第貳華(45)章:鈎の陣 01
「進め進めぇっ!! 餓死した奉公衆の弔い合戦じゃぁっ!!」
「上様、お下がり下され! この距離では敵の攻撃をまともに受けまする!」
文明十七年四月十二日、かねてより奉公衆などの領地を横領していた六角氏の征伐計画を練っていた足利義尚は遂に堪忍袋の緒が切れたかのように遠征を発動、実際怒り心頭に発していたのだろうが、その遮二無二攻めかかる戦争態度は、六角氏にとっては思うつぼであった。
と、いうのも六角氏の戦闘教義としては堅固な要塞である観音寺城はあくまでも示威行為のための見せ金に過ぎず、彼らは端っから敵の攻撃を受けた際には甲賀に退くように避難訓練をしていたのだ。
そもそも、六角行高にせよ、この世界では影も形も無い、それどころか産まれるかどうかも解らない武田晴信にせよ、いわゆる居住区域と籠城戦で使う城はある程度離れているのだ。
実は、読者世界で最弱と嘲弄されている小田氏治がなぜあそこまで居城を落とされても復活できたかと言えば、確かに領民を巧みに手懐けていたこともあるが、小田氏治がたびたび失っていた「城」はあくまでも居住区域に過ぎず、詰めの城(上で書いた「籠城戦で使う城」のことを、専門用語ではこう呼ぶ)さえ失わなければ小田氏治はいつでも「居住区域」を取り返せるのだ。これが、小田氏治の不死鳥伝説の絡繰りである。ちなみに、小田氏治の「詰めの城」がなぜ「居住区域」のように奪われなかったかと言えば、そこは宗教施設を兼ねていたためそこを攻めようにも攻めたら民心を失うのでできない、というのが大きかった、という説を聞いたことがある。
話を戻そう。観音寺城は一応、「詰めの城」の役目で築城されたものであるが、六角氏にとって本当の「詰めの城」とは、甲賀全域であった。よく、甲賀忍者と伊賀忍者という区別をされるが、あれは実際のところ「甲賀忍者」は「六角氏」というれっきとした主君があるのに対して、「伊賀忍者」は「雑賀衆」などと同様に「独立した技能集団」であるがゆえに区別をしているに過ぎず、土地が甲賀に属する忍者でも、六角氏を主と仰いでいない忍者であれば、「伊賀者」と認識されうることもあった。
まあそもそも、「忍者」というものは雑賀衆の鉄砲集団同様にただの技能者集団に過ぎず、忍術というものは物理的に説明可能な、ただの特殊な戦闘方法に過ぎない。
事実、伊賀忍者の伝説的存在、「百地三太夫」とて「百地正西」という本名が存在するし、そもそも「百地三太夫」とて代々名乗っている通称に過ぎない。いわば、「親子で服部半蔵」だの「華代目石川五右衛門」だの「悟代目風魔小太郎」だのと同じようなもんである。そして、複数の人間が行った行動を一人に当てはめるから、そりゃ超人にも見えるわけで。
話を戻そう。まあ要するに、六角氏にとっては甲賀忍者軍団は特殊技能を持つ上に自身の家名に忠実な、いわば特殊部隊の存在する地であり、そこに逃げ込めさえすれば正規軍では本来困難な前線の無い戦闘を敵軍に強いた上に自身はその「前線なき戦闘」に対していとも手慣れた存在を護衛人として装備して、尚且つ勝手知ったる土地で迎え撃つことができるのだから、そりゃ六角氏征伐が読者世界でうまくいくはずがないのである。……だが、この世界ではその「六角氏討伐」をたった一家のみで成功させうる大名家が存在した。……言う必要もあるまい、この六角氏征伐ではついぞおよびの掛からなかった垣屋続成である。