11.否。
それからしばらくして、部屋のなかから返事があった。
「……入っても良いよ」
クオリンドはあらためて失礼しますと挨拶して、慎重に入室した。そこに、メリサリアが座していた。ただし、今度はきちんと着衣をまとって。
そのようにあたりまえの恰好をしていると、その秀でた美貌は、いかにも貴族然として嫋やかで淑やかに見える。しかし、その頬が紅潮していることは隠せなかった。
クオリンドは先ほど見た彼女の、妖艶というより清冽な裸身を思い出して思わずかっとした。
我ながら子供じみたことだったが、心臓が締めつけられるようで、それでいてほとんど破裂しそうにすら思われた。
あのやわらかそうなくちびるを自分のものにしたい。一国の王子にふさわしからぬ、ケダモノじみた欲望が湧き上がってくる。
それが、おおかた恋ごころと呼ばれる想いであることをクオリンドはむろん自覚している。
十数年前にいのちを助けられてからずっと、かれはこの森の聖女に恋をしていた。彼女のほうは、まったくかれのそのような態度を気に留める様子もなかったけれど。
クオリンドはその場にひざまずき、深々と頭を下げた。
「ほんとうに申し訳ありませんでした、メリサリア。まさか沐浴の最中だったとは思ってもいなかったのです。わたしはただ、あなたが危機にあっているのではないかと思って――」
「ぷんぷんだよ。あなたじゃなかったら、ひっぱたいて追い出していたところだ」
「はい。この侘びはいかようにも。あなたがお望みなら王子の地位から退位することも考えます」
メリサリアはただでさえ大きなひとみをさらに見ひらいた。
「いやいやいや、お望みじゃないよ! あなたという人は、いつも大げさなんだから! それじゃわたしのせいでこの国の政治状況が左右されちゃうじゃない。いや、それはあなたに裸を見られちゃったのは辛いところだけれど、まあ、べつに減るものじゃないし――」
「はい?」
メリサリアは頭を抱えた。
「ああ、もう! 良いよ。わたしのことを心配して入って来てくれたことはわかるし。でも、恥ずかしかったんだからね。反省して、つぎからは絶対に許可を得ないで入室しないこと」
「はい」
「それから、さっき見た記憶は忘れ去ること」
「――はい」
返事が一拍だけ遅れたのは、それが不可能であることがわかっていたからだった。
つい先ほど目にした半妖精の裸身は、すでにかれの心につよく刻印されてしまっている。
いままで見た何よりも美しく、なぜともなく淡い切なさを感じさせる姿だった。忘れ去ることなどできようはずもない。
十年以上まえのあの日、かれのいのちを救ってくれた幼い子供は、いまや匂やかに香り立つような美女に成長した。いま、両ひじをついてちいさな顔をてのひらのうえに置く彼女の姿は、森の美しい魔女とも、この世の彼岸なる別世界の精霊とも見える。
いや、その清廉な姿かたちに最もふさわしい言葉はべつにあるだろう。
聖女――神聖なる女性。まさにその形容は彼女にこそふさわしいように思える。
目をとじなくても、そのなだらかな肩が、やわらかな腹が、すらりとした足が目の前に浮かび上がるようだ。
その眩しいような均整の取れた裸身は、いつまでもこのまま目の裏に焼きついたままなのかもしれなかった。
ただ嫋やかで匂うように美しいだけではなく、どこか妖しくかれを魅惑するような、その姿。
否。
そうではないだろう。
かれのほうにこそ自分を誘ってほしいという邪念があるからこそ、そのように見えるだけなのだ。
彼女のほうにかれを誘惑するつもりなどあるはずもない。彼女は宮廷でより地位の高い男を落とすゲームに夢中になっている貴婦人連中とは違う。
その秀麗な容姿にもかかわらず、どこまでも無邪気な女性だ。その少女のように潔癖な無垢を穢すものがあるとすれば、それは自分にほかならない。
クリオンドはかるい自己嫌悪にかられた。かれにとってメリサリアは単なる美女ではなく、片思いのあいてですらなく、女性の美しい側面の象徴そのものだった。
立場上、宮廷の淑女たちに失望することが多いかれにとっては、彼女は癒やしの水が湧く聖なる泉なのだ。
「よし。じゃあ、話に入ろうか。きょうもべつにうちに遊びに来たわけじゃないんでしょ?」
「さすが、話が早い。いつものように仕事の依頼があるんです。メリサリア、あなたは〈ハイ・グリフォン〉についてご存知ですか?」
「最高位の幻獣のひとつだよね。人に仇なすときは〈災厄級〉と呼ばれることもある」
「はい。ドラゴンに匹敵するほど強大な力を発揮する幻獣です。通常は人に馴れるような生きものではないのですが、百年以上もまえの〈悲運の聖女〉ケイリンネが使役していたことが伝わっています」
「そ、そう。すごいね」
「ええ、まあ、フェンリルの子供を見つけて飼い馴らしたあなたも相当なものですけれど、上には上があるということですね。その〈ハイ・グリフォン〉が一匹、このところ、各地で暴威を振るっているのです。騎士団としては、何としてもこれを討ち取らなければならない」