15.雨の音。
メリサリアは生まれたそのときからぼんやりと百年前の聖女ケイリンネの記憶を抱えていた。しかし、赤子の頃にはまだそのすべてを理解することはできなかった。
ようやく自分が側近の裏切りの末にいのちを奪われた過去の聖女の生まれ変わりであり、また、今生においても聖女の資格を備えていると悟ったのは、三歳の頃であった。
そのとき、また、自分のなかに身を守り、また傷や病を癒やす神秘な力が眠っていることを知った。
そのことは、最愛の父にすら説明することはできなかった。彼女はひとりで過去の記憶と天与の力を抱え、この先どう生きていくべきなのか考えた。
聖女は一時代に多くてもたったひとりの存在である。その力を世のため人のために使えば、多くの人を救うことができるだろう。
あるいは聖女として生まれたということは、神にその役目を期待されていることを意味しているのかもしれない。
しかし――メリサリアは、そのことを深く考えてなお、自分の力を隠す道を選んだ。
自分が聖女であること、しかも死後、名誉が回復され〈悲運の聖女〉と呼ばれることになったケイリンネの生まれ変わりであることを公表すれば、名誉も富貴も望みほうだいだろう。
だが、それでも、どうしても自分の正体を明かすつもりにはなれなかったのだ。
その理由は、むろん、ケイリンネの記憶にある。
その一生を、彼女の力を求める人々のためにすごし、最後には裏切りに斃れた悲運の人。彼女の人生を思うと、聖女として名乗り出ることがいかに危険なものであるか考えないわけにはいかなかった。
いったん聖女として認められたなら、もう、自分ひとりのために生きることは許されなくなる。それは、やはり避けなければならないことであるように思われた。
たしかに、ケイリンネは死の瞬間、決して自分の選択を後悔してはいなかった。
彼女はほんとうに世のため人のために生き抜き、非命に斃れた自分の人生を、どこまでものびやかに肯定していた。
すごいことだと思う。自分自身の前世ではあるが、とてもまねできないような、まさに〈聖女〉としかいいようがない女性だったのだとも感じる。
しかし、その死の瞬間の記憶は、メリサリアにすさまじいトラウマとして刻み込まれていた。
たしかに、ケイリンネは何の奇跡かメリサリアとしてよみがえった。だが、それでも、なお、ケイリンネという人間が完全に復活したわけではないこともほんとうだ。
メリサリアは、ケイリンネの転生ではあるが、厳密にはやはりケイリンネとは違う人間である。
どこまでがケイリンネでどこからがメリサリアなのか――その境界線はかぎりなくあいまいで不たしかではあるが、完全にケイリンネと同じ人格をしているわけではない。
だから、やはりケイリンネという稀代の女性は、あの日、あのとき、処刑台で死んだのだ。何の罪咎もなかったのに。
死は恐ろしい。メリサリアには、ケイリンネのように見知らぬだれかのために自分の一生を犠牲にするほどの覚悟はできなかった。
だから、彼女は、叶うかぎり自分の力を隠して生きていくつもりだった。
それでも、森で刺客に襲われていたクオリンド王子を見捨てることができなかったのは、やはり彼女がケイリンネと同じく、どこかに人の好いところがあるからでもあるだろう。
その結果、彼女はいくつもの問題を抱え込むことになってしまった。
ただ、ほんとうに自分のことを第一に考えるのなら、クオリンド・シークラーンが持ち込む話など無視してしまえば良いのだ。
たしかにかれがくれるお菓子は魅力的ではあるが、いのちには代えられないのだから。
だが、それもまた彼女にはむずかしかった。自分が力を使わないばかりに死んでいく人がいる事実を無視し切るほど、非情にもなり切れなかったのである。
自分は中途半端だ、とメリサリアは思う。一生を利他に生きる覚悟も、利己を貫き通す意思もない。どこまでもあいまいで中途半端。それが自分という人間なのだろう。それならそれで生きていくしかない。
いま、メリサリアは以前、クオリンドが置いていった箱のなかから一枚のクッキーを取り出し、口のなかに放り込んだ。
甘く、優しい味わいがひろがる。
前世で、その機会がありながら、遠慮してほとんど口にすることがなかったこのような甘味は、彼女にとって幸福の象徴である。
スイーツを食べているときは自分の責務や、罪悪感を忘れ去って純粋な幸せにひたることができる。
思えば、ケイリンネも食いしんぼうで、最後まで甘いお菓子のことを考えていた。彼女は結局、息ながらえてケーキやクッキーを食べることはできなかったが、自分が代わりに食べることは意味があるかもしれない。
いや、たとえそんなものが何もないとしても、もっと甘いものを食べたい、そしてしあわせになりたいと思う。
お菓子は幸福の象徴。いろいろなスイーツを食べているとき、彼女はおくびょうな自分を許すことができるように思うのだ。
メリサリアは一枚一枚、舌鼓を打ちながら、自分の人生と役割に想いを馳せた。
雨の音が、聴こえる。