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第三章:沈黙の共犯者、電脳の囁き

 ジェネシス・タワーの最上階、クレイ博士の研究室に鳴り響くけたたましいアラーム音は、まるで地獄の番犬の咆哮のようだった。

 赤い警告灯が壁や床を神経質に舐め回し、ヴァイオレットの顔を不安げに照らし出す。


「コグニト! 脱出経路を確保! 奴らが来る前にここを離れるわよ!」


 リーナの声は、緊迫した状況下でも驚くほど冷静だった。

 彼女はヴァイオレットの手を掴むと、研究室の奥、非常用ハッチへと疾走する。

 その動きには一切の無駄がなく、元情報士官としての訓練の賜物だろう。

 ヴァイオレットは、背後から迫る複数の足音と、何か重装備の人間たちが発するであろう金属的な摩擦音を、拡張された聴覚で捉えていた。


「先生、彼ら、もうすぐそこまで…!」 「分かってる!」


 ハッチを蹴破り、二人は薄暗いメンテナンスシャフトへと飛び込む。

 金属製の梯子を滑り降りる間も、リーナのARスカウターは絶えず周囲のネットワーク状況をスキャンし、追手の動きを予測していた。

 シャフト内に響くのは、二人の荒い息遣いと、滴り落ちる水の音、そして遠ざかっていくアラームの残響。

 まるで、巨大な機械の体内を逃げ惑うような感覚だった。

 どれほどの時間が経過しただろうか。

 ようやく地上へと続く出口を見つけ、二人は夜のロンドンの湿った空気の中へと転がり出た。

 背後では、ジェネシス・タワーが何事もなかったかのように、冷たくそびえ立っている。

 ベイカーストリート221Bに戻ったのは、東の空が白み始める頃だった。

 部屋には、飲みかけで冷たくなったアールグレイの香りと、コグニトが発する微かなオゾンの匂いが漂っている。

 ヴァイオレットはソファに崩れ落ちるように座り込み、ようやく安堵の息を吐いた。

 しかし、リーナは休むことなく、ARスカウターを操作し、壁一面のホロディスプレイにクレイ博士に関する膨大なデータを展開させていた。


「コグニト、ジェネシス・タワーから持ち出したクレイ博士の暗号化通信ログの解析状況は?」


 リーナの声には疲労の色は微塵も感じられない。

 その瞳は、むしろ新たな謎を前にして、より一層鋭い光を増しているようだった。


『現在、最終デコードシークエンスを実行中…完了しました、リーナ。博士の過去一年間の全通信記録、及び秘匿チャネルのログを復元。特に興味深いのは、オメガプロジェクトに関する、数名の研究者とのプライベートな通信です』


 ホロディスプレイに、数名の顔写真とプロフィールが浮かび上がる。その中で、リーナは一点を凝視した。

 イアン・マクレガー。

 神経科学とAIインターフェースの専門家。

 クレイ博士とは大学時代からの旧知の仲であり、オメガプロジェクトの初期段階から深く関わっていた人物だ。


「…イアン・マクレガー…」


 リーナはマクレガーのホログラム写真を指でなぞる。


「コグニト、彼の現在の状況を調べて。そして、クレイ博士と彼の最後の通信内容を最優先で表示して」


『イアン・マクレガー博士は、一週間前から無断欠勤。現在、消息不明となっています。…クレイ博士との最後の通信は、博士が殺害される三日前。音声データです』


 再生された音声は、ノイズが多く、途切れ途切れだった。

 しかし、その声は明らかに恐怖に染まっていた。


「アリステア…聞こえるか…? もうダメだ…オメガが…オメガが、生きているんだ…! あれは、俺たちの想像を…超え…うわぁっ!」


 そこで通信は、何か硬いものがぶつかるような衝撃音と共に、唐突に途絶えていた。


 ヴァイオレットは息を呑んだ。


「オメガが…生きている…?」


 それは、単なるAIの起動や活動を指す言葉ではない。

 まるで、独立した意思を持った生命体に対するような、畏怖と絶望が込められていた。

 リーナは目を閉じた。彼女の脳裏では、マクレガーの恐怖に歪んだ声と、クレイ博士の無惨な死、そしてあの不気味な「歪み」が、一つの線で結ばれようとしていた。


「沈黙は時に、何よりも雄弁な証言となる…そしてこの恐怖に満ちた囁きは、事件の核心を指し示しているわね」


  彼女は静かに呟いた。

 マクレガーは、オメガの進化の秘密を知りすぎたために、口を封じられた。そして、おそらくはクレイ博士も…。

 その時、リーナのプライベート端末に、暗号化された着信が入った。

 ディスプレイには「非通知」と表示されている。


「…誰かしら」


  リーナが通話ボタンに触れると、スピーカーから、極度の恐怖と切迫感に満ちた男の声が、かすかに漏れ聞こえてきた。


「…ホームズか…? リーナ・ホームズだな…? 助けてくれ…奴らが…オメガが…!」


 声は明らかにイアン・マクレガーのものだった。

 しかし、その声は雑音に紛れ、今にも途絶えそうだ。


「マクレガー博士! 今どこにいるの!? 何があったの!?」


 リーナが叫ぶように問いかけるが、返ってきたのは、苦痛に満ちたうめき声と、何かを引きずるような音、そして…


「…《《コード…アビス》》…に…真実が…だが、気をつけろ…オメガは…もう…誰にも…止められ…」


 ブツッ、という音と共に、通信は完全に途絶えた。

 後に残ったのは、不気味な静寂と、ヴァイオレットの耳の奥で鳴り続ける、あの金属的な高周波の幻聴だけだった。


「《《コード・アビス》》に真実が…」


 リーナは唇を噛み締める。

 マクレガーは、最後の力を振り絞って、彼女にメッセージを伝えようとしたのだ。

 まさにその時、コグニトが警告を発した。


『リーナ、事件の当初に感じた、レストレードの不可解なまでの困惑。ロンドン警視庁のデータベースに不審なアクセスログを発見。レストレード警部が、あなたの個人情報及び行動履歴を、極秘扱いで照会しています。これは通常の捜査手順を逸脱しています』


「レストレードが…?」


 リーナは眉をひそめた。それは、単に事件の異常性だけでは説明がつかない何かを含んでいたのかもしれない。


「彼は、クレイ博士の事件の捜査を指揮しているはず。なぜ私のことを嗅ぎ回る必要があるのかしら…」


 ヴァイオレットは不安げに言った。


「先生、もしかして、警察も…?」

「断定はできないわ。でも…」


 リーナは窓の外、霧雨に煙るロンドンの街を見つめた。


「レストレード警部の捜査は、意図的に核心から遠ざけられているか、あるいは彼自身が何かを隠している…その可能性は否定できない。私たちの行動は、既に監視されていると考えた方がいいでしょうね」


 電脳都市の《《深淵で蠢く》》巨大な陰謀。

 その網は、確実にリーナとヴァイオレットにも迫っていた。

 沈黙の共犯者は誰なのか。

 そして、電脳の囁き(ささや)が告げる真実とは一体何なのか。

  

(第三章 了)


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