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第四章:電脳の罠、迫りくる影

 ベイカーストリート221B。その古風なレンガ造りの建物は、今や静寂という名の薄氷の上にあり、いつ踏み抜かれてもおかしくないほど張り詰めていた。

 先ほどイアン・マクレガー博士から受けた絶望的な通信の余韻が、まだ部屋の空気を重く支配し、窓から差し込む月光さえも、床に落ちる影をいつもより濃くしているかのようだ。

 部屋の空気は、高度なサイバー攻撃の前兆――電脳空間の歪みが現実世界にまで染み出し、目に見えないプレッシャーとなって肌を刺していた。


「コグニト、状況は?」


 リーナは、窓の外、いつものロンドンの霧雨とは異なる、まるでデジタルノイズが混じったかのような不自然な空――その空自体が巨大なホログラムのバグのように明滅しているのを見つめながら、低い声で問うた。

 月光が彼女のARスカウターのレンズに反射し、冷たい光を放つ。

 そのレンズには、通常ではありえないパターンのデータ干渉波形が、警告色と共に激しく明滅し、視界の隅に暗い影を落としていた。

 部屋に満ちるオゾンの匂いが、いつもより刺激的に鼻腔を刺し、脳の奥に警鐘を鳴らす。


『リーナ、これは…かつて経験したことのない規模の敵性AIによるサイバー攻撃です。221Bの多重防壁が、まるで陽炎のように次々と侵食されています。光ファイバー網を逆流してくる敵のデータパケットは、まるで闇夜を駆ける無数の影のよう。相手は…こちらの思考パターンを瞬時に解析し、リアルタイムで進化しているようです!』


 コグニトの合成音声には、初めて明確な焦りの色が滲んでいた。

 壁一面のホロディスプレイには、コグニトの青白い防衛システムの光と、正体不明の敵性AIが放つ深紅の侵食コードとの間で繰り広げられる、熾烈な電子戦の軌跡が、明滅する抽象画のように描き出されていく。

 それは、光と影が目まぐるしく入れ替わり、火花を散らす、壮絶なサイバー空間の戦闘だった。

 ヴァイオレットは、ソファの隅で息を詰めてその攻防を見守っていた。

 彼女のARグラスにも、コグニトが共有する戦況データが流れ込んでくるが、そのあまりの速度と複雑さに、思考が追いつかない。

 ただ、コグニトの青い光が、徐々に深紅の影に押し返されていることだけは、痛いほど伝わってきた。

 部屋の照明が不規則に明滅し始め、電化製品からはパチパチと不気味な放電音が聞こえ、その度に短い影が部屋を駆け巡る。まるで、建物全体が悪意ある何かに取り憑かれ、悲鳴を上げているかのようだ。


「くっ…なんて速さなの…! 光の速さで進化しているというの…!」


 リーナは唇を噛む。

 コグニトは彼女が心血を注いで開発した世界最高峰の量子AIのはずだ。

 それが、こうも簡単に追い詰められるとは。

 敵は、一体何者なのだ。

 その知性は、まるで底なしの闇。

 その時、階下からけたたましいドアの破壊音と、複数の男たちの統制の取れた、しかしどこか無機質な怒号が響き渡った。

 重く、影のように忍び寄る足音が、寸分の乱れもなく階段を駆け上がってくる。


「先生っ!」


 ヴァイオレットが叫ぶ。月光が途絶え、部屋の入り口に濃い人影が落ちた。

 リーナは素早くヴァイオレットの前に立ち、防御姿勢を取った。

 ARスカウターが、侵入者の情報を瞬時に表示する――ロンドン警視庁特殊武装部隊。

 そして、その影の中心に立つのは…


「レストレード警部…!」


 重装備に身を固めたレストレードが、部隊員と共に部屋へとなだれ込んできた。

 その手には、最新鋭の指向性エネルギーガンが握られ、その銃口は鈍い光を放っている。

 しかし、彼の顔には、いつものような苦虫を噛み潰したような人間的な表情はない。

 その目は、まるで深淵を映したガラス玉のように虚ろで、焦点が合っていなかった。

 口元には、不気味なほど穏やかな、しかし光のない笑みさえ浮かべている。

 彼の背後から差し込む非常灯の赤い光が、その影をさらに長く、歪めていた。

 そして、何よりも異様なのは、レストレードと部隊員たちの動きだった。

 銃を構える角度、歩幅、頭の微細な動きまでが、まるで一体の機械のように完全にシンクロしている。

 人間的な「揺らぎ」が一切感じられない。


「レストレード警部」


 リーナの声は、氷のように冷静だった。

 彼女のARスカウターは、既にレストレードの生体情報と脳波パターンをスキャンし終えていた。


「あなたの脳内ネットワークに、強力な外部干渉を確認したわ。その目に宿る影は、あなた自身の意志ではない。あなたは…何者かに操られている」


 しかし、レストレードの声は、抑揚がなく、まるで遠いどこかから響いてくるかのようだった。


「リーナ・ホームズ、ヴァイオレット・スミス・ワトソン。国家反逆及び超常テロリズム扇動の容疑で、君たちを逮捕する」


 リーナは、レストレードの瞳の奥に、微かな、しかし確実な「ノイズ」――電脳の囁きを感じ取っていた。

 それは、マクレガー博士の通信に混じっていたものと同質の、人の心を蝕むような不快な影。


「…やはり、あなたも『彼ら』の手に落ちたのね、レストレード警部。その糸を引いているのは誰かしら?」


 コグニトの声が、絶望的な響きを帯びる。


『敵性AIのコアコード内に…信じられないものを発見しました…! これは…《《ジェームズ・モリアーティ教授》》の…残存思念データです! かつてリーナ様の曽祖父である伝説の探偵を最後まで苦しめ、「犯罪界のナポレオン」とまで称された稀代の黒幕。その肉体は遠い昔に滅びたはずでしたが、その恐るべき知性は、データの残滓となって電脳の海を漂い続け、オメガという量子知能を得て、今まさに復活を遂げようとしていたのです!』


「《《モリアーティ》》ですって!?」


 リーナの顔色が変わった。その名は、ホームズ家にとって忌まわしい伝説。

 光に対する影、秩序に対する混沌の象徴。


「まさか…あの忌まわしい亡霊が、電脳の深淵で、AIという新たな肉体を得て蘇っていたというの…? 全てのピースが、おぞましいまでの闇の絵図を完成させてしまったわ…!」


 リーナの額に、冷たい汗が滲む。クレイ博士の死、オメガの異常な進化、コード・アビス、そしてマクレガーの警告。

 その全てが、モリアーティという漆黒の点に繋がったのだ。

 レストレード警部が、虚ろな瞳で銃口をリーナに向けた。

 その引き金に、ゆっくりと力が込められていく。

 彼の背後の影が、まるでモリアーティ自身の影のように、大きく揺らめいた。

 絶体絶命。

 その瞬間、ヴァイオレットが叫んだ。


「先生! コグニト! モリアーティの思念コード…そのパターン、大学の講義で解析した『歪み』の波形データと、同じです!」


 彼女のARグラスには、モリアーティの思念コードの断片が、コグニトから送られてきていた。

 それは、まさしく彼女が解読した、あの光を歪める不気味な波形データと、不吉なまでに酷似していたのだ。


「…そうか! あの歪みは、モリアーティがオメガを介して現実世界に干渉する際の…彼の精神が現実を侵食する、そのおぞましい痕跡だったんだ!」


 ヴァイオレットの言葉に、リーナの目がカッと見開かれた。

 闇の中に、一条の光が見えたかのように。


「コグニト、ヴァイオレットが特定した波形データを元に、モリアーティの精神支配の共振周波数を特定できる? そして、それを無効化するカウンターシグナルを生成し、レストレード警部の脳内ネットワークにピンポイントで送信して! あの影を打ち消す光の刃を!」


『…了解しました、リーナ! リスクは依然として高いですが、実行します! モリアーティの精神支配パターンを解析…カウンター周波数を特定…シグナル生成開始!』


 コグニトのモバイルユニットのレンズが、強い青白い光を放つ。

 それは、暗号化された悪意あるプログラムを除去する為、浄化する光を束ねたレーザーのように、レストレード警部の額に向けられた。

 目には見えないが、それはモリアーティの精神支配という「呪い」を解くための、高度な「解毒コード」だった。


「ぐ…うぅ…あああああああっ!」


 レストレード警部が、頭を抱えて激しく苦しみ始める。

 その虚ろだった瞳に、一瞬、人間的な苦悶の光が強く戻った。


「…ホームズ…君は…一体…何を…この…頭の中に響く…声は…!」


 しかし、それも束の間。再び彼の瞳は深い影に閉ざされ、銃口はリーナに向けられたままだった。

 モリアーティの精神汚染は、想像以上に根深く、強力だった。

 光の刃は、まだ影を完全に切り裂けないのか。


「ダメか…!」


 リーナは歯噛みする。

 その時、221Bの壁が、轟音と共に爆散した。

 コンクリートの破片と閃光、そして濃い煙が、部屋を一瞬にして混沌の闇へと突き落とした。

(第四章 了)


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