嵐の予感
翌朝、僕たちは早くから川に沿って出発した。
だけど、どこからか低く響くような音が微かに聞こえてくる。
胸の奥がざわつく。
これは……風か、それとも激しい雨の音か?
だが頭上の空は澄み渡る快晴で、嵐の兆しなんて微塵もない。
「――どうしたのじゃ? タイゾウよ」
荷車から身を乗り出して、きょとんとした目で僕を見つめるパピヨンお嬢様に、僕は慌てて取り繕う。
「あ、いえ。なんでもありません」
彼女に余計な心配はかけさせたくない、そう思った。
一方で、念のためにとバタフライ公爵とノエムさんには報告を入れる。
「公爵様、ノエムさん。もしかしたら……嵐が近いかもしれません」
「なんだと?」
「この空で、ですか……?」
思わぬ報告に怪訝そうな顔を見せるふたり。
それも当然だ。
今の空はまるで絵に描いたような晴天なのだから。
「……だが念のため備えておこう。自然の気まぐれは予測が難しい」
「はい、公爵様。タイゾウ様、ご報告ありがとうございます」
僕たちは慎重に進み続けることにした。
しばらくして川幅がぐんと広がった地点にたどり着いたとき――事態は急変する。
「橋が……ありません!」
ノエムさんが絶句する。
川岸には本来橋がかかっているはずだというが、そこにあるのは両岸の基部を残した無残な光景。
中央部分は押し流され、濁流が轟々と音を立てて流れ込んでいた。
「これは何事じゃ!?」
足元のぬかるみに滑りながらも、パピヨンお嬢様が驚いた声を上げる。
「お嬢様、危険です! 川には近づかないでください」
ノエムさんが慌ててお嬢様を引き止める横で、バタフライ公爵は険しい顔で状況を見つめていた。
「これは困った……。この橋を使う予定だったが、こうなると山を迂回するしかないな」 「しかしそれでは、より一層の危険が……!」
公爵とノエムさんが並んで唸る。だが公爵の決断は早かった。
「――立ち止まっていても始まらん。迂回路を進むぞ」
「了解しました!」
僕たちは進路を山沿いへと変更することになった。
「ノエムさん。先ほど、山道はより危険だとおっしゃっていましたが……。どんな危険があるのでしょう?」
「山の麓には強力な魔物や獣が出没します。さらに山に住み着く山賊の存在も、無視できない脅威です」
その言葉に、ノエムさんはメイスをぎゅっと握りしめた。
険しい表情が、その危険度を物語っている。
思っていたよりも、はるかに厳しい道になるのかもしれない――そう覚悟したそのとき。
「心配はいらぬ! なにせ、わらわにはノエムがいるからの!」
パピヨンお嬢様がにっこりと胸を張った。
「お嬢様……。ありがたきお言葉です」
ノエムさんは深々と頭を下げ、目を潤ませる。
すると今度は、お嬢様の瞳がこちらに向いた。
「それに、今はタイゾウもおる! これで最強なのじゃ!」
八重歯をのぞかせて、誇らしげに笑うパピヨンお嬢様。
――その笑顔を見ていると、胸の奥から不思議と力が湧いてきた。
この娘を守るためなら、僕は何度だって立ち上がれる。
心から、そう思えたんだ。
進路を変更した僕たちは、まず山の麓を目指して歩みを進めた。
するとほどなくして、小さな村が視界に入ってくる。
「あれは……村?」
「そうですね。先ほどの局所的な嵐で、被害を受けたのでしょう」
ノエムさんが険しい表情で頷いた通り、村はひどく荒れていた。
家屋の多くが崩れ、村人たちは呆然とした面持ちで立ち尽くしている。
「公爵様、あれ……どうにかなりませんか?」
「うむ……我が領民だ、助けたい気持ちは山々だが……いかんせん物資も人手も不足しておる」
悔しそうに言葉を絞るバタフライ公爵の横で、僕はふと鼻を持ち上げる。
――でも、僕にできることがあるんじゃないか?
「タイゾウ? どこへ行くのじゃ?」
心配そうに首をかしげるパピヨンお嬢様に、僕は背を向けつつ振り返る。
「お嬢様、公爵様。ちょっと寄り道させてもらってもいいですか?」
そう言うと、バタフライ公爵は静かに笑った。
「ふふ……タイゾウ殿の力、見せてくれるといい」
そして僕が先に村へと足を踏み入れると、村人たちは絶望の表情をさらに強張らせた。
「な、なんだあの巨体は!?」
「まさかこのタイミングで魔物の襲撃か!?」
え、ちょっと待って。
僕、怪しいものじゃないよ!?
動揺してオロオロしていると、ちょうどバタフライ公爵たちの馬車が追いつき、公爵様とお嬢様が威厳たっぷりに馬車から降り立った。
「皆の者、落ち着け! 私はこの地を治めるバタフライ公爵、そしてこれは我が娘・パピヨンである!」
「わらわたちが通りがかったところ、村のこの惨状を見てな。そこでこのタイゾウが、手助けを申し出たのじゃ!」
お二人の堂々たる説明に、ざわめく村人たちの視線が一斉に僕へと集まる。
「う、うん……僕、ちょっと力に自信がありまして。何か手伝えることがあれば遠慮なく!」
「そ、それなら――この崩れた家の瓦礫を何とかしてもらえんか?」
「こっちの倒壊した納屋も頼めるか!?」
そうして僕は、生きた重機と化した。
その場に散らばる大量の瓦礫を、鼻と四肢を駆使して次々と撤去していく。
ときには壁の一部を器用に持ち上げ、別の場所に安全に移したりもした。
村人たちは最初こそ恐る恐る見ていたが、僕の働きぶりに次第に目を輝かせ始める。
「すごい……あんな大きな梁を片手で!?」
「いや、鼻だけで……!」
一日がかりの作業を終え、村がすっかり見違えるようにきれいになった頃――拍手が起きた。
「タイゾウ様、ありがとうございます!」 「あなたが来てくれたおかげで、村は救われました!」
拍手と感謝の声が広がる中、僕は鼻を照れくさそうに振る。
「えへへ、どういたしまして……」
たくさんの人に感謝される――
社畜だったころにはなかなか味わえなかったこの喜びに、僕はちょっぴり胸が熱くなっていた。
バタフライ公爵が補償を村に約束したところで、僕たちはその村を後にした。
「いや~、タイゾウも大活躍じゃったの!」 「あはは、僕は当然のことをしたまでですよ、お嬢様」
自分のことのように嬉しそうに笑うパピヨンお嬢様に、僕はちょっと照れ臭くなってしまう。
「しかし油断は禁物だ。山の麓には、まだまだ危険が潜んでいる」
「村人たちも、最近は魔物の出没が増えてると話していましたしね」
――僕がみんなを守らないと。
バタフライ公爵とノエムさんの会話を耳にして、僕は改めて身を引き締めた。
山の斜面を大きく迂回するように進んでいたときだった。
突然、何かの喧騒を僕の耳と足が捉えた。
「あれは……!」
「おい、タイゾウ殿!?」
バタフライ公爵の声も聞かず、僕は突如走り出す。
進んだ先で目にしたのは――狼に取り囲まれた馬車と、悲鳴を上げる人の姿だった。
「た、助けてくださ~い!!」
馬車の周囲には、あの額に結晶をもつダイヤウルフ(仮)が何頭も!
僕は真っ直ぐに突進し、そのうちの一頭を象牙で吹き飛ばす。
「ギャアン!?」
「お前たちの相手は僕だ!」
大きな耳を広げて威圧する僕に、狼たちは低く唸りながら警戒の構えを取る。
「ガフウウ!!」
飛びかかってくる一頭を、僕は鼻で思い切りはたき飛ばす。
「ギャアンッ!」
その様子を見た他のダイヤウルフ(仮)たちは、次第に戦意を喪失したのか、一斉に踵を返して逃げ出した。
「ぱおおおおおおおおん!!」
勝利の雄叫びを上げる僕。そして、襲われていた人物に顔を向ける。
「あの、大丈夫ですか?」
「ひっ!? しゃ、喋ったぁ!?」
どうやら若い男の人のようだが、かなり驚いている。怖がらせてしまったかな……。
そこへ、公爵たちの馬車も遅れて到着する。
「これはこれは……うちの従者が、ご迷惑をおかけしたようで」
「あなたは……?」
「申し遅れた。私はバタフライ公爵だ」
「わらわはパピヨン・カルネ・バタフライじゃ!」
「こ、公爵様ぁ……!?」
面食らった様子でしどろもどろになる男の人。
彼に公爵様が穏やかに続ける。
「こちらは我々の護衛、タイゾウ。獣の姿をしているが、頼れる同行者だ」
「ど、どうも」
「は、はあ……私はランキンスと申します。しがない旅商人ですが……先ほどは本当に、助けていただきありがとうございました!」
深々と頭を下げるランキンスさんに、僕は気取らず言う。
「困ったときはお互い様だぞう」
「それでは我々は先を急ぐ。そなたも気をつけるのだぞ」
「は、はいっ!」
ランキンスさんに手を振って見送ると、僕は改めて公爵の馬車と並び歩き出す。
――道中には、まだまだ何があるか分からない。
気を引き締め直した僕は、再び静かな山道を踏みしめて進んでいった。




