2.お菓子が食べたい。
そして、いま。
ケイリンネは白く華奢な足に鎖をつけられ、石の牢獄のなかに閉じ込められている。
べつにこんなものをつけなくても逃げられはしないと思うところだが、ひょっとしたら聖女の力をもちいることを警戒されているのかもしれない。
ばかげたことだった。聖女の力はあくまで守りや癒やしのためのものであり、破壊や暴力には使えないのだ。もしそのような使い方ができるものなら、あの威張った審問官に一撃を加えてやっていたことだろう。
ともかく、この寒く狭い牢獄のなかで、ケイリンネは来たる死の時を待っている。
絶望に打ちのめされ、叫び出したいような気持ちだったが、じっさいに叫びはしなかった。
ただ黙って空腹と寒気に耐え、いったい自分はどこでまちがえたのだろうと考えながら「その時」を待つばかり。
自分の姿を見張りの兵士たちが気の毒そうに眺めていることには気づいていた。せめてかれらのまえであまり醜態をさらすわけにはいかない。そのように思ったのだった。
あるいはそれもまた、いかにもばかばかしい気遣いであったかもしれないが。
ひとつ幸いといえたかもしれないのは、彼女が空腹にも寒さにも慣れていることだった。ケイリンネは聖女として覚醒するまえは貧民の出身であり、ほとんど始終、飢えていた。
聖女になるまではほんとうにろくに肉など食べたことがなかったのだ。まして、甘いものなど、手に入るはずもなかった。だから、彼女にとって甘味はしあわせの味だ。
生まれながらにして豊かな食生活を約束された者にはわからないだろう。甘く美味しい食べ物が、どんなに人の心を優しく癒やしてくれるものか。その力の偉大さが。
人が人生の意味について悩み出すのは、胃袋が満たされてからあとのことだ。人生の無価値さや無意味さについて悩むことができるのは、じつはとても贅沢なことなのだ。ケイリンネはそのことを知っていた。
そうして、自分自身のかすかな呼気の他は静寂そのものの牢獄のなかに、人が近づいてくる足音が聴こえて来たのは、そこに閉じ込められて幾日目のことだっただろう。
ついに死刑執行の時が来たのか、とケイリンネはちいさく吐息を吐いた。死は恐ろしかったが、素直に怖がることにも疲れたような気持ちだった。
ただ。いったんは覚悟を決めたつもりでいても、何かの拍子に深い深淵のような恐怖が首をもたげてくる。いままで自分がやってきたことのすべてが無に帰してしまうかと思うと底知れない闇に呑まれるような気がした。
しかし、想像とは異なり、やって来たのは兵士ではなく、嫋やかな黒いドレスに身を包んだ赤毛の女性だった。その女は薄っすらとあざけるような笑みを浮かべてケイリンネを見下ろした。
「ひさしぶりですね、ケイリンネさま」
「ジュネッサ……」
ケイリンネは屹然と彼女をおとしいれた裏切り者を睨みすえた。
だが、女神官ジュネッサは余裕の態度を崩さない。彼女はくつくつと笑いながらもともと細い目をさらにほそめた。
「どうしたのです? ずいぶんやつれたようじゃありませんか。お食事はきちんと食べられているのですか?」
「――ジュネッサ、どうやってここへ?」
ケイリンネがジュネッサの質問に答えず訊ね返すと、彼女の黒曜石のひとみにほんの一瞬、すさまじい憎々しげな光がひらめいた。
だが、それもほんの刹那のことだった。ジュネッサはふたたびひきつれた口もとをひき締めて、落ち着いた様子に戻った。
「兵士にちょっと金を握らせたら簡単でしたよ。それに、わたしに力を貸し与えてくれる方もいらっしゃるんです。その方の名は教えるわけにはいきませんが」
「そう。やっぱりそういうことなのね」
ケイリンネはうなずいた。予想していた通り、ジュネッサにはだれかケイリンネの敵対者が協力しているのだろう。
思いつく名前はないが、聖女が替わることで利益を得る者は少なくない。そのなかのひとりに違いない。
いまのケイリンネは特に知りたいとも思わなかった。彼女はただ沈黙したままかつての側近の次の言葉を待った。
ジュネッサにはその態度がどう見えたのか、ふたたびその表情が深い怒りと憎しみでひきつった。
彼女は感情的に鉄格子をつかんで揺らした。いまや、その双眸にははっきり殺意にも似た感情が宿っていた。
「いい気味だわ、ケイリンネ。ずっとその恰好を見てやりたいと思っていた。どう? 聖女の座を追われて最後の時を待つ気持ちは。さすがのあなたもこんなことになってはいつもの余裕を保ってはいられないでしょう。くやしい? くやしいならそういったらどうなの?」
ケイリンネはぼんやりとジュネッサの顔を見つめた。とくだん、くやしいとは思わなかった。ただ自分は何かこんなにも彼女に憎まれるほどのことをしでしてしまったのだろうか、と漠然と思うばかり。
自分のつもりでは彼女を信頼し重用したつもりだったが、それがかえって負担になったいたのかもしれない。
人をもちいるとは、何とむずかしいことなのだろう。もしそうなのだとしたら、ジュネッサにも申し訳がないことだった。
ただ、そういったら彼女が怒るであろうことはさすがに良くわかったので、その想いを口に出しはしなかった。
そのかわり、ぽつりとひとり言のように呟く。
「おなかが減ったわ。お菓子が食べたいな」
処刑され死ぬにしても、もういちど甘く、優しい味わいの菓子を食べてから死にたいと、本心から思った。