9.策が必要だな。
時が経つ。
風が吹き抜けるように、雲が行きすぎるように、時は経ち、そして、二度と戻りはしない。
時だけは、たぐいない王侯にとっても、民草といわれるような凡民にとってもまったく平等なたったひとつの秤なのだ。
そうして長く、ゆったりと時が過ぎてゆき――もはや、百年以上もまえに罪を問われ処刑された〈背信の聖女〉ケイリンネの物語も、伝説のように語られるばかりとなった。
もうだれも彼女を直接に知っている者は残っていない。地上にはあたらしい人々が産まれ、あたらしい物語が紡がれ――そして、いつの日かその人々も絶え、その物語も終わってゆくのだろう。
だが、それはまだいまこの時ではない。あしたにはそのいのちが途絶えるかもしれないというのに、人々はだれもみな、あたりまえのように今日の繁栄を謳歌し、一時のしあわせを味わっている。
あるいはそれこそが、人という、この儚く弱い生きものの正しくあるべき姿なのかもしれなかった。
しかし、この世にはただひとときの繁栄や幸福に酔ってばかりもいられない者たちもいる。いま、ここにもまた、そのような種類の人間たちが集まっていた。
大陸中央部にあって東西の交易で栄える王国シークラーン、その花の王都カサリンガ、そのさらに奥深くにある王宮の最奥の一室である。
いま、この場所で、ひとつのいくらか興味深いドラマが幕を開けようとしている。
「無理です、殿下」
シークラーンの王立騎士団の副団長であるユリッサは卓上にひろげられた地図から視線を上げて、団長でもある王子クオリンドに話しかけた。
ユリッサは一見すると、無骨な騎士とはとても見えぬ、花やかな女性である。だが、よく見ればその容姿と印象に似合わず、てのひらは厚くふくれており、また、全身を分厚い筋肉がよろいのように覆っていることがわかったはずだ。
女の身で、また二十代の若年で、騎士団のほとんど頂点にまでたどり着いたことは、ただならない天才と、超人的な努力をしか意味しないのだ。そのどちらが欠けていても、このような奇跡的な栄達はありえない。
いま、ユリッサは彼女をその地位までひき上げるに至った才能のひとつである怖れを知らぬ勇気で、クオリンドの言葉を否定したのだった。
「そうかな」
クオリンドは、べつだん、怒り出しはしなかった。かれは決して無能だったり感情的だったりするのに地位ばかリ高い男ではなかったのだ。
それどころか、その怜悧な頭脳と剣の才能は、じっさいに騎士団でも一、二を争うものという評価を得ていた。
幼い頃、外出先で誘拐されかけ、護衛の騎士たちを惨殺されるという凄惨な事件からいまに至る努力と修練の日々は、かれを王国でも指折りの剣士にまで育て上げていた。
また、その、高い身の丈と、いっそ嫋やかと形容したくなるような甘やかな容姿は噂話を好む貴族の娘たちの格好の噂の的であった。
その本人がなぜかそういった娘たちをまったくあいてにしないところから、どうやら秘めた恋のあいてがいるらしいということも、また、かれをいくらか神秘的な存在に見せていた。
また、その青々と澄んだひとみには、王子にして騎士団長であるにもかかわらず、どこか哀しげとも物憂げとも見える光が宿っていて、それが令嬢たちの心をいっそう狂おしくかきたてるのだった。
優れた文武の才能に恵まれ、なおかつ努力家であるにもかかわらず、どこか物足りなさそうな憂愁の貴公子。本人がそういった評判を望んでいるかどうかはともかく、二十三歳のクオリンドはそのように見られるようになっている。
しかし、いま、卓上の地図を見つめながら、ユリッサを初めとする部下たちと議論するかれの目には哀しみも憂いもまったく見て取れない。ただ冷ややかな軍略の計算があるだけだ。
「その〈ハイ・グリフォン〉が出たという場所はこことここ、それからこのあたり。そうだとすれば、この〈夜の森〉の周辺でしか確認されていないことになる。騎士団の精鋭を集めて〈夜の森〉を探索すれば、見つけだして討伐することはできるんじゃないか」
「もちろん、わが騎士団の精鋭たちならば、たとえ災厄級の魔獣である〈ハイ・グリフォン〉をあいてにしても、ひけを取ることはないでしょう。しかし、被害は甚大なものとなります。おそらく、半分は生きて帰ることができません。わたしは、かれらに役目のために正面から戦って死ねと命じることはできない。何か策を考え出すべきです」
クオリンドは顔を上げ、優秀な副団長に無感動な視線を向けた。
「そう思うか?」
「思います」
クオリンドとユリッサのふたりはしばらくじっと見つめ合った。あたかも深く愛しあう恋人同士のように。
しかし、そのまなざしに甘い恋の情熱はまったく含まれていなかった。そして、このとき、先にふっと笑い出したのはクオリンドのほうであった。
「そうか。じつは、わたしもそう思う。策が必要だな」
かれはきれいに整えられたあごを指さきで撫ぜ、何やらぶつぶつとひとりごとを呟きはじめた。
「やはり、あの人に頼るしかないか。あまり彼女に甘えすぎるのも考えものだが、まあ、今回はしかたない。きっと力を貸してくれるだろう。何だかんだといっても人が好い性格だし――」
「団長。何を仰っているのですか?」
「いや」
クオリンドは、怪訝そうに小首をかしげた年長の部下へ向けて破顔してみせた。しかし、次にかれのくちびるから漏れた言葉の意味は、ユリッサにはまったく理解できなかったのだった。
王子はこう口にしたのだ。
「王都に優秀な菓子職人がそろっていて良かったな、と思ってね」