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4.逃げろ!

 クオリンド・シークラーンはひとり、やわらかな木漏れ日が優しくさし込み、小鳥たちが高らかにさえずる森のなかを奔っていた。


挿絵(By みてみん)


 ほんとうなら爽やかな風が吹き、心地良い涼気に満ちた場所であったが、いまのかれにとっては一歩先に何者がひそんでいるともわからない、ただひたすらに暗く恐ろしいところにしか思われなかった。


 もちろん、八歳の子供のことである。全力で疾走したところで、とても大人ほどの速度は出ない。


 それでもクオリンドは必死に奔るしかなかった。理由はただひとつ。前にひそんでいるかもしれない者よりもっと恐ろしい追っ手に追われているからだ。


 クオリンドは大陸中央の雄、シークラーン王朝の第三王子である。ゆえにめったに王宮から外へ出ることはない。


 だが、この日、かれはめずらしくも美々しく仕立てられた四頭立ての馬車に乗り、護衛の騎士たちをともなって離宮へと出向いていた。


 病身のため静養を続けている母に逢うためだ。


 クオリンドは幼少ではあったがすでに王子としての義務をわきまえており、ふだんは母に逢いたいなどとわがままをいい出すことはなかった。


 だが、この日はそのようなかれを不憫に思った父王が離宮へ向かうことに許可を出した。騎士団の護衛付きであるならべつだん危険もないだろうと判断したわけである。


 当然ながらクオリンドは歓び、ひさしぶりに優しい母に逢えることをまわりの臣下に説明してまわった。かれに仕える者たちはふだんはおとなしく大人びた王子のそのめずらしく無邪気な姿を見て、ほほえましく目をほそめたものだった。


 そしてクオリンドは秘密裏に外出し――そこを、狙われたのだ。


 なぜ、まったくの秘密であったはずの情報が漏れたものか、それはわからない。あるいはクオリンドの臣下のなかに裏切り者がいたのかもしれないし、どこやらに間諜が混じっていたのかもしれない。


 そうでなければ、かれが乗る馬車を襲った刺客と見えた者たちは、まったく偶然にあらわれた山賊のたぐいにしか過ぎなかったのかもしれない。


 いずれにしろ、そのことについて考えるには八歳のクオリンドは幼すぎ、また、たとえ考えねばならぬとしてもすべては生き残って城に帰った後のことでなければならないはずだった。


 いまは、とにかく生き残ることだ。すでに護衛の騎士たちの何人は斬り倒されている。その騎士のひとりに逃げるよう命じられ、クオリンドはいま、必死に奔っているのだった。


 自分を守ってくれようとした騎士たちを置いて逃げることは心苦しかったが、その歳にしては聡明なかれには、その場に残ればかえって邪魔になることもわかっていた。


 だから、かれは後ろも振り返らず逃げつづけた。どこへ向かっているのかもわからない。心のなかはたったひとつの言葉で占められていた。


 逃げろ。


 逃げろ。逃げろ。


 逃げろ、逃げろ、逃げろ、


 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――!


 幾たびか木の根に足を取られて転び、全身が傷だらけになって右足のひざがずきずきと痛んだ。


 それでもかれは足を止めなかった。ここで足を止めることこそが自分のいのちを守ろうとする騎士たちに対する最大の裏切りであることまでわかっていた。かれはそれほどまでにさとい子供であったのだ。


 しかし、しょせんは子供の走力であり、二十人ほどもいた敵すべてから逃げ切れるはずもなかった。


 クオリンドは、なぜなのか前方の木陰からあらわれ、かれのまえにあたりまえのように立ちふさがった刺客を、深甚たる恐怖と絶望を込めて見つめた。


 足ががくがくとふるえ、その場に立っていることすらむずかしかった。さらには後方からもひとりの刺客が追いすがって来て、前後をふさがれた。もはや、どこにも逃げる道はないかと思われた。


「どうした、王子さま? もう逃げないのか」


 いかにも暗殺者らしく見える黒衣に身を包んだその男は、世にも邪悪な嘲弄を込めて笑った。


「逃げれば助かるかもしれんぞ。まあ、うしろを向いた瞬間に背中を斬りつけられるかもしれんがな。どうする? 逃げるか? それともその歳で英雄のようにおれを倒してみせるか? あるいは、そう、王子の誇りを捨ててみじめに命乞いするという手もあるな」


 クオリンドはその刺客を睨み据えた。この場に倒れこんですべてが夢だったら良かったのにと願ってしまいたいところだったが、そうするわけにはいかなかった。


 かれは高貴なるシークラーンの王侯であり、王位継承権者のひとりであり、いずれは国の柱となる身であって、そのように教育されていた。


 ひとかどの権力をもつ者はどのような場合であっても現実から目を逸らすわけにはいかないのだ。


 たとえ、ひとつの決断に自分のいのちがかかっているとしても、否、まさにそうだからこそ、甘ったれた逃避は許されない。


「そこをどけ」


 かれは精一杯の勇気を込め、ふるえる声でささやいた。


「無礼であろう! おまえごときがシークラーンの王子の行く手をさえぎるな!」


 黒衣の刺客がゆっくりと目をほそめ、何者かの血でぬれた短刀を振りかぶった。その黒々としたひとみに殺気がひらめいた、その瞬間であった。


「やめなさい、あなたたち」


 あまりにも場違いな、幼い女の子の声が森のなかにひびきわたった。

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