ハシモト氏より愛を込めて
さして広くもないワンルームの部屋。そのほぼ中央にある白いテーブルの上には拳銃が置かれていた。
本物だろうか?
なぜ、こんなところに拳銃が?
それにここは?
多方向からの様々な疑問が頭の中を駆け巡る。そんな中で俺は重大なことに気がついた。
何も覚えていない?
ここがどこなのか。
なぜ自分がここにいるのか。
どうやってここに来たのか。
何も思い出せなかった。
自分の名前は……そう、ハシモト……歳は三十五歳。
どうやら俺が自身のことを覚えているのはそれだけのようだった。頭の中のどこを探しても、他にそれ以上の個人的な情報は見つからなかった。
記憶喪失。
そんな言葉が俺の頭に浮かび上がってくる。何せ名前と年齢以外は何も思い出せないのだ。その言葉が自分の中で、しっくりと当てはまってしまうのを俺は感じていた。
混乱して焦る気持ちを辛うじて押さえつけながら、俺はテーブルの上にある拳銃に手を伸ばした。本物かどうかを触って確かめてみようと思ったのだ。
もちろん、本物の銃を触った記憶なんてあるはずもない。だが、案外プラスチックのような物でできた精巧なオモチャの類いかもしれないと思ったのだ。
手にしてみると、何だかずっしりとした重みがある。
多分、本物だ。本物なんて知らんけど。
ここは俺の部屋なのだろうか。俺は部屋を見渡してみたが、それが分かるはずもない。俺はもう一度、目の前にある拳銃に視線を送った。
俺の中にあるのは答えが出ない自問だらけで、何だか泣きたくなってきた。
その時だった。背後で何かが割れるような大きな音がした。その瞬間、それが何事かも分からないまま、床の上で俺は一回転をしていた。
それはまるで映画のワンシーンのような、一瞬での一回転だった。決してそうしようと思ったわけではない。
言うなれば音がした瞬間、体が自然に動いていたのだ。そして、その手には先程まではテーブルの上にあった拳銃がしっかりと握られている。流れるような動作だった。
わけが分からない。そう動こうと思ったわけではないのに、体が勝手に動いている。自分の体が、まるで自分のものではないような……。
大きな音は、窓を割って入ってきた黒ずくめの男が立てたものだった。床で一回転をした俺は、すぐに体勢を立て直して男に拳銃を向けた。
え、マジか?
そう思った時には、俺の指が勝手に動いていた。二度、三度と引き金を引く。黒ずくめの男は三発の銃弾を受けて、そのまま横倒しとなる。
拳銃の種類にもよるのだろうが、その時の発砲音はどことなく間抜けで軽い音だった。人を撃ったというのに、俺の中にあったのはそんなどうでもいいような感想だった。
焦げくさい臭いが室内を満たしている。これが硝煙の臭いと言われているものなのだろうか。これまた俺はどうでもいい感想を抱いてしまう。
恐らく現実味がないのだろう。体が勝手に動いてしまうのだ。だから俺の中で、他人事のような感想が生まれてくるのかもしれない。
銃弾を受けて横倒しになった黒ずくめの男に、動く気配は一切なかった。死んだのだろうか。人を殺したかもしれないというのに、後悔や焦りといったものは全くなくて、俺はとても落ち着いていた。やはり他人事ということなのか。
自身の行動や感情を別の軸で、まるで俯瞰からでも見ているかのような感覚だ。
取り敢えず男の生死を確かめようと、俺が一歩を踏み出した時だった。短い廊下の先にある部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
俺は一切の無駄がない動作で、開いたドアに拳銃を向ける。
姿を現したのは二十代後半に見える若い女性だった。彼女はそれと分かるぐらい、明らかに血相を変えていた。
「逃げて! 奴らに気づかれた!」
逃げる?
気づかれた?
わけが分からない。意味が分からない。もっと言えば、最初から何も分からない。
記憶喪失の自覚で混乱している頭がさらに混乱する。だけれども、そんな混乱する頭を抱えたまま、俺はなぜか大きく自信たっぷりの顔で、彼女に頷いてみせたのだった。
現れた若い女性を先頭にして俺は外に飛び出した。
「大通りを通った方がいいわね。人の目があれば、奴らも派手なことはできないはずだから」
そんな彼女の言葉に、派手なことって何なのだろうかと俺は思う。それに奴らとは?
今までの状況から、自分が誰かに命を狙われていることは推測できる。実際、さっきも窓を破って黒ずくめの男がやって来たのだから。それらが彼女の言う奴らということなのか。
でも、何で狙われているのか。
命まで狙われてしまうようなこと。
……一体、俺は何をしてしまったのだろうか。
それに彼女の名前はと俺は考える。
名前……思い出した。そう。彼女の名前は桜。だけれども、それ以上のことはやはり思い出せない。
「桜、あまり早足になるな。逆に目立つぞ」
先頭を歩く桜に俺はそう声をかけた。言おうと思って言ったのではない。気づいたら自然にそう言っていたのだ。桜はそんな俺の言葉にゆっくりと頷いてみせたのだった。
大通りに出た俺たちは、横並びになって他の通行人の流れに合わせて歩みを進めた。
「これからどうする?」
そう言った俺に桜は黒目がちの瞳を向けた。こんな時に何なのだが、なかなか魅力的な顔だと俺は思う。
「この先にラブホがあるわ。そこで夜中まで待つつもりよ。そして、三時に港の倉庫へ。そこで国外に手引きしてくれる者が待っている手筈よ」
俺は軽く口笛を吹いてみせた。
「大した段取りだ」
口笛を吹いたのも、この言葉も意識しないで自然と出たものだった。やはり、まるで俺が俺ではないようだった。一方で言動の一つ一つが何だか芝居がかっているようで、少しだけ自分が嫌な奴に感じるのは気のせいだろうか。
「当たり前じゃない。私は優秀なバディなんだから。それも最愛のね」
桜が悪戯っぽい笑みを浮かべて、片目でウインクをしてみせた。やはり、なかなかの魅力的な顔だ。
しかし……何の?
何の優秀なバディなのだろうか?
誰と誰が最愛なのだろうか?
というか俺は一体、何者なんだ?
呆けたように無意識で口が開きそうになる。俺は様々な疑問を頭に泳がせながら、桜と共に歩みを進めるのだった。
繁華街の目抜き通りから少しだけ外れたところにあるラブホテル。
俺たちは午前二時半丁度にラブホテルを出た。この時間になると繁華街とはいえ、人の通りはほとんどない。午前零時を回っても騒がしかった喧騒から、街全体が解き放たれているようだった。
ここから十五分も歩けば港の倉庫外に着くらしい。桜によれば、俺たちはそこから船で国外に脱する手筈になっていた。
何で国外脱出なんてするのか。やっぱり俺は何をしでかしてしまったのか。国外脱出なんて聞いてしまうと、それが凄く気になってくる。
そんな根本的な疑問を飲み込みながら、俺は隣の桜と共に歩みを進めるのだった。
鍵は掛かっていない。金属が擦れ合う嫌な音を立てて、倉庫の横にあった扉が開く。
窓から入ってくる月明りがあるだけで、倉庫の中は薄い暗闇だった。静かな倉庫内の暗闇に俺は本能的な恐怖を感じた。
視界の奥は暗闇で見通すことはできないが、何だか大勢の人がいる気配がする。加えて、多方向から自分が見られている気もする。それは暗闇の恐怖からきているのだろうか。
俺の隣で桜がペン型の懐中電灯を取り出した。そして、それを正面に向けて三度、点滅させる。
その瞬間だった。桜が懐中電灯をむけていた暗闇の向こうから銃声が響いた。俺はとっさに倉庫の床を転がって、そのまま右手にあった物陰に移動する。
物陰で俺は懐から拳銃を取り出し、同時に自分の体を確かめた。どうやら被弾している様子はない。しかし、血の匂いが俺の鼻腔をくすぐっていた。微かな呻き声も聞こえる。
桜、撃たれたのか?
血の気が一気に下がる。
薄い暗闇の中、先程まで立っていた場所に俺は視線を送った。そこには蹲るような人影がある。
俺は姿勢を低くして、その人影に忍び寄った。こちらから相手が見えないように、相手からも俺の姿は見えないはずだ。
「桜、大丈夫か?」
「どうして? ねえ、どうしてなの……」
撃たれて混乱しているのだろうか。桜は不明瞭な言葉を呟いていた。この暗闇では傷の大小は分からない。思わず舌打ちをしそうになった時だった。
急に倉庫内の電灯がつけられる。ただ電灯の光量は乏しくて、視界を奪われるようなことはなかった。この光量では倉庫の端まで照らしきれないようで、視界の大部分はまだ黒で塗りつぶされていた。
「どうして、どうしてなのよ? 裏切ったわね……」
床に倒れたままで上半身を起こした桜が、暗がりに向けて非難の言葉を放っている。桜の胸は血に濡れていて、傷が深手であることは明らかだった。
暗がりから五人の男が姿を現した。誰もがその手に拳銃を握ってこちらに向けている。
「何で裏切ったのよ!」
男たちに向かって桜が再び叫ぶ。男たちの中心にいた者が口を開いた。
「裏切った? 最初から信用するはずがない。こいつを裏切ったお前をなぜ俺たちが信用する? こいつと一緒に殺されるのが当然だろう」
もうこの状況についていくのが精一杯だった。
俺の相棒だと言っていた桜は俺を裏切っていた。そして彼女自信は俺を狙っているこいつらに裏切られたということなのか?
俺は桜に視線を向けた。その視線に気づいた桜が俺を無言で見返してくる。その黒目がちな瞳からは、桜の心情を読み取ることはできなかった。
「待ってろ」
俺は桜に短くそれだけを言う。俺は正面の男たちに視線を移した。その中にいる一人の銃口が僅かに動いた。
俺は床を転がる。それと同時にいくつもの銃声が響く。どの銃声が誰のものなのかも分からない。床を何度も転がりながら俺は引き金を引く。引き金を引き続けた。
数十秒後、床に立っているのは俺だけだった。俺はすぐさま桜に駆け寄った。
床には血溜まりができつつあった。そこに片膝をつけて、俺は桜の顔を抱きかかえる。俺に抱きかかえられた桜の顔は既に青白くなっていた。
それまでは目を閉じていた桜だったが、俺に抱きかかえられると弱々しく瞼を開く。
「ごめんね。私……裏切っちゃった」
俺は黙って頷く。
「ミスったわ。脅されていたってこともあるけど、死にたくなかったのよ。結局、こんなことになったけどね」
「俺とお前は似ているのさ。自分のことを愛している。ただそれだけだ。愛している自分を助けるためなら、愛している相手にも銃を向けることができる。俺もきっと同じだ」
「ふん、慰めになってないわよ。愛しているだらけで意味もよく分からないしね」
苦笑を浮かべたつもりなのか、桜の頬がぎこちなく動く。
「ねえ、あなたのこと、愛してるのよ。本当よ」
「知っているさ。俺も桜を愛してる。ただ俺たちは、自分を一番愛しているだけだ」
「裏切られたのに、まだ愛してくれるの?」
「ああ。裏切られたのにだ」
自分の声が掠れるのを俺は自覚した。
「殺し屋のくせに、相変わらず甘いんだから」
桜はそう言って今度ははっきりと顔に苦笑を浮かべる。そして、苦しげな様子でさらに言葉を続けた。
「何だか寒い。ねえ、抱きしめて。強く抱きしめて。死ぬのは嫌なの。一人で死ぬのは怖いの……」
「ああ」
言われた通り、俺は強く桜を抱きしめる。悲しかった。名前以外は何も知らない。
それなのに俺は紛れもなく悲しかったのだ。
その感情とともに、俺の片頬を一筋の涙が伝っていく……。
「カーット!」
気合いの入った声と同時に、眩しい照明が一斉に灯った。目がくらんで一瞬、世界が真っ白になる。
へっ?
驚いて周囲を見渡した俺は、自分が三十名近い人たちに囲まれていることを知った。そして……。
え、カメラ? レフ版? メガホン? 映画監督?
……撮影?
そこにはステレオタイプの映画監督がいた。帽子を被って、サングラスをつけてメガホンを持った髭面の男が近づいてくる。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「いやー、よかったよ、ハシモトちゃん。もう、最高! ハッシー最高!」
監督らしき男はそう言って、握った拳の親指を立てて見せる。
その言葉に合わせるかのように、俺が拳銃で撃った男たちが次々と何ごともなかったように立ち上がってくる。
え?
すると桜も同様で、俺の腕の中から体を起こして立ち上がった。
「最悪なんだけど。血糊が乾いて、バリバリじゃない」
へ?
驚きで何も言えない俺に桜は黒目がちの瞳を向けた。
「ハシモトさんの演技が上手だから、死ぬ役の私が泣いちゃいそうでしたよ。じゃあ、お疲れさまでしたー」
最後に桜はにこりと魅力的に笑うと、バスタオルを持って駆け寄ってきた女性と一緒に踵を返す。
へ?
監督の背後では、スタッフらしき若い男が声を張り上げている。
「明日は九時からです。ラブホからの撮影となりまーす」
え? へ?
倉庫を出た俺は、かつてない程に混乱した頭を抱えたまま、波止場から海を眺めていた。隣では俺のマネージャーらしき男が明日の予定を告げている。
撮影……何の……誰の?
俺の混乱は今も続いている。
そんな俺の背後から、撮影の小道具らしきものを抱えているスタッフの声が聞こえてきた。
「ほら、見てみろよ、ハッシーさんだぜ。後ろ姿も渋すぎだな」
「ああ、ハシモトさん、まだ役が抜けていないんだろうな。さっきの最後のシーンも格好よかったもんな。あそこで片方だけ涙を流して見せるなんてさ……」
そんな会話をする男たちの声が、ゆっくりと遠ざかっていく。隣ではマネージャーらしき男がまだ明日の説明をしていた。
考えてみれば、あの部屋で記憶がないと気づいてから俺はいつ食事をした? いつ休んだ? いつトイレに行った? いつシャワーを浴びた? いつ……。
俺の中にどこにもそんな記憶はなかった。俺の中にある記憶は場面、場面だけの記憶しかなかった。そう。まるで映画の場面、場面のような。
……え? え? えーっ?
俺は、俺は一体、誰なんだ?
俺は、俺は何者なんだ?
そこで俺は一つ気がついたことがあった。知らない記憶が俺の中にある。何だか他人の記憶が、俺の記憶を侵食しているような。
いや、違うのかもしれない。他人の記憶、その断片が俺の中にある。そう言った方が正解に近いようだ。いずれにしても、これらの記憶を俺は知らない。
混乱する俺。いつの間にか、音もなく背後に立つ者がいることに気がついた。先ほどまでいたはずのマネージャーはいなくなっている。背後に立った男は低い声で言葉を発した。
「コードネーム、ハッシー。今回も見事だったな」
その言葉に俺は薄く笑う。頭の片隅で状況も分からないままで、こんなにもニヒルに何で俺は笑っているのだろうかと思う。
「次の任務はこいつだ。A国の政府に潜入してもらう……」
その言葉とともに、俺は封がされた白い洋封筒を受け取るのだった。
A国、政府、潜入……。
もはや、何が何だか分からない。俺は殺し屋ではなくて、俳優でもなくて、実はスパイなのだとでも言うつもりなのか。
その時だった。混乱する俺は不思議な感覚に包まれる。
何だ、これは?
異なる世界。異なる時間軸。
俺が……俺が増殖して……いる?
そこでは俺が増殖している。
そこではハシモトが増殖していた。
俺が分裂していく。
ハシモトが分裂していく。
ハシモト、ハシモト、ハシモト……。
俺は全であり個だった。ハシモトは個であり全だった。
ハシモト、ハシモト、ハシモト、ハシモト……。
ハシモト。
個の記憶が、個の感情が全の俺に流れ込んでくる。
全の記憶が、全の感情が個の俺に流れ込んでいく。
俺は殺し屋だった。俺は映画俳優だった。俺は某国のスパイだった。俺は宇宙を渡る研究員だった。俺は世界崩壊の鍵を握る男だった。俺は時を駆ける男だった。俺は……俺は……。
そこにはいくつもの俺がいる。
そこにはいくつものハシモトがいる。
まるで合わせ鏡のように、そこにはいくつもの俺が並んでいた。いくつものハシモトが並んでいた。
ハシモト、ハシモト、ハシモト……。
増殖する……俺が……ハシモトが分裂していく。
全ての俺が同時に呟いた。
「俺の名は、ハシモト」