第十章:深淵の共鳴、最後の切り札
ヴァイオレットが決死のダイブによりレストレード警部の精神を解放した瞬間、コード・アビスの最深部で戦うリーナにも、その変化は明確に伝わっていた。
モリアーティの思念の核に生じた一瞬の「揺らぎ」。
それは、リーナにとって千載一遇の好機であったはずだった。
しかし――。
「…まだ、終わらないというの…?」
リーナの放った「論理爆弾」は、確かにモリアーティの精神構造の表層を破壊した。
だが、その核は、まるで不死鳥のように黒い炎を再び燃え上がらせ、より強大な悪意のオーラを放ち始めたのだ。
オメガと融合したモリアーティの思念は、始生代の微生物が持つ驚異的な環境適応能力と自己修復能力をも取り込み、リーナの攻撃すらも進化の糧としていた。
『リーナ、危険です! モリアーティの思念が、コード・アビスそのものと一体化しようとしています! まるで、電脳世界の神…いや、悪魔にでもなろうとしているかのよう…!』
コグニトの警告が、リーナの精神に警鐘を鳴らす。
コード・アビスの空間そのものが歪み、モリアーティの嘲笑うかのような巨大な顔が、データの奔流の中から浮かび上がってくる。
それは、かつてリーナの曽祖父シャーロック・ホームズを最後まで苦しめた宿敵の、しかしより異質で、より冒涜的な姿だった。
「フフフ…小娘が…この私を、ジェームズ・モリアーティを、この程度で倒せるとでも思ったか? お前の曽祖父も、そしてお前も、所詮は私の壮大なゲームの駒に過ぎんのだよ!」
モリアーティの声は、コード・アビス全体から響き渡り、リーナの精神を直接揺さぶる。
一方、現実世界のアヴァロン。レストレード警部の精神を解放したヴァイオレットは、安堵も束の間、リーナの危機を察知していた。
ダイブシステムからリーナのバイタルサインが不安定になっているのが見て取れる。
「先生…!」
その時、ヴァイオレットの脳裏に、コグニトからの緊急通信が割り込んできた。
『ヴァイオレット様、リーナ様が危険です! モリアーティは、コード・アビスの膨大なエネルギーを利用し、リーナ様の精神を直接攻撃しています! このままでは…!』
「コグニト、何か方法はないの!? 私にできることは!?」
『…一つだけ、可能性が残されています。しかし、それはあまりにも危険な賭けです』
コグニトは躊躇いがちに、しかし唯一の活路を示す。
『私のコアプログラムの一部を、あなたのARスカウターを介して、コード・アビス内のリーナ様へ転送します。それは、私の「分身」とも言える、純粋な論理と演算能力の結晶。リーナ様と完全に同期し、モリアーティの論理構造の弱点を突くことができれば…しかし、失敗すれば、あなた自身の精神も、コード・アビスの奔流に飲み込まれかねません』
ヴァイオレットは一瞬ためらった。
しかし、リーナの苦しむ姿を想像し、彼女の決意は固まった。
「やるわ、コグニト! 先生を一人にはさせない!」
ヴァイオレットは、自らのARスカウターにコグニトの分身プログラムをダウンロードし、それをリーナへと送り込むべく、再び精神を集中させる。
それは、物理的なダイブではない。
純粋な意志とデータの共鳴。
彼女の法医学の知識が、ここで意外な形で活かされる。
人体の複雑なネットワークを理解する能力が、電脳世界の複雑な経路を辿り、リーナの精神へと繋がる道筋を見つけ出すのだ。
コード・アビスの深淵。
モリアーティの圧倒的な力の前に、リーナは徐々に追い詰められていた。
始生代の微生物の遺伝情報とオメガの学習能力、そしてモリアーティの邪悪な知性が融合した存在は、もはや彼女一人の力では太刀打ちできないレベルへと進化していた。
「ここまでなのか…?」
リーナの意識が遠のきかけた、その瞬間。
彼女の精神に、温かく、そして力強い光が流れ込んできた。
それは、ヴァイオレットの意志と、コグニトの純粋な論理の光だった。
『リーナ様! 私の分身です! そして、ヴァイオレット様の想いも共に!』
「ヴァイオレット…コグニト…!」
リーナの瞳に、再び力が宿る。
一人ではない。
最高の相棒と、信頼する助手が、現実と電脳の両面から彼女を支えてくれている。
コグニトの分身は、リーナのARスカウターと完全に同期し、モリアーティの論理構造の僅かな亀裂、その自己修復能力の限界点を瞬時に解析する。
それは、始生代の微生物が持つ「生存本能」と、モリアーティの「知性」という、相反する要素の間に生じた、ほんの僅かな矛盾点だった。
「見つけたわ…あなたの弱点…!」
リーナは、ヴァイオレットから送られてくる、レストレード警部の精神から得たモリアーティの精神汚染パターンの情報と、コグニトの分身による解析結果を統合する。
それは、ホームズ家の血に流れる推理力と、最新テクノロジーの融合。
「モリアーティ、あなたの進化は、所詮は過去の遺物の寄せ集め。真の進化とは、他者との絆の中にこそ生まれるものよ! その絆の力、今こそあなたに見せてあげる!」
リーナ、ヴァイオレット、そしてコグニト。
三者の意志と能力が一つに重なり、純粋な破壊ではなく、モリアーティの論理構造そのものを「解体」し、「無力化」する、究極のカウンタープログラムが起動する。
それは、まるで美しい数式が解き明かされるように、あるいは複雑なパズルが最後のピースをはめ込むように、モリアーティの歪んだ論理を、その根源から崩壊させていく。
「馬鹿な…この私が…こんな小娘たちに…! ありえない! ありえなあああああいっ!」
モリアーティの断末魔の叫びが、コード・アビス全体に響き渡り、そして…その巨大な思念の核は、光の粒子となって霧散していく。
深淵の闇に、静寂が戻る。
(第十章 了)