プロローグ:電脳都市の異変、レディー・ホームズとの出会い
霧雨がアスファルトを濡らし、無数のネオンサインがその光を滲ませる未来都市ロンドン。
2035年、この街はかつての赤レンガの面影を留めながらも、高度な電脳化の波に洗われ、サイバー・メガロポリスへと変貌を遂げていた。
テムズ川の淀んだ水面には、ホログラム広告のけばけばしい色彩が乱反射し、まるでデジタル印象派の絵画のように揺らめいていた。
街には絶えず音が満ちていた。
AR広告から流れる軽快な音楽、データ通信の微かな電子音、雨粒が路面を叩く規則的なリズム、そして脳波シンクロによる会話の、耳には聞こえないはずの微細な「ざわめき」。
人々は脳内ネットワークを介して直接インターネットと接続し、拡張現実(AR)が日常を彩る。
街を歩けば、個人の嗜好に合わせてカスタマイズされた広告がARグラスに投影され、友人との会話は脳波シンクロでリアルタイムに共有される。
情報過多な世界。
しかし、その華やかな進化の陰では、新たな形態の犯罪が蠢き、かつてないほどの格差が社会を深く引き裂いていた。
富は一部の巨大テック企業と、その恩恵を受ける特権階級に集中し、街の片隅にはネットワークから切り離された「デジタル・ロスト」と呼ばれる人々が、時代に取り残されたようにひっそりと暮らしている。
光と影が、この電脳都市のあらゆる場所に存在していた。
「また、か……畜生」
ロンドン警視庁、通称スコットランドヤード。
その地下深くにあるサイバー犯罪特別捜査室の一室は、蛍光灯の無機質な光に照らされていたが、部屋の隅には常に影が澱んでいた。
レストレード警部は忌々しげに机を叩いた。
彼の視線の先、壁一面を覆う巨大なホロディスプレイには、市内の監視カメラが捉えた異常な映像が映し出されている。
それは、まるで空間そのものが悲鳴を上げているかのような、ホログラムの「《《歪み》》」だった。
波紋のように広がるそれは、物理法則を無視した不気味な挙動を示し、見る者に言い知れぬ不安を与える。
その歪みは、映像の中で光さえも飲み込んでいるかのように見え、深い影を生み出していた。
数日前から、この不可解な現象はロンドン各地で散発的に観測されていた。
最初は単なるシステムエラーかと思われたが、その頻度と異常性は日を追うごとに増していた。
そして今、その「《《歪み》》」の中心で、一人の男が無惨な死を遂げたのだ。
被害者はアリステア・クレイ博士。遺伝子工学の世界的権威であり、次世代AI開発のホープとして知られる人物だ。
彼の遺体は、厳重なセキュリティに守られた自身の研究室で発見された。
研究室は最新鋭の設備に囲まれ、明るい照明に満ちているはずだったが、事件現場となった一角には、不自然なほど濃い影が落ちていた。
死因は、現時点では特定不能の神経毒。
ナノレベルで神経系を破壊する、極めて洗練された毒物だった。
だが、レストレードが真に恐れていたのは、毒の種類ではない。
博士の遺体が発見された研究室のホログラム映像に、あの忌まわしい「《《歪み》》」が、まるで死神の指紋のように、あるいは未知の存在が残したサインのように、くっきりと刻まれていたことだった。
映像を拡大すると、《《歪み》》が発生している箇所から、耳障りな高周波の電子音が聞こえてくるようにも感じられた。
それは、単なる映像ノイズではない、何か「意図」を持った音のように思えた。
そして、その歪みの中心には、光を一切反射しない、おぞましい漆黒の闇がぽっかりと口を開けているかのようだった。
「警部、これは……本当に我々の手に負えるシロモノなのでしょうか? 本庁の技術班も、原因が特定できないと……」
部下の不安げな声に、レストレードは重々しく首を振った。
彼の刑事としての勘は、目の前の事件が、これまでの常識では説明できない、何か計り知れないほど巨大な、そして人知を超えた『何か』の存在を示唆しているように感じられ、彼の心を激しく揺さぶっていた
「シロモノじゃない。これは……まるで悪夢だ」彼は心の中で呟いた。
これまでのサイバー犯罪とは、全く次元が違う。
データ窃盗でも、システム破壊でもない。
空間そのものが歪み、人間が不可解な死を遂げる。
超自然的な現象など、一笑に付すべきだ。
彼は現実主義者であり、科学的な捜査を信奉してきた。
だが、目の前で起きている現実は、彼の常識を嘲笑うかのように歪んでいた。
ホログラムの《《歪み》》、特定不能の神経毒、そして天才科学者の死。
これらが繋がっているとすれば、それは一体何を意味するのか。
レストレードの頭脳は、この異常なパズルを解く鍵を見つけられずにいた。
彼の捜査は、まるで暗闇の中を手探りで進むかのようだった。
苛立ちと無力感が、彼の全身を覆っていた。
その頃、ロンドン大学の最新設備を備えた大講義室は、学生たちの熱気に満ちていた。
明るい照明が講堂全体を照らし出し、学生たちの活気で満ちている。
サイバーセキュリティに関する特別講義、その最終日。
壇上に立つのは、リーナ・ジャンヌ・ホームズ。
長く艶やかな黒髪は、照明を受けて微かに光沢を放ち、怜悧な光を宿す瞳は、講堂の隅々までを見通しているかのようだった。
その姿は、どこか近寄りがたいほどの知性と、微かな影をまとっていた。
明るい光の中にいても、彼女の周りだけは、どこか深い影を宿しているように感じられた。
彼女は元イギリス王立空軍(WRAF)の情報士官という異色の経歴を持ち、退役後はその並外れた情報分析能力とAI開発の才能を活かし、フリーランスの電脳犯罪専門家として暗躍していると噂されていた。
政府の極秘プロジェクトに関与していた過去も囁かれており、その経歴の詳細は謎に包まれている。
時折、遠くを見つめるような、何か深い思索に沈むような表情を見せることがあり、その度に彼女の持つ「影」が垣間見えた。
右目の上に装着された、洗練されたデザインのARスカウターが、彼女の非凡さを物語っていた。
それは、単なる情報表示デバイスではなく、彼女の脳内ネットワークと直結し、常 人には見えないデータを可視化する、ホームズの「眼」だった。
ARスカウターには、ホログラム映像の歪みのスペクトル解析結果がオーバーレイ表示され、リーナはそれを確認することもできる。
そのARスカウターの赤い光は、明るい講堂の中でも、どこか異質な輝きを放っていた。
「…諸君、現代のサイバー犯罪は、単なるデータの窃盗や改竄に留まらない。それは、社会システムそのものを揺るがし、時には国家の存亡すら左右する、見えざる戦争だ。そして、その最前線に立つには、既存の知識だけでなく、柔軟な思考と、未知への好奇心が不可欠となる」
凛とした声が、静まり返った講堂に響く。
学生たちは固唾を飲んで彼女の言葉に聞き入っていた。
彼女の語る事例は、どれも最先端のテクノロジーを悪用した巧妙な犯罪ばかりで、学生たちの知的好奇心を強く刺激した。
その中の一人、ヴァイオレット・スミス・ワトソンは、特に強い眼差しでリーナを見つめていた。
明るい栗色の髪を肩まで下ろし、微かにウェーブのかかった髪が光を反射している。
好奇心旺盛な大きな瞳を持つヴァイオレットは、法医学を専攻しながらも、サイバーセキュリティの世界に深く魅了されている、いわゆる「ギーク」な女子大生だった。
彼女は、人間の身体や生命のシステムを分析する法医学の知識が、複雑化する電脳世界の解析にも応用できるのではないかと考え、サイバーセキュリティを学び始めていた。
彼女は、リーナ・ホームズという人物が放つ、圧倒的な知性の輝きと、その裏側に垣間見える影に、強く惹きつけられていた。
講義の終わりに、リーナはふと表情を和らげ、学生たちを見渡した。
その表情の変化に、講堂に微かなざわめきが走る。
「さて、皆さんに、少しばかり実践的なテストをしよう」
その言葉に、学生たちの間に緊張が走る。
「電脳犯罪の現場では、瞬時の判断と技術力が求められる。君たちの脳内ネットワークに、私が仕掛けたセキュリティ障壁を送る。これは、単なる技術的な障壁ではない。突破できるか試してみなさい。制限時間は3分だ」
リーナが指を鳴らすと、学生たちのARグラスや脳内インターフェースに、複雑な暗号コードで構成された仮想の障壁が投影された。
それは、見る者を惑わせるような、入り組んだデータ構造をしていた。
「――ちなみに、この障壁データには、先ほどの講義で触れた、ロンドン市内で観測されている奇妙な『《《歪み》》』の波形データの一部が、ノイズとして巧妙に隠されている。気づけるかな?」
挑戦的な笑みを浮かべるリーナ。
学生たちは一斉にコンソールを操作し始め、あるいは目を閉じて脳内処理に集中する。
3分という時間はあまりに短い。焦りの色が浮かぶ者、早々に諦めて頭を抱える者もいる。
高速でコードを入力する者、データ構造を視覚化して分析しようとする者、それぞれのやり方で障壁に挑んでいた。
ヴァイオレットもまた、目の前に現れた難解なセキュリティ障壁に集中していた。
彼女の指先が、虚空に投影されたARキーボードの上を、目にも止まらぬ速さで舞う。
カタカタ、という軽快なタイプ音が、彼女のARグラスを通して脳内に直接響く。
データ構造の異常パターンを、まるで組織の病変を見つけるようにスキャンしていく。
彼女は、コードそのものよりも、その中に含まれる「異物」に意識を集中させた。
彼女は、大学の一般教養課程で受講した生命科学の講義で、微生物が残したとされる微細な痕跡や、その活動パターンに関する論文に触れたことがあった。
その時の知識が、脳裏に蘇る。
(このノイズパターン…不規則に見えて、どこか周期性がある? 通常のランダムノイズとは明らかに違う…まるで…何かの生命活動が残した痕跡みたい…《《微生物》》が残した痕跡パターンに…似ている?)
ヴァイオレットの脳内データベースから、遠い記憶の片隅にあった論文データが引き出される。
細胞膜の電磁場の変動、群体を形成する際の信号パターン。
それらが、目の前のノイズパターンと重なるように感じられた。
彼女はハッとして、障壁のコアロジックではなく、意図的に混入されたと思われるノイズデータに焦点を絞った。
それは、通常のセキュリティ専門家が見過ごしてしまうような、異質なアプローチだった。
彼女は、そのノイズパターンを、既知の生命活動のデータパターンと照合し始めた。
残り時間30秒。
多くの学生が突破できずにいる中、ヴァイオレットの目の前の障壁が、音を立てて崩壊した。
そして、彼女のARグラスには、歪んだ波形データがクリアに、そして不気味に表示されていた。
それは、確かに《《生命活動の痕跡に酷似》》していた。
歪みが発生している箇所からは、耳鳴りのような、あるいはデータ通信がエラーを起こしているような、不快な電子音が聞こえてくるように感じられた。
そして、その歪みは、AR空間にぽっかりと開いた、光を拒絶するような漆黒の穴のように見えた。
「…時間だ」
リーナが静かに告げる。突破できた学生は、ほんの数名。その中でも、ヴァイオレットは最も早く、そして最も正確に障壁を解除し、隠されたデータまで特定していた。
彼女のARグラスに表示された歪んだ波形データを、リーナのARスカウターが静かにスキャンする。
リーナは、ヴァイオレットの席に静かに歩み寄った。
学生たちの視線が二人に集まる。
「見事だ、ワトソン君。君は、どのようにしてあの『《《歪み》》』のデータに気づいたのかね? そして、なぜそれが重要だと判断した?」
その声には、抑えきれない知的好奇心の色が滲んでいた。彼女の瞳の奥に、ヴァイオレットに対する強い興味が宿っているのが見て取れた。
「あの、ノイズパターンが、通常のランダムノイズとは異質な感じがして…。法医学で、微細な痕跡から情報を読み取る訓練をしているのですが、その感覚に近いというか…。まるで、何かの生命活動が残した痕跡のように見えたんです。大学の講義で、微生物の活動パターンについて触れたことがあったのですが、その時のデータと似ているように感じて…」
ヴァイオレットは、少し頬を赤らめながらも、しっかりと答えた。
彼女の言葉に、リーナは微かに目を見開いた。
法医学とサイバーセキュリティを結びつける発想。
そして、微生物という、全く予想していなかったキーワード。
リーナは数秒間、ヴァイオレットをじっと見つめた。
その瞳の奥に、確かな興味と評価の光が灯る。
彼女の脳内では、ヴァイオレットのデータが高速で処理されていた。
元WRAF情報士官としての経験が、ヴァイオレットの潜在能力を正確に分析していた。
(法医学の知識をサイバーセキュリティに応用するとは…この娘、面白い。そして、あの『《《歪み》》』が生命活動の痕跡…微生物…私の仮説と一致する…いや、それ以上の可能性を示唆している…)
彼女は内心で呟いた。
この学生は、単なる優秀なハッカーではない。
事件の核心に迫るための、新たな視点をもたらすかもしれない。
そして、彼女自身が追い求めている「個人的な目的」にも、ワトソンの存在が不可欠になる予感がした。
講義が終わり、学生たちが退出していく中、リーナはヴァイオレットを引き止めた。
「ワトソン君、もし時間があるなら、後日改めて話をしないかね? 君のそのユニークな視点は、私が今追っている『事件』の解決に役立つかもしれない」
それは、あまりにも唐突で、しかしヴァイオレットにとっては抗いがたい魅力的な誘いだった。
孤高の天才探偵、リーナ・ホームズからの直接の誘い。
それは、彼女が密かに憧れていた世界への扉を開く鍵のように思えた。
二人の間に、まだぎこちなさはあったが、互いの知性に対する微かな敬意と、未知への好奇心が芽生え始めていた。
数日後、ヴァイオレットは大学の一角に設けられたリーナの臨時研究室を訪れていた。
部屋の中央には、彼女が開発したという量子コンピュータAI「コグニト」のコアユニットが静かに稼働音を立てている。
無数の光ファイバーが複雑に絡み合い、まるで生きた脳のように脈動しているように見えた。
部屋の照明は抑えられ、コグニトの稼働を示す青白い光が、部屋の奥に深い影を落としていた。
「改めて、先日は見事だった、ワトソン君」
リーナは、ARスカウターを操作しながら言った。
ホロディスプレイには、クレイ博士の事件に関するデータが次々と表示されている。
データは光の粒子となって空間に浮かび上がり、その間を影が走り抜けるように見えた。
「君の能力は、単なる技術力だけではない。異分野の知識を結びつけ、新たな視点を見出す洞察力…それは稀有な才能だ」
「ありがとうございます、ホームズ先生」
ヴァイオレットは緊張しながらも、背筋を伸ばした。
この天才の前では、自分の知識など微々たるものに思えたが、同時に、彼女の知的好奇心を刺激する何かが、この部屋には満ちていた。
光と影が交錯するこの研究室は、まるでリーナ自身の内面を表しているかのようだった。
「実は、君に協力してほしい事件がある」
リーナは、研究室のホロディスプレイに、アリステア・クレイ博士の顔写真と、例の「《《歪み》》」の映像を映し出した。歪みは、プロローグでレストレードが見たものよりも、さらに鮮明で、不気味さを増しているように見えた。
映像からは、あの不快な電子音が微かに聞こえてくるようだった。
そして、その歪みは、まるで光を吸収するブラックホールのミニチュアのように、周囲の光を歪ませ、深い影を生み出していた。
「著名な遺伝子工学者が、謎の神経毒で殺害された。そして、現場にはこの不可解なホログラムの《《歪み》》が残されていた。警察は難航しているが、私はこの事件の背後に、単なるサイバー犯罪を超えた、もっと大きな何かが潜んでいると見ている。そして、君が見抜いたあの『《《歪み》》』のデータ…あれは、事件の核心に繋がる重要な鍵だ」
リーナはヴァイオレットに向き直り、その真摯な瞳で彼女を見据えた。
部屋の薄暗い光の中で、彼女の瞳だけが強い光を放っているように見えた。
その瞳の奥に、過去の経験からくると思われる、深い決意の色が宿っているのが見て取れた。
それは、単なる事件解決への情熱ではなく、何か個人的な、そして重い使命感のようなものだった。
「ワトソン君、君の力を貸してほしい。この電脳都市の闇に潜む真実を、私と共に暴く気はないかね? これは、単なる事件ではない。私たちの知る世界そのものを揺るがしかねない、未知の脅威との戦いになるかもしれない」
その言葉は、ヴァイオレットの心の奥深くに眠っていた冒険心と正義感を強く揺さぶった。
法医学を学ぶ中で培った、真実を追求したいという欲求。
そして、目の前にいる孤高の天才探偵、リーナ・ホームズと共に、未知の世界へ足を踏み入れたいという強い衝動。
彼女は、迷うことなく決意を固めた。光と影が交錯するこの場所で、ヴァイオレットの心に、新たな光が灯った。
「はい、先生! 私にできることなら、何でもお手伝いさせてください!」
ヴァイオレットの力強い返事に、リーナの口元に微かな笑みが浮かんだ。
それは、彼女の知的な厳しさの中に見せる、数少ない人間的な表情だった。
二人の間に、確かな協力関係の始まりを予感させる空気が流れた。
光と影の中で、二人の運命が交差した瞬間だった。
こうして、ヴァイオレット・スミス・ワトソンは、レディー・ホームズの助手として、電脳都市ロンドンに渦巻く闇へと足を踏み入れることになる。
彼女はまだ知らない。
この出会いが、自らの運命を、そして世界の未来を大きく揺るがすことになるということを。
2035年のロンドン。光と影が交錯するこの都市で、物語の歯車は静かに、しかし確実に回り始めた。
技術の光と、その光が届かない深い闇。
華やかなホログラムの裏側で、新たな脅威が生まれつつあった。
量子知能に憑かれた亡霊が、コードの深淵から、不気味に、そして挑戦的に囁きかける。
「ゲームは、まだ始まったばかりだ――」
(プロローグ 了)