第貳漆(39)章:半将軍の罠 01
文明十七年四月八日のことである。垣屋続成の依頼によって行われた菊理媛神社移築作業がようやく完了し、後の官幣大社とされる廣田神社同様に六甲山麓に門前町ごと移転したそれは、当時まだただの寒村に過ぎなかった神戸村を大層賑わせたとされている。後に港町として栄える神戸村に菊理媛神社を移築させた理由として垣屋続成が告知したものとして、水神瀬織津姫との習合ではなく、その理由は定かではないが「菊理媛大社は大層な観光地となるはずである。ゆえに、所領に抱き込むことにした」ということである。なぜ、菊理媛神社がそこまでの観光地となることを垣屋続成は予知しえたのか。一説には「菊理」という名自体が既に吉祥であるとされているが、垣屋続成の言説以外では昭和の頃でもその理由は定かではなかった。
そして、摂津国を初め周囲の分国に着々と影響を及ぼし始めていた垣屋続成は自身の知らぬうちに足利公方家を中心とした幕政の派閥争いへと巻き込まれていくこととなる……。
文明十七年四月十日、公方御所にて足利義政は苛立ちと共に細川政元に対して詰問を開始していた。
「右京、富良東を許すとは本気か」
「はい、あのまま放置しておいては加賀国は恐らく一揆衆の手に落ちていたでしょう」
一方で、詰問されているにも関わらず涼しい顔をして答える政元。確かに、読者世界において加賀一向一揆で富樫氏をはじめとした守護勢力が殺され「百姓の持ちたる国」という汚名を背負うことになったのは皆様ご存じであろうが、その一報を聞いた際に足利義尚が激怒し、自身が指揮を執って征伐に行くと気炎を吐いていたことを知る者はあまりいないかもしれない。
政元は更にこう続ける。
「畏れながら大御所様、加賀で一揆が暴発して加賀守護が転覆して幕政の権威が落ちるか、それとも私戦であることを理由に幕府は両成敗ないしは静観の立場を取りかの富良東めが戦力を消耗して帰ってきた所を更に遠征軍に組み込んで徐々に疲弊させるのと、どちらがより正解でござりましょうや」
「……二虎競食か」
「然様に」
足利義政は、富良東宿禰こと垣屋続成が嫌いであった。それは何も垣屋続成が赤松家崩壊の引き金を引いたからと言うだけではない、儒学にそっぽを向き、身分というものを歯牙にも掛けず、さらには公儀に公然と楯を突く態度は暗に義政に対して「お前は無能だ」と言っているようなものであった。だが、それすらも表層的な枝葉に過ぎず、根本的な原因は別にあった。なぜ、義政は続成を嫌っていたのか、それは……。
「そもそも、あの策が成れば富良東めも公方様に従うはず。なれば、かの軍事力が座して手に入るのでございます、なにゆえに嫌うのでございましょうや」
「……右京よ、儂が富良東ずれを嫌っておるのはあやつが公儀に逆らったりすることではない、そんなことで足利公方家が揺らぐはずがあるまい」
「……なれば、なおさらになにゆえでございましょうや」
「……あやつは、富子の所業を見てなんと言ったと思う」
「……ああ、そのことでございますか」
……垣屋続成は、日野富子の所業を公然と批判していた。否、それだけではない、続成が批判したのは日野富子を批判したというよりは「有徳人は衆生を救うために徳を貯めているはずだ、そうでないならば、一揆を起こされても仕方ない」というものであった。それはすなわち、修正資本主義を知るが故の原始資本主義への批判的目線であった。まあそもそも、この時代にその目線ができるのは続成ただ一人であり、資本主義自体がまだこの世に無い現状を鑑みた場合、その目線は未来志向どころか完全なる譫妄ととられても仕方のないものであったのだが。




