アフリカゾウは野生に帰りたい
「……はい?」
バタフライ公爵の突然の申し出に、僕はつい間の抜けた声をあげてしまった。
そんな僕に、公爵様は穏やかに続ける。
「娘のパピヨンが、貴殿をたいそう気に入っていてな。一緒に暮らしたいと申し出てきたのだ」
やっぱり、パピヨンお嬢様の願いなんだ。
そう思っていたところに、彼女自身が公爵の隣から身を乗り出してくる。
「タイゾウよ! これからはわらわと一緒に暮らそうぞ! ずっとそばにいてほしいのじゃ!」
その無垢でまっすぐな瞳に、僕の心がぐらりと揺れる。
パピヨンお嬢様も、公爵様も、本当にいい人たちだ。
一緒にいて、悪い気はまったくしない。 だけど――。
「……ごめんなさい。やっぱり、一緒には暮らせません」
僕が頭を下げると、パピヨンお嬢様はすっとんきょうな声を上げた。
「な、なぜじゃ!? わらわと暮らすのがそんなにイヤなのか!?」
「そうではありません。お嬢様との時間は、僕にとっても宝物でした」
「なら、どうして……?」
彼女の問いかけに、僕は言葉を選びながら答える。
「……でも、僕はこの通り大食漢です。この体を維持するには、一日に百キロ近くの植物を食べなければなりません。それだけの食費を負担させてしまえば、この町に迷惑がかかるかもしれない。そんなの、本望じゃないんです」
僕はアフリカゾウだ。生きているだけで膨大な資源が必要になる。
そのせいで、この素晴らしい町に負担をかけたくはなかった。
だが、公爵様は首を横に振って即答する。
「その心配は無用だ。貴殿一頭を養う程度で傾くほど、我が領地は脆弱ではない」
「そうなのじゃ、タイゾウ! わらわは何も気にしておらん! ただお主と一緒にいたいのじゃ!」
それでもなお、僕はもう一歩踏み込んだ本音を語った。
「……それでも僕は、自由でいたいんです。野生の本能なのかもしれませんが、僕はやっぱり、どこにも縛られずに生きていたい。そう思って、この姿になったのですから」
それが、僕の本心だった。
「……そうか。すまなかったな、貴殿の想いも知らずに。無理を言ったこと、詫びよう」
「父上!? わらわは納得しておらんぞ!」
感情をぶつけるパピヨンお嬢様に、公爵は静かに語りかける。
「パピヨン。タイゾウ殿が自らの意思で選んだ道なのだ。無理に引き留めるのは、彼への侮辱となろう」
「それは……」
しぶしぶ納得しかけたその時、パピヨンお嬢様はきゅっとドレスの裾を握りしめた。
「ならば、わらわがタイゾウと一緒にこの屋敷を出るのじゃ!」
「パピヨン!」
「分かってはおる……分かってはおるが、タイゾウと別れるのは嫌なのじゃあああああ!」
そう言って、パピヨンお嬢様は涙を浮かべながら走り去ってしまった。
「……すまないな、娘が取り乱してしまって」
「いえ……僕の方こそ、パピヨンお嬢様の想いをきちんと受け止めていなかったのかもしれません」
そう言い残して、僕はそっと屋敷を後にした。
*
翌日。僕はこの町を離れるため、見送りに集まってくれた人々のもとへ向かっていた。
「本当に行ってしまうのか、タイゾウさん」
「また来てくれるよね!?」
アンリとリリアが寂しそうに見上げてくる。
僕は彼らの肩に鼻をそっと添えて、優しく答えた。
「もちろん。気が向いたら、いつでも帰ってくるよ」
「絶対よ?」
「うん、約束する」
リリアが差し出した小指に、僕は鼻先を絡めて指切りを交わした。
……けれど、そこにパピヨンお嬢様の姿はなかった。
「あの、ノエムさん。パピヨンお嬢様は……?」
「今朝から姿が見えないのです。恐らく、どこかに隠れておられるのでしょう」
「……そうですか」
きっと、僕が思っている以上に傷ついているんだ。
胸の奥が、ひりひりと痛んだ。
「それでは、また」
そう言って僕がゆっくりと背を向けた、その時――。
「タイゾウ~~~ッ!!」
聞き覚えのある声とともに、パピヨンお嬢様が駆け出してきて、僕の脚にしがみついてきた。
「お、お嬢様!?」
「これが今生の別れではあるまいな!? また、また会いに来てくれるんじゃろう……!?」
「はい。約束します、パピヨンお嬢様」
僕がそう言って鼻で彼女の頭をそっと撫でると、パピヨンお嬢様は涙まじりの笑顔を見せた。
「うむ……それなら、約束じゃぞ?」
「ええ。約束です」
その笑顔を胸に刻みながら、僕はビオレの町に別れを告げ、再び自由な草原へと向かって歩き出したのだった。
初日の森を抜けてしばらく歩いた頃には、僕はあの広々とした草原へと戻ってきていた。
空はもう、茜色に染まる夕暮れ時。
「異世界の空は、夕焼けもきれいだぞう……」
どこまでも広がる空を染め上げる夕焼けに、思わず見とれてしまう。
そんな中、ふと目に留まったのは、程よく木陰を落とす一本の木だった。
地面には柔らかそうな草も広がっていて、今夜の休憩にはうってつけだ。
その木に近づき、さっそく枝の先についた小ぶりな葉をもぎ取ってモシャモシャと食べてみる。
……うん、果物みたいな華やかな甘さはないけれど、どこか懐かしい素朴な味わいが口いっぱいに広がって、心まで落ち着く気がする。
果物もいいけど、こういう地に足のついた味のほうが、日々を過ごすには合ってるのかもしれない。
満腹になったところで木の下に身を横たえ、僕は夜を迎えた。
そして異世界の野外で迎えた朝。地平線の向こうから、ゆっくりと太陽が昇ってくる。
静寂を破って輝き始めるその一瞬は、まさに言葉を失う美しさだった。
「これが異世界の日の出……今日もいい一日になりそうだぞう」
そう呟きながら、僕はまた、自由な旅路を踏み出したのだった。




