぶような、冒涜的な儀式の始まりを告げているかのようだった。

 リーナはARスカウターのズーム機能を最大にし、窓の隙間から内部の様子を窺う。

 そこには、拘束されたウォーカー博士が、例の「位相エネルギー制御装置」に似た機械に接続されようとしている姿があった。

 そして、彼女の周囲には、ホログラムの「《《歪み》》」が、まるで生き物のようにうごめいている。


「あれは…オメガによる『《《捕食》》』…そして、その知識を歪んだ形で統合しようとしている…!」


 リーナは歯噛(はが)みする。

 その瞬間、ウォーカー博士の悲鳴が、夜の静寂を引き裂いた。

 青白い光が一層強まり、彼女の身体が激しく痙攣する。

 ホログラムの歪みが、まるで彼女の精神と肉体を喰らうかのように、その姿を飲み込んでいく。


「いやあああああっ!」


 ヴァイオレットが目を覆う。

 リーナは、何もできずにその光景を見つめるしかなかった。

 ARスカウターが捉えるウォーカー博士のバイタルサインが、急速に乱れ、そして…途絶えた。

 歪みはゆっくりと収束し、後には、まるで魂が抜け落ちたかのような、変わり果てたウォーカー博士の姿だけが残されていた。

 新たな犠牲者が生まれてしまったのだ。

 彼女は、モリアーティが目論むオメガの歪んだ『《《進化》》』のための、生贄にされたのだ。

 レストレード警部の部隊が、任務を終えたかのように、静かに撤収を開始する。

 その動きは、感情も、罪悪感も、一切感じさせない、冷たい機械のそれだった。

 リーナは、崩れ落ちそうになるヴァイオレットの肩を強く抱いた。

 彼女自身の体も、微かに震えている。

 しかし、その瞳の奥には、悲しみや絶望だけではない、より硬く、より冷徹な決意の光が宿り始めていた。

 モリアーティの悪意、そしてオメガという脅威の大きさを、改めてその身に刻み込んだのだ。

 電脳都市の闇は、また一人、無辜の魂を飲み込んだ。

 そして、その闇は、さらに深く、さらに濃く、リーナとヴァイオレットの行く手を阻もうとしていた。

(第五章 了)


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