1.おなかが空いたな。
「被告ケイリンネ・スピネル」
と、そのとき、審問官は居丈高に宣告したのだった。
「聖女の地位と特権に驕り、本来であれば守るべき責務に背いて王と民を裏切り、そのあげく他国と通じて国家に害を為した重罪により、ここに極刑に処する!」
その判決を聞いて、それまで森然と静まりかえっていた聴衆の貴族たちがわっと沸き立った。
そのなかには、この判断をあたりまえのこととみなして喜ぶ者もいれば、不当と捉えて怒り出す者もいたことだろう。
いずれにしろ、ケイリンネには関係がないことだった。国家の重鎮であるかれらにすら神聖審問所の裁定をくつがえす力はないのだ。
名目上に過ぎないとはいえ、国王を含むすべての権力から審問官は独立しており、いったん下された判断が撤回されることはありえない。だから、このとき、ケイリンネの運命はまさに決したのだった。
彼女はわずかにうなだれ、ちいさくため息を吐きながら、しかしまったくべつのことを考えていた。
そういえば、おなかが空いたな、と。
ケイリンネは二十歳。大陸中央部の大国シークラーンの〈聖女〉である。聖女は人を癒やし、結界を張り、凶暴な魔獣をもなだめる不思議な力のもち主であり、すべての神官たちの頂点に立つ。
その上、彼女は歴代の聖女のなかでも最大最高の力をもつことで知られており、またその性格は優しく穏やかで、民衆からは敬愛され、国王からも信頼されていた。
そう、つい先日までは。
それが、職責に背任し、対立する隣国と密通したという証拠が見つかり、ケイリンネは唯一、聖女を裁く権限をもつ神聖審問所で裁かれることとなった。そして、いま、有罪となったわけである。
冤罪だ。
本人はそう知っている。
ケイリンネは聖女の地位を乱用したりしていないし、まして他国と通じた事実などない。
ところが、なぜか彼女の捺印をもちいた書簡が見つかり、彼女に仕える女神官のひとりがたしかに聖女さまは他国の者と密通していたと証言したのだった。
ワナに嵌められたのだ、とさすがにお人好しの彼女にもわかった。しかけた者にも心あたりがないこともなかった。
おそらく、事実無根の証言を行った女神官ジュネッサが犯人だろう。ケイリンネは彼女を信頼し、印を使用することを許していた。彼女以外に証拠の捏造は不可能だ。
いったい、なぜジュネッサが自分を裏切ったのかはわからない。
あるいはケイリンネを嫌う勢力が後ろにいるのかもしれない。そうでなければ、何かジュネッサに憎まれる理由があったのか。
いずれにしろ、ジュネッサと彼女の信頼関係は偽りのものに過ぎなかったと考えるしかない。
そのことを思うと、胸に重いかたまりが詰まったような暗い気分になった。
いつも無口で無表情で、とかく面白みがないといわれるジュネッサのことを、生まじめで誠実な女性だと思っていた。しかし、それは自分の思い込みに過ぎなかったのだ。
ほんとうに自分は彼女の何を見ていたのだろう。そう思うと何ともなさけなく、またひとりぼっちになったように孤独が身に沁みた。
いったい、だれを信じ、だれを疑うことが正しかったのだろう。もはや考えても無意味なことだと思いながら、それでも考えずにはいられなかった。
「ケイリンネ・スピネル、何か申すべきことはあるか」
審問官から問われ、ふたたび静まった審問法廷のなかで、ケイリンネはわずかに顔を上げた。
「何も」
ちいさく首を振る。
「何もありません。すべてはいずれ時があきらかにすることでしょう」
この言葉は、のちに悲劇の聖女の高潔な心をあらわすものとして歴史に残ることとなる。しかし、じつはケイリンネ本人はほとんど自暴自棄に近い心理だった。
信じるべきではない者を信じ、重んじるべきではないことを重んじ、あげく裏切られた自分が滑稽に思われた。
また、すでに裁定が下った以上、この上、抗弁したところで意味があるはずもない。それだけのことだった。
ただ、自分の名が偽りの罪で残りつづけることはやりきれない。無実はいつかあきらかになると信じたかった。
人を信じ、人に裏切られた以上、彼女が信頼できるものはもはや時だけだったのだ。
だが、あるいは審問官はその言葉を傲慢ないい草だと捉えたのかもしれない。かれは目を怒らせ、幾たびか机を叩いた。ふたたび聴衆が盛り上がる。
そしてまた審問官が何かいったようだったが、ケイリンネはもはやその言葉を聴いてはいなかった。どうしようもなく湧き上がってくるどす黒い絶望にうな垂れながら、彼女が考えていたことはひとつだった。
ああ、どうせこんなことになるなら、皆の規範である聖女にふさわしくないなんてかっこうをつけないで、大好きなお菓子をおなかいっぱい食べておけば良かったな、と。