第壹拾(26)章:誕生、富良東宿禰! 01
文明十七年一月、三が日も明けて君が峰城での落城を機に形ばかりとはいえ首実検が行われている最中である。珍しく垣屋孫四郎こと続成がうなり声を上げて硯とにらめっこをしていた。まあ、昨日の今日で急に家名を新しく作れと言われても難しかったのか、あるいはそれほどまでに「垣屋」という家名に愛着があったのか、急がせていないというのに彼は何事かに悩んでいた。
当初、「若はそこまで垣屋という家名が好きなのか」と感心していた家臣団も、さすがに職務に差し支えるほど悩んでいることを考えて孫四郎に話しかけたら、帰ってきた返事はこれであった。
「いや、家名を変更するのはもう決めてある。ただ、姓も一緒に申請した方が良いと思ったわけだが、姓に悩んでいてな。ちなみに、家名は垣屋から富良東に変える予定なのだが、いっそのこと富良東を姓にして新姓を賜るのもありかもしれんと思ったのだが……朝廷への伝手がないでな。どうしようか悩んでおったのだ」
そこまで決まっていれば話は早かった。垣屋家は平氏姓であったが、あまりに山名と一緒に居すぎたため源氏と勘違いしている者も大勢いたこともあって、ここで新姓下賜を受けるというのは案外、悪い手では無かった。問題は、朝廷との伝手であったが……。
文明十七年一月、月も変わらぬうちに続成に来た返事は色よいものであった。
「若、伝手が見つかりました」
「えっ、もう?」
さすがに、この時期の伝達速度を考えた場合一日二日では協議すらされまいと普段の政務を執っていた矢先のことである。無論、一日や二日ではなかったのだが、月の変わらぬうちに朝廷との伝手が見つかるとは、さすがの彼も予想外であった。そして、その「伝手」とは……。
「ははっ。惣領閣下の同盟者はご存じでしょう」
「……誰?」
「……。周防介様で御座います。大内周防介様は御相伴衆にして従四位上、更には左京大夫にして朝廷とのつながりも固うございます。ここはひとつ、介様を介して交渉してみては……」
なぜ、国司でもない介の者が左京大夫に任じられているのか。まあ言うまでも無く、周防介とは鎌倉時代の頃の官位であり、左京大夫というのは当代の大内氏の官位であった。鎌倉時代から室町時代にかけて、主に後醍醐天皇の所業によって武家の官位は飛躍的に向上しており、さすがに上達部こそそこまで多くは無かったが、殿上人程度ならば守護大大名の「たしなみ」と言える状態にはなりつつあった。とはいえ、続成は現代人であり、さらに言えばそこまで造詣の深い人物ではなかった。故に、それに対する返答は一般人でしかなかった。
「幕府じゃ拙いんか?」
「お戯れを、播磨へ侵攻した時点で幕府はおかんむりでございますし、幕府は代々山名には冷とうございます。色よい返事は得られぬでしょう」
幕府が山名に冷たい、というのは正確では無かった(そもそも、山名家は足利一門の一人である)が、足利幕府が何に警戒していたかというと、言うまでも無く源氏伝統のお家騒動であり、一門衆というものはそれだけで警戒すべき対象であった。さらに言えば、山名家は一応大大名の部類に入るし、先代山名持豊は非常に強い軍人であった。取って代わられることを警戒した幕府は、あえて赤松氏に播備作への復帰を許可したのだが、現在の状況はまあ、言う必要もないものであった。
「……そうか。で、俺に話すってことは……」
で、その「若」に進捗を話すということは、すなわちそういうことであった。
「はい、既に伝手は出来ております。周防介様も、有馬の活躍や三木郡攻防戦のことはお耳に届いているようで……」
大内政弘の耳目にも、続成が有馬で赤松家惣領を暗殺したり三木郡公我峯城での尋常では無い戦働きをしたことについてが届いており、味方が増強されることを考えたらまず色よい返事が出せる内容であった。……お忘れの方もいらっしゃるかも知れないので記述しておくが、応仁の乱が一応の形をもって終結してから、まだ五年六年程度であり、家臣団の中には東軍と戦った記憶の濃い者も、まだ健在であった。ゆえに、まだまだ東軍の、細川や赤松を仮想敵として扱う国衆は大内や山名の家中にはごろごろと存在していた。……そして、その返事の内容とは……。
「……具体的に、どんな返事が得られそうだ」
「ははっ、若にはまず、殿上人となって頂きまする」