3.もし助かったら、きっと――
その言葉を聞いて、ジュネッサのただでさえひきつっていた表情がさらに歪んだ。
もともと女神官に取り立てられるくらいで端正な容姿の女性なのだが、いまの彼女は目を吊り上げ、白い歯をむき出しにして、ほとんど森にひそむという魔女のようにすら見えた。
ケイリンネはいったい自分のどこがこんなにも彼女を怒らせているのだろう、とあらためて思った。
彼女とはもう五年ほどのつきあいになるが、そのあいだ仲良くやれているつもりだったのは、どうやら自分のほうだけだったらしい。
たしかにジュネッサは嫉妬深い性格なので気をつけたほうが良いといってくる者もいたが、そのような讒言を耳に入れるべきではないと考え、気にせずにいたのだ。
しかし、どうやらその忠告のほうが正しかったようなのだった。
ジュネッサはふたたび鉄格子を揺らした。
「わたしはあなたのそういうところが気に喰わないのよ! もともとは市井の貧乏人の子供に過ぎないくせにのうのうと聖女の地位におさまって、それでいてまわりの目を気にせず、簡単に人に取り入る。どうしてそんな真似ができるの? ただのあたりまえの無能な娘のくせにいつも余裕しゃくしゃくとしていて、その顔がくやしさにひきつるところを見てやりたかった! どうなの、ケイリンネ! くやしいならくやしいといいなさい!」
ケイリンネはぼんやりとジュネッサを見つめた。これが、この人のほんとうの顔だったのだろうか、といまさらながらに思う。
そうなのだとしたら、自分は彼女の何をわかっていたというのだろう。自分の見たいものだけを見、ほんとうに見るべき真実から目を逸らしていたのだろうか。
その結果としていまがあるのだとすれば、死は当然の罰というべきなのかもしれなかった。
だが、どうしても自分にはジュネッサの求めるものをあたえてやることができそうにない。
そのことは申し訳ないが、何ら解決のすべを思いつかなかった。
そして、また。
「泣いているの、ジュネッサ?」
ケイリンネはジュネッサを、彼女に長年にわたって仕えてくれた女神官の苦しげな顔を茫然と見つめた。
ジュネッサの白皙の頬をひとすじ、ふたすじと涙が伝わり、流れ落ちていった。思わず手をのばしかける。なぜか、その姿はいとけない子供のようにちいさく見えた。
もしかしたら、とケイリンネは思った。いまのこのジュネッサの顔も彼女の真実ではないのかもしれない。ほんとうの顔はもっと深くに秘められているのかもしれない。
もっと前にそのことを知ることができたらどんなに良かったことだろう。そうすれば、ほんとうの意味で言葉を交わし合うこともできたかもしれないのに。
いや、あるいはそれもまた愚かな自分の人の好すぎる思い込みに過ぎないだろうか。
「ふんっ」
ジュネッサはしたたる涙をぬぐうことすらせず、ぎろりとひとみを光らせてかつては彼女の主であった聖女を見下ろしつづけた。
「泣いてなんかいないわ。わたしは嬉しくてしかたないのよ。あんたがいくら余裕ぶっていてももう絶対にそこから抜け出られないんだから。次はわたしが聖女になる。わたしにも力があることは知っているでしょう? あんたがいなければわたしこそが聖女になるはずだったんだ。それをあんたが――」
そこまでいって、突然にケイリンネが彼女を見上げる視線に気づいたように言葉を詰まらせた。
そして、かんしゃくを起こした子供のように拳を鉄格子に叩きつける。皮が裂け、血がにじんだが、そのことを気にかける様子すらなかった。
ケイリンネはせっかくきれいな手なのに、と思い、なぜともなく、痛ましいような気がした。
自分が彼女をここまで追い詰めてしまったのだろうか。それとも、そのように考えることそのものが傲慢に過ぎないのか。
ジュネッサはしばらく目をつむって何ごとかを考え込んでから、ちいさくしゃくり上げた。
「もういい! どうせあんたはこのまま死ぬんだ。そしてわたしが聖女になる。わたしはそう望んでいた。たしかにそう望んでいたはずだ。だから、これが正しいことなんだ。そうに決まっている。ざまあみろケイリンネ、さぞくやしいだろう。くやしいといえったら!」
ケイリンネは黙ったまま、すっと立ち上がり、驚いたように目をみはるジュネッサの指さきに手をのばした。
わずかに目をほそめ、指に意識を集中すると、からだの内側から説明しようのない不可思議な感覚が湧き上がって来、そして、やがてジュネッサの傷を癒やした。
〈聖女の力〉だ。
ケイリンネはただ唖然と彼女を見つめたまま立ち尽くすジュネッサに向け、しずかに語りかけた。
「ジュネッサ、あなたに支援を申し出た貴族はおそらくあなたを利用するだけのつもりよ。その人物を信用しないで」
「そ、そんなこと――」
「お元気で」
ケイリンネがほほ笑みかけると、ジュネッサは一瞬、まるで親に叱られて家を出た子供のように寄る辺なさそうな表情になった。
だが、すぐに伝わり落ちる涙をぬぐって、もう何もいわずにその場を立ち去った。その足音が完全に消えると、ケイリンネは全身から力が抜け落ちるような思いがして、ふたたびその場に座り込んだ。
ジュネッサのように自分も泣いてしまいたいような気がしたが、涙は流れては来なかった。
ジュネッサは彼女なりに悩んでいたのかもしれないが、ケイリンネから見ると、やはりそれは方向をまちがえた悩みに思えてならない。
聖女になりたいのならいってくれれば良かったのだ。相談しだいでは、地位を譲ることも考えたのに。
やっぱりわたしはばかなお人好しなんだろうか、といまさらに思う。
しかし、たとえそうだとしても、その生き方を変えるには遅すぎることだろう。そうだとしたら、お人好しのまま生き切るしかないのではないだろうか。
どうせ、わたしの人生はもう長くないのだ。もし、もういちど生きられるならまた違う生き方を選ぶことも良いかもしれないが……。
信じれば裏切られ、重んじれば利用される。それがこの世の摂理ではあるのかもしれない。
そうだとしても、人を信じたことでわたしはいくらかのものを得た。それで良しとするべきなのではないだろうか。わたしの力で助かった人たちは、拝むようにして感謝してくれた。そのときの嬉しさは忘れられない。
「わたし、ちょっとくらいは人の助けになれたよね。良かった」
彼女はひとり、そっと呟いた。
たとえ騙されるとしても、人を信じたい。裏切られ、利用され、見捨てられるとしても、光の差す方向へ進んでいきたい。そう思い、そう願って生きて来た。その結果がこの結末。
しかし、それでも悪くない、まるで悪くない人生だったと思うのだ。
くだらないきれいごとにしか過ぎないかもしれないが、いまでもなおそう信じられる。たぶん、自分は愚か者なのだろう。それならそれでしかたない。そう思った。
聖女ケイリンネ・スピネルがじっさいに公開処刑されたのは、それから三日後のことだった。たくさんの人々が国を裏切った〈背信の聖女〉の最期を見に来ていた。
じっさいにそのうちのどれくらいがほんとうに彼女が国法に背いたものと信じていたのかはわからない。
何しろ、ついひと月ほど前までは不世出の聖女として崇められていたのだ。突然に背信者なのだといわれても納得のいかない者は多かったことであろう。
しかし、そういった内心を表に表せば、それこそ審問所の裁きに背くことになる。だから、だれひとり彼女をかばおうとする者はいなかった。
そして木製の処刑台にからだを据えられ、重々しくひかる斧がそのかぼそい首に落ちかかって来るまでの最後の瞬間、ケイリンネはまたも場違いなことを想像していた。
夢のように可憐で美味しいお菓子たちのことを。
もし奇跡が起こって万が一いのちが助かったら、今度こそおなかいっぱいお菓子を食べよう、それがわたしのしあわせのかたちなのだから。
もし助かったら、きっと――
そう思い、そう願い、彼女以外のだれにもわからない理由でほのかにほほ笑みながら、後世、〈悲運の聖女〉と呼ばれることになるケイリンネは、一瞬で頸部を斬り落とされ、無惨に落命した。
奇跡は、ついに起こらなかったのだった。
そうして、百年が、夢のように過ぎ去る。