第參拾(58)章:狐 03
文明十七年五月のことである。続成一行が八日より丹波路を進軍中という一報は中旬になる前に直ちに山名家へ伝えられた。だが、山名政豊の反応は思いの外穏健たるものであった。その理由は、以下の通りである。
「ふむ、孫めが千ほどの軍勢を率いて但馬へ参っておると」
「孫」とは、山名政豊が垣屋続成を呼ぶ際によく用いている呼称であったが、その「孫」が手勢を率いて国境へ迫っているという一報を聞いた際に、政豊は穏健そのものといった表情のまま、特に対策らしい対策を行わなかったという。それに対して、普段は物見櫓にいるであろう監視人、つまりは「孫」の軍勢を発見した人物は政豊に対して陣触れ、つまりは出陣を促した。だが……。
「いかがなさいましょう!」
「いかがもなにも、儂を討ち取るつもりであればもっと大勢の軍で参っておろう。単なる挨拶じゃよ」
……だが、政豊は続成の意図を的確に把握していた。と、いうのも政豊が後に語るに曰く、「ここで孫めが儂へ害を為そうとするのであれば、そもそも色々と準備が足らんじゃろうし、第一そもそもこの当時の孫めの立場を考えればなぜ儂に害を為そうとはしないかは、自然と理解できようの」とのことからわかるとおり、この時期の続成は未だ後ろ盾を必要としていた。幕府からそれを拒絶されたことからも、尚更に山名家の後ろ盾が必要であった。無論、物理的軍事力は十二分に存在していたのだが、勢力とは鉄分だけに非ず、金銭面なども勿論必要であるが、勢力が勢力として長期間生存するには、紙、つまりは権威が必要であった。
ゆえに、続成は殊更に山名家との繋がりを大事にし、さらに大内家と山名家が繋がっていることから大内家も存分に活用した。その分、旧東軍勢力とは敵対することになるが、それは些細な事だろう。元々が元々なのだし、是非もないことであった。
「しかしっ……!!」
なおも抗弁しようとする発見者。だが、政豊はさらに決定打を放つ。と、いうのも……。
「では逆に聞こうか、挨拶以上の意味を持つならばこやつらを奪還せぬまま軍を興すじゃろうか?」
……政豊が親指で後ろを指した人物は、いってしまえば続成に対しては人質にもなりうる、垣屋家の主要構成員であった。すなわち、彼達を奪還せぬまま軍を興して敵対するということは見殺しにすると言うことであり、同時にかの神童麒麟児が奪還戦を仕掛けぬまま見殺しにするかと言えば、それは断じていいえであった。まあそもそも、千かそこからの軍勢で山名家相手に人質の奪還戦でもしようものならば流石に命はないだろう、いろんな意味で。何せ、山名家が本国で動かせる兵は、万を超えそれなりに存在する。それを千で、しかも攻略側で挑むのは流石に愚者を通り越して前衛芸術とも言えた。
「そ、それは……」
発見者はたじろいだ。もし、垣屋続成が山名政豊を害しようとすればとんでもない隙を生み出す行為とも言えたが、流石にそれは軍事的常識を考えればあり得ない想定でもあった。
「と、いうわけでじゃ。一色殿には連絡しておくゆえ、城門を開けたまま迎えてやれ。……妙な真似はするなよ?」
「……ははっ」
かくて、政豊は続成との固い仲であるという証明に挑むこととなる。まあ尤も、行為の強調というものはその行為に確固たる自信が無い者の行う行為といえる部分もあったが、そうではなく、政豊はこの続成を信じるという行為がいかに諸国に尾ひれをつけて流すべき情報かを、きちんと理解していた。
「……よろしかったので?」
ぶつぶつ愚痴を言いつつ去る発見者を尻目に、一応は再確認を行う側近。その苗字を田公という。それに対して、政豊は続成との固い仲を強調する行為について、次のように零した。彼自身もまた、その行為を強調するという意味で決して本当に信頼できているというわけでは、なかった。
「よろしいもよろしくないもあるものか。孫めの手勢、本来ならばいくらあると思う」
「は、千を率いている上に、本国にも留守居がいるとすれば、少なく見積もっても二、三千はございましょうな」
この応仁文明の当時、千の軍勢を行軍させる行為ははっきり言って結構な採算を要求する行為であり、また同時に本国近隣ではない場合、兵糧米の調達をはじめ数々の兵站上の問題が待ち受けていた。その問題を事もなげに成し遂げるからこその神童麒麟児といえたわけだが、実は続成の所持兵力は二千や三千などでは、なかった……。
「……摂津全域の守護職である以上、いくら少なく見積もったとしても二十万石は下るまい。二十万もあれば、兵力は如何程養えると思う」
「……百万石で二万五千と考えると、五千といったところでしょうか」
五千。この当時としてはいかに守護職をてこに所領化を進めていたといえど、摂津一国の国力としてはかなりのギリギリであったが、続成の所持兵力は、実は五千などという生やさしい数字では、なかった。この当時に一国だけで、年貢率が外の勢力よりも低いにもかかわらず、既に万を軽々と超えていた。正確な数字は文献によって異なるが、実は摂津一国だけで、どういう論理を以てなし得たかは定かではないが、山名家の但因伯よりも多かったらしい。一説や数え方によっては、新しく山名家が得た播備作を含めてもなお多かったとも囁かれている。
「そうじゃ。そして、孫めの場合は諸大名の数倍は揃えておる。この時点で万は超えよう。その万を率いれよう孫めが、千しか率いておらぬとすれば原因は一つのみよ」
「……して、それは」
「主上の前での馬揃えの後、そのまま来たのじゃろうて。快く出迎えてやらねば、あらぬ噂が立つかもしれん。ここは一つ、儂が城門を見下ろして琵琶なり琴なりでも弾いてやろうかの」
「……どうなっても、知りませぬからな……」
そして、政豊は空城の計を取り始めた。とはいえ、その空城の計は疑心暗鬼を起こすためではなく、「我々は警戒していませんよ」ということを強調するためのものであったのだが。
文明十七年五月中旬、丹波路を無人の如く抜けて丹後にたどり着いた続成一行は丹後守護職であった一色左京大夫の歓待を受けるかと思われた。だが……。
「……おかしいのう」
丹後の諸城は、固く扉を閉ざしていた。原因は不明であるが、その感じる空気(とはいえ、続成はそれを感じていなかったらしいが)は、あまり友好的とは言い難かった。
「弓木、宮津共に、交通許可は出ておるはず……」
弓木城や宮津城には、既に山名家から通行許可の打診が行われており、一色家もそれを既に了承する旨が続成の陣にも届いていた。にも拘わらず、丹後の諸城は固く扉を閉ざしていた。
一体なぜなのか。考えても判らない以上は、軍使や斥候の出番といえた。
「それがし、軍使として見て参りまする」
「おう」




