子爵へのお礼
多忙を極めつつも、近衛隊制服の製作や、王妃陛下のドレスの製作は問題なく進んで行っている。というより、私が直接手を出さなきゃいけないものでもないのよね。両方ともある程度軌道に乗っている商品なので、あとは直接デザイナーとお針子さんたちが顧客と打ち合わせしつつ、話を詰めていくだけ。
その点、シュナイデン工房は今まで貴族家とそれなりに取引があっただけに、要領をわきまえていて助かる。
私は、仕事とは別件。ダンヒル子爵への恩返しに頭を悩ませていた。これだけお世話になっているんだもの、何かお礼をしたいのだけれど、お金に物を言わせるような物では伯爵家の嫡男相手に意味がない。
ダンヒル子爵は、出会った当初と比べて少し痩せてきているように見える。
やはり毒殺未遂事件が尾を引いているのだろうか。それだったら、銀の食器をプレゼントする? でも、元々伯爵家の嫡男ですもの。そんなものはいくらでも手に入れられるに違いない。
そうだわ、ファゴット商会で経営している食堂を紹介するのはどうだろうか。契約農家から仕入れをしているから、食材の収穫の時点から安全面を担保できる。庶民向けの食堂だけれど、その分貴族の陰謀とはまったく関係のない場所でもある。
少しは気分転換になるのじゃないだろうか。
庶民向けの食堂へ貴族を誘うのは、常識的には失礼かもしれないけれど、その位で目くじらを立てるような人でもない。そのような人柄がわかる程度には、ダンヒル子爵と交流してきたと思うのだ。
「食堂での食事?」
「ええ。いつもダンヒル子爵にはお世話になっておりますし、もしかしたら貴族の方のお口には合わないかもしれませんけれど、我が商会の経営している食堂があるのです。契約農家から新鮮な野菜を仕入れておりますし、食の安全には万全の注意を払っておりますから、よかったらシャーロットやダミアンとも一緒に、お食事にいけたらと……」
「なるほど……」
ふむ、とダンヒル子爵は顎に手を当てて思案した後、ふわりと、今まで見たこともないような柔らかな微笑みを浮かべた。
「あなたは本当に、ファゴットの聖母と呼ばれるだけあるな。心配をかけた。確かに、庶民向けの食堂なら貴族の陰謀など気にせずのんびり食べられそうだ」
少しからかうような口調で、ダンヒル子爵はくつくつと笑う。
意図をあっさり見透かされて、私は思わず赤面してしまった。恥ずかしいけれど、余計なお世話になったらどうしようと悩んでいた分、喜んでもらえたならまあいいかしら?
その食堂は、大衆向けの中ではやや高級路線の、平民の中でも裕福な人々がちょっと着飾って訪れるような店だ。主に我が商会で取り扱っている茶や調味料などの宣伝も兼ねつつ、食事を提供する場である。
「ほう。庶民向けの食堂というからどんなところかと思いきや、なかなか雰囲気もいいじゃないか」
「貴族からしたら安いお店ですが、庶民からしたら少し背伸びしないと手が届かない価格帯ですからね」
「なるほど、それでその格好なのだな。今日の服もよく似合っている」
シャーロットも連れての食事会だけれど、私たち親子はドレスほどフォーマルではなく、それでいて少し洒落っ気もだした、お揃いの綺麗目ワンピースを着ていた。白いサテン生地の袖なしワンピースに、ベージュのジャケットを合わせている。ジャケットは腰回りを黒のリボンで飾ってあって、堅くなりすぎない抜け感のある雰囲気が可愛くできていると思う。
「ふふ、ブティックが好調なので、もし2号店を出すならこの食堂と同じようなターゲット層で、少しカジュアルなブランドにしようと思っているんです」
「もうそのような戦略を立てていたのか。さすがだ」
ダンヒル子爵は私がビジネスの話をあれこれしても、嫌な顔ひとつせず、色々な意見を出してくれる。それがどれほどありがたいことかは、元夫との生活で身にしみていた。
本当に、返そうとしても返しきれない恩だわ。
食堂の中でもVIP向けの個室が用意してあるので、そこにダンヒル子爵を案内した。飾りには、余計な香りのしない布製の繊細な造花があしらってあって、こういうところの配慮は高級店にも引けを取らない自慢のお店である。
ダンヒル子爵には食べたいものを好きなだけ注文してもらえるように、コースではなく自由に注文できる方式にしてあった。
「私はこのタンシチューと、水牛チーズとトマトのサラダを」
「ヴィオラのおすすめはどれだ?」
「やっぱりタンシチューと、子羊の煮込みは人気だと思いますよ。あとはエビのカクテルサラダなんかの前菜もおすすめです」
「では私はタンシチューとエビのカクテルサラダにしよう」
「私は子羊の煮込みとサラダにするわ」
シャーロットは、離婚して実家に連れて帰って以来、このお店には頻繁に通っているので、好みのものも決まっている。
提供されるパンは柔らかい丸パンからバゲットなどもあって、好きなものを選んでバターをたっぷりと塗っていただく。
パンはこのお店の石窯で毎日焼き上げているものだから、香ばしくてとても美味しい。小さい頃は、お店で売れ残り堅くなったパンを、はちみつ入りの牛乳に浸しておやつにしていたっけ。
「なんだか、こういうところにいるあなたは生き生きしているな。王室御用達の看板などは重荷になってはいないか?」
「それは、元々は平民ですからこのくらいの場所の方が正直気は楽ですけれど、せっかく商売を自分の手で始めたんですもの。行けるところまで目指そうと思っています」
シャーロットやダミアンのためにも、だ。シャーロットが同席しているため、言外に匂わせたその意味を、ダンヒル子爵は正確に把握したらしく満足そうに頷く。
本当にこの方はシャーロットのことを気にかけてくれているんだわ。お願いしたのは私だけれど、元々見ず知らずの赤の他人であった我が家をここまで目にかけてくれるだなんて本当にお人好しですこと。
ダンヒル子爵はよく私のことをファゴットの聖母だと言ってからかうけれど、これではどっちが聖母なのだか聖人なのだかわからないわ。
その後きたタンシチューは、ダンヒル子爵も気に入ってくれたらしく、食が進んでいて安心した。
赤ワインで少し酔った子爵は上機嫌で、「綺麗な女性と食べると食事が特別美味く感じるな」などと軽口を叩いていた。
これで少しは、毒殺未遂事件の記憶が薄らいでくれるといいのだけれど。