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第一章:コード・アビスへの侵入

 霧雨が窓に触れ、その流れ出た雨水で外の世界をぼんやりと表している

 2035年のロンドン、ベイカーストリート221B。

 伝統的なレンガ造りの建物は、周囲のホログラフィックな喧騒とは一線を画し、静謐な空気を纏っていた。

 部屋には、古い革張りのソファから漂う微かなカビの匂いと、最新鋭の量子AI「コグニト」が発する清浄なオゾンの香りが奇妙に混じり合っている。

 リーナ・ジャンヌ・ホームズは、窓辺に立ち、指先でコンタクトレンズ型のARスカウターに触れた。

 瞬時に、彼女の視界には複雑なデータストリームが流れ込み、雨に煙る電脳都市の風景に重なる。


「ヴァイオレット、準備はよろしいかしら? 事件現場のデータはコグニトが既に再構築済みよ」


 振り返ったリーナの黒曜石のような瞳は、先日の大学での柔和な光とは異なり、獲物を見据える猛禽のように鋭く、そして底知れない深みを湛えていた。

 彼女の手には、愛用のパイプ…ではなく、思考を加速させるための微弱な電磁パルスを発生させる細身のスティックが握られている。

 それを軽く唇に当てるのが、彼女の癖だった。


「はい、先生!いつでも!」


 ヴァイオレット・スミス・ワトソンは、緊張で少し上擦った声で答えた。

 彼女の栗色のポニーテールが、決意を示すかのように小刻みに揺れる。

 部屋の中央には、クレイ博士の研究室が寸分違わぬ精度でホログラムとして投影されていた。

 その空気感までもが再現されているようで、ヴァイオレットは思わず息を詰める。

 特に、空間が引き裂かれたかのような、あの不気味な「《《歪み》》」は、網膜に焼き付くほど強烈な視覚情報だった。

 まるで、異次元への亀裂が、すぐそこにあるかのように。


 リーナがARスカウターに意識を集中させると、彼女の視界にだけ見える操作パネルが展開する。

 指先が宙を舞い、ホログラムの《《歪み》》を多角的に分析していく。

 その動きは、まるで熟練の指揮者がオーケストラを操るかのようだ。


「コグニト、この位相異常の詳細なスペクトル解析を。あらゆる物理法則データベースと照合し、矛盾点を洗い出してちょうだい」


『了解しました、リーナ。量子レベルでの位相干渉を確認。既知の物理モデルでは説明不可能なエネルギー変動を検出。これは…極めて高度な技術による強制的な空間変異です』


 コグニトの合成音声は、感情を排したソプラノ。

 しかし、その報告には、未知の現象に対するAIとしての「驚嘆」のような響きが微かに感じられた。

 部屋の隅で静かに浮遊するコグニトのモバイルユニットのレンズが、青白い光を明滅させる。


 ヴァイオレットは、その報告を聞きながら、鼻腔をくすぐるオゾンの香りが一層強くなったように感じた。

 それは、高エネルギー現象が間近で起きているかのような、錯覚。


「先生…つまり、この《《歪み》》は、自然現象ではないと?」


「ええ。それも、現在の地球上のテクノロジーレベルを遥かに超越した何者かによって、意図的に引き起こされた可能性が高いわ」リーナは、《《歪み》》の中心部を指し示す。「問題は、クレイ博士がなぜ、このような異常現象の只中で命を落とさねばならなかったのか…」


 彼女はスティックを置き、温かいアールグレイのカップを手に取った。

 ベルガモットの芳醇な香りが、張り詰めた空気をわずかに和らげる。


「コグニト、クレイ博士の研究内容を徹底的に調査して。特に、この位相干渉技術、あるいはそれに類する超常的なエネルギーに関する記述がないか確認を」


『検索を開始…クレイ博士の主要研究テーマは、次世代汎用人工知能「オメガ」の開発。ですが、リーナ、興味深いファイルを発見しました。オメガの基礎学習データに関する極秘指定の補足資料です』


 ホログラムの表示が切り替わり、複雑な遺伝子配列のようなデータと、《《原始的な生命体を思わせるCGモデル》》が映し出される。

 それは、まるで深海の暗闇で微かな光を放つプランクトンのようにも見えた。


『オメガの学習アルゴリズムには、地球の始生代――約40億年前に存在したとされる、極限環境微生物の遺伝情報及び、その環境適応パターンが組み込まれています。仮説段階ですが、これによりオメガは予測不可能な自己進化を遂げる可能性があると、博士自身が記述しています』


「《《始生代の微生物》》…ですって?」


 ヴァイオレットは目を丸くした。


「AIに、そんな太古の生命の記憶を?まるで、AIに魂を吹き込もうとしているみたい…」


 その言葉は、彼女自身の口から出たとは思えないほど、不吉な響きを帯びていた。


 リーナの目が、カッと見開かれた。彼女はカップをソーサーに置き、その音だけが妙に大きく部屋に響いた。


「生命の起源、最も単純にして強靭な生存本能…それをAIに与えることで、クレイ博士は『神』にでもなろうとしたのかしら。オメガの進化の過程、そこにこそ博士の死の真相が隠されている…」


 彼女は確信に満ちた声で言った。そして、小さく、しかしはっきりとした声で付け加える。


「これで、パズルのピースがまた一つ、然るべき場所に収まったわね」


 その言葉は、まるで呪文のようにヴァイオレットの鼓膜を震わせた。

 ホームズ先生が核心に触れた瞬間の、確信に満ちた声。

 まだ助手として歩み始めたばかりのヴァイオレットには、その言葉の真の重みを測りかねたが、同時に、計り知れない何かが動き出す予感に、背筋がぞくりとした。


「コグニト、博士の電脳アクセスログを解析。オメガプロジェクトに関連する全ての通信記録、暗号化ファイル、そして…彼が個人的にアクセスしていた可能性のある、あらゆるダークウェブの領域を徹底的にスキャンしてちょうだい」


『了解。…アクセスログの深層スキャン中…リーナ、これは…』


 コグニトの声が、初めて明確な動揺を示した。モバイルユニットの光が、赤に近いオレンジ色へと変化する。


『クレイ博士のプライベートログに、通常のインターネットからは完全に隔離された、超高度暗号化領域へのアクセス記録を発見しました。識別名は――コード・アビス』


 ホログラムに、漆黒の背景に禍々しい赤い光が無数に明滅する、まるで深淵を覗き込むようなCGイメージが投影された。

 それは、見る者の精神を直接揺さぶるような、強烈な負のオーラを放っていた。

 ヴァイオレットは、その映像から目が離せない。

 まるで、その深淵に吸い込まれそうになる感覚。部屋の温度が数度下がったかのように、肌が粟立つのを感じた。


「コード・アビス…」リーナはその名を、まるで禁断の果実を味わうかのように呟いた。


 彼女のARスカウターのレンズが、《《コード・アビス》》の不気味な光を反射し、その表情を読み取りにくくさせている。


「名前からして、穏やかではないわね。博士は、そんな電脳の魔境で、一体何を探していたというのかしら…」


 ヴァイオレットは、乾いた喉をごくりと鳴らした。《《コード・アビス》》。その言葉の響き、そして今目の前に広がる光景は、彼女の本能に危険信号を灯していた。

 そこは、決して触れてはならない、魂の墓場のような場所だと。


 リーナは、ヴァイオレットの緊張を敏感に感じ取ったのか、ふっと息を吐き、わずかに口角を上げた。

 それは、嵐の前の静けさを思わせる、不敵な笑みだった。


「どうやら、私たちの最初の訪問先は、その『《《深淵》》』になりそうね、ワトソン君」


 その瞳は、深淵の闇をも見通すかのように、どこまでも冷徹で、そして美しかった。


(第一章 了)

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