第九章:精神という名の迷宮
アヴァロンの制御室。
現実世界の喧騒は遠く、そこは二つの深淵に挑む者たちの、静かで張り詰めた戦場となっていた。
一方では、リーナ・ホームズが電脳の最深部「コード・アビス」でモリアーティの思念と対峙し、もう一方では、ヴァイオレット・ワトソンが、モリアーティに精神を汚染されたレストレード警部の意識へとダイブしていた。
ヴァイオレットのARグラスには、レストレード警部の精神世界が、禍々しくも奇妙に秩序だった風景として映し出されていた。
それは、彼女が法医学の実習で目にする、病に侵された人体の内部構造図にも似ていた。
しかし、これは物理的な肉体ではない。
記憶、感情、論理、そして自我が複雑に絡み合い、モリアーティという「異物」によって歪められた、精神という名の迷宮だった。
『ヴァイオレット様、レストレード警部の意識レベルが低下しています! モリアーティの精神支配が、彼の自我の核へと侵食を強めているようです!』
コグニトの音声が、ヴァイオレットの聴覚に直接警告を送り込む。
「分かっているわ、コグニト。でも、焦りは禁物よ」
ヴァイオレットは、自らの心臓の鼓動を落ち着かせるように深呼吸した。
彼女の脳裏には、大学で学んだ神経解剖学の知識、そして何よりも、あの「歪み」の波形データ――モリアーティの精神汚染の「指紋」とも言えるパターン――が鮮明に焼き付いていた。
彼女は、レストレードの精神世界の表層を慎重にナビゲートする。
そこは、彼の過去の記憶が断片的にホログラムのように投影され、歪んだ感情が黒い霧のように漂う、不安定な空間だった。
幼い頃の思い出、警察官としての誇り、そして事件現場で目の当たりにしてきた数々の悲劇…。
モリアーティは、これらの記憶を巧みに利用し、レストレードの精神的な弱点を突き、支配を強固なものにしているのだ。
「まるで…進行性の神経変性疾患ね。記憶を司る海馬や、感情を制御する扁桃体が、悪性の情報によって機能不全に陥っているかのよう…」
ヴァイオレットは、法医学者としての冷静な目で、レストレードの精神の「病状」を分析する。
彼女は、単にハッキングスキルでモリアーティのコードを破壊しようとはしなかった。
それでは、レストレード自身の精神にも回復不能なダメージを与えかねない。
彼女の目的は、「治療」なのだ。
彼女は、ARグラスに表示されるレストレードの脳波パターンと、自身の脳裏にある「歪み」の波形データを重ね合わせ、モリアーティの精神汚染が最も強く作用している「感染経路」を特定しようと試みた。
それは、まるで顕微鏡で病原体を探し出すような、緻密で根気のいる作業だった。
「見つけた…! この記憶の回廊…彼の正義感が最も強く表れている部分に、モリアーティの悪意が寄生している!」
ヴァイオレットは、レストレードがかつて解決した難事件の記憶、その達成感と誇りが結晶化したような、光り輝く回廊を発見した。
しかし、その美しい回廊には、黒い茨のようなモリアーティの思念が絡みつき、その輝きを蝕んでいたのだ。
彼女は、その「病巣」へと慎重に接近する。
モリアーティの思念は、ヴァイオレットの侵入を感知し、レストレードの最も辛い記憶――過去の失敗やトラウマ――を幻覚として見せつけ、彼女を精神的に追い詰めようとする。
血塗られた事件現場、救えなかった命、自責の念…。
それらは、レストレード自身の心の闇であり、モリアーティにとっては格好の武器だった。
「くっ…!」
ヴァイオレットは歯を食いしばる。
他人の絶望的な記憶を追体験するのは、想像以上に精神を消耗する。
しかし、彼女は、リーナから託された信頼と、レストレード自身の心の奥底から聞こえてくる、か細い抵抗の声を信じた。
「あなたの正義は、まだ死んでいないはずよ、レストレード警部!」
ヴァイオレットは、モリアーティの悪意が生み出す幻影を振り払い、法医学で培った精密な手つきで、レストレードの精神に絡みつく黒い茨を、一本一本「切除」していく。
それは、ハッキングというよりは、高度な脳外科手術に近い作業だった。
彼女は、大学で解析した「歪み」の波形データを逆位相にし、それを「メス」として、モリアーティの精神汚染のパターンを中和していく。
光と影が激しくせめぎ合うレストレードの精神世界。
ヴァイオレットの額には、玉のような汗が浮かんでいた。
彼女の集中力は限界に近づいていたが、その瞳の奥には、医師が患者を救おうとする時のような、強い使命感の光が宿っていた。
一方、コード・アビスの最深部では、リーナがオメガ=モリアーティの思念の核と、壮絶な最終決戦を繰り広げていた。
彼女の放った「論理爆弾」は、確かにモリアーティの精神構造にダメージを与えたが、その再生能力はリーナの想像を遥かに超えていた。
「まだだ…まだ終わらせない…!」
リーナは、コグニトの全リソースを攻撃に集中させ、モリアーティの論理の隙間を縫って、その核へと迫る。
それは、知性と意志の、まさに死闘だった。
そして、ついにその瞬間が訪れる。
ヴァイオレットが、レストレードの精神に絡みつく最後の黒い茨を断ち切ったのだ。
レストレードの精神世界に、一筋の温かい光が差し込み、彼の瞳に、失われていた正義の輝きが戻り始める。
『ヴァイオレット様! レストレード警部の意識レベルが回復! モリアーティの精神支配からの離脱を確認!』
「やった…!」
ヴァイオレットは、安堵と共にその場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
レストレードの精神が解放された瞬間、コード・アビスで戦うリーナにも、その変化が伝わった。
モリアーティの思念の核に、ほんの一瞬、しかし致命的な「揺らぎ」が生じたのだ。
「今よ、コグニト!」
リーナは、その千載一遇の好機を逃さなかった。
彼女の最後の力が、光となってモリアーティの核を貫く――!
(第九章 了)




