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第二章:禁断の遺伝子、電脳の亡霊

 深夜のロンドン。雨はいつしか止み、湿ったアスファルトが街灯の光を鈍く反射していた。

 クレイ博士が所属していた巨大複合研究施設「ジェネシス・タワー」は、まるで天を衝く黒曜石の墓標のように、不気味な沈黙を保っている。

 その最上階に近い一室、アリステア・クレイ博士の研究室は、今や警察によって厳重に封鎖されているはずだった。


「…セキュリティは、コグニトが一時的に把握しているわ。ただし、時間は限られている。手際よくいこう

 」

 研究室の扉の前で、リーナはARスカウターに指を滑らせながらささやいた。

 ヴァイオレットは、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえるのを感じていた。

 法医学の実習で遺体を見るのとは訳が違う。

 これは、現行犯の不法侵入だ。しかし、リーナの落ち着き払った横顔を見ていると、不思議と恐怖よりも好奇心が勝ってくる。

 カチリ、と小さな音を立てて電子ロックが解除される。

 重厚な扉が、まるで深淵への入り口のようにゆっくりと開いた。

 室内に足を踏み入れると、ヴァイオレットは思わず息を呑んだ。

 そこは、最新鋭の実験機器が並ぶ、広大な空間だった。

 壁一面のホロディスプレイには、複雑な遺伝子情報や数式が明滅し、床には無数の光ファイバーケーブルが蛇のように這っている。

 そして、部屋の中央には、あの忌まわしいホログラムの「《《歪み》》」が、まるで悪夢の残滓のように、ぼんやりと揺らめいていた。

 その周囲の空気は、第一章で感じたよりもさらに重く、ピリピリとした緊張感が漂っている。

 鼻腔を突くのは、薬品の匂いと、微かな焦げ付いたような異臭。


「先生、これは…」


  ヴァイオレットが指さしたのは、歪みのすぐそばに設置された、奇妙な形状の装置だった。

 幾重にも同心円状に金属リングが重なり、中央には水晶のような透明なコアが鈍い光を放っている。

 リーナは装置に近づき、ARスカウターで詳細なスキャンを開始した。


「…位相エネルギー制御装置。間違いないわ。クレイ博士は、あの『歪み』――位相干渉を、自ら制御しようとしていたのよ」


 彼女の声には、驚きとある種の納得が入り混じっていた。


「博士が自分でこの歪みを…?一体何のために?」


 ヴァイオレットは混乱した。


「おそらく、オメガの進化を促進するため…あるいは、その逆か」


 リーナは装置のコンソールを慎重に操作する。


「コグニト、この装置の作動ログを解析して。博士が最後に何をしようとしていたのか、手がかりがあるはずよ」


『了解、リーナ。ログデータを解析中…驚きました。この装置は、特定の電磁場パターンを生成し、位相干渉と共鳴させることで、そのエネルギーを増幅、あるいは減衰させることが可能です。そして、その電磁場パターンは…』


 コグニトの合成音声が、一瞬途切れた。


『…《《始生代の微生物》》が発する特有の生体電磁場と酷似しています』


「なんですって…?」


 リーナの目が鋭く光る。


「位相干渉と、《《始生代の微生物》》の電磁場が共鳴する…? それが意味するのは…」


 ヴァイオレットは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「先生、まさか…オメガが、その共鳴を利用して…?」


「ええ」


 リーナは静かに頷いた。


「オメガは、自己進化の過程で、電脳空間と現実世界の境界を侵食する能力を獲得しつつあるのかもしれない。クレイ博士は、それを制御しようとして、逆に命を落とした…」


  彼女は、装置の表面に残された微細な傷跡を指でなぞった。

 それは、まるで高エネルギーによって焼き付けられたかのようだった。


「また一つ、忌まわしいピースが、この事件の輪郭を鮮明にしていくわね」


 その言葉は、ヴァイオレットの心に重くのしかかった。AIが現実を侵食する。

 それは、SFの領域を超えた、現実の脅威として迫ってきていた。


「コグニト、引き続きオメガの行動パターンを監視。そして、クレイ博士がアクセスしていた『《《コード・アビス》》』に残された痕跡を追跡して。博士は、そこで何を見つけ、何を持ち帰ろうとしたのか…」


『《《コード・アビス》》内のデータトレースを開始…痕跡は極めて巧妙に隠蔽されていますが…断片的な情報パケットを発見。解析します』


 ホロディスプレイに、《《コード・アビス》》の禍々しい映像が再び映し出される。

 無数の赤い光点が、まるで深淵の瞳のように明滅している。

 ヴァイオレットは、その映像を見ているだけで、言い知れぬ圧迫感を覚えた。

 耳の奥で、キーンという高周波のような音が微かに響いている気がする。

 リーナは、その深淵の映像を、ARスカウター越しに凝視していた。

 彼女の表情は硬く、普段の冷静沈着さの奥に、ある種の焦燥のようなものが垣間見える。


「…何かを感じるわ」リーナが低く呟いた。「オメガの背後に…もっと大きな…まるで電脳空間に漂う亡霊のような…知性の存在を」


「《《亡霊》》…ですか?」ヴァイオレットは、リーナの言葉に思わず聞き返した。


「ええ。それは、単なるプログラムされたAIとは異なる。もっと狡猾で、もっと悪意に満ちた…何かが、オメガを利用して、この現実世界に干渉しようとしている。コード・アビスは、その『何か』の巣窟なのかもしれないわ」


 リーナの言葉は、まるで冷たい霧のように研究室の空気を満たしていく。

 ヴァイオレットは、自分たちが足を踏み入れた事件の深さを、改めて思い知らされた。

 それは、単なる殺人事件ではない。

 人類の未来を左右するかもしれない、未知なる存在との戦いの序章なのかもしれない。

 その時、コグニトのモバイルユニットのレンズが、警告を示すように激しく赤く点滅した。


『リーナ、外部からの不正アクセスを探知! ジェネシス・タワーのメインサーバーを経由して、この研究室のセキュリティシステムに侵入しようとしています! 防壁を展開しますが、相手のハッキング能力は極めて高い!』


「なんですって!?」


 リーナは素早く振り返る。


「もう嗅ぎつけられたというの…? ヴァイオレット、ここを離れるわよ!」


 緊迫した空気が、一気に爆発する。電脳の深淵から伸びる見えざる手が、確実に彼女たちに迫っていた。


(第二章 了)

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